癒しはあなただけのもの?

December 08 [Tue], 2009, 23:01
私はいつも毎日の生活で出会う全てに支えられ、学ばせていただいている事を痛感します。
誰かの一つの言葉も、投げかけも、知らない人の電車でのマナーであったり態度一つでも。

昔はただただイラついてストレスだけが募っていくだけでしたが、
今は気分がいいとは言えないけど、あらいる出来事に会うたび気づかされる事でいっぱいです。

過去の出来事は何一つ真実は変わらなくても、私の心の状態、認知の健やかさ全てでその出来事全てが怒りとなり、また喜びとなり、変化するのです。それを痛感でき、またそれを改めて諭してくれる為のテキスト作りだったという事を知りました。子供がテーマのテキストだったので、生い立ちについて考えてみたのです。

自分が母となり、また母を思い、そして小さな頃の私から見た母ではなくて、今の冷静で許す事と学ぶ事を知った私から母をみてみる。

また、母の性格環境全てを見通して、母になりきって私という人間を育てようとした時の状況を捉えてみる。
学べば学ぶほど、許せない存在が消えていく事の驚きと、癒しには、学びが必要だと感じる瞬間に出会えます。

真面目過ぎるほど、真面目で正直だったからこそ、不器用すぎた事や、またその正直な気持ちを貫くために選んだあらいる選択に本人が気づいていなかったのではないかという事まで。

そんな事を考えていた矢先に母から電話があり、それとなく母にその事を伝えてみる事にしました。
やはり、無意識のうちの選択の中に自分のコアなスタイルがきちんと織り込まれている。
それが最終的に、私にとって最高の糧を沢山もたらした事となり、を心から感謝している。

そう思えなかった時期は、一般的な概念と同じく地獄でしかないとは思うけど、全ては今こういして自分が立つ場所に全て必要だった経験だと認知すると、何もかもが変わっていく。

時に、人は加害者に対して、ある段階にくれば、相手の人生の為に優しさを持つ行為をする時期が与えられる事もある。
私にとって、必要ないアクションでもやらなきゃいけないときもある気がする。
被害者だと思っている側が、被害者でなく、学びを与えられたという事に気づいた時、
無意識の中で、私の学びの為にさせていた行為全てにおいて、自己を責める人がいれば、学ばせていただいた感謝の気持ちを表さないといけないときもあると思う。

相手が真面目な人だった場合、それはより自分を責めて生き続ける事を止められないと思う。

私自身の問題で卒業して楽になれただけでは、もしかして駄目だったかな?と思った。
思った以上に私は逞しく、あらいる困難という課題となんだかんだで乗り越えていく。

ただ、その状況で自分の家族を見たときに、「あなただけいいわね」というニュアンスが見えるときがたまにある。
温度差を見ないで、いや、どこか上から見て「あら、大変そうね〜」と心のどこかで笑ってたのかもしれない。
許しを覚えた人間が次にする事は、許されたという事を相手に伝えたり、諭す事もまた1つの課題ではないかと思うのです。

縁が深い関係である場合、伝えるから諭す事を求められるのではないかと思う。

ふと、私は自分だけ、の癒し為行動だったのかという事や、もちろんその時期も必要であり、ある程度落ち着けば、他に対しての関わりにゆとりを持たせる事が必要になるという事に気がつきました。

癒しのステップにも、段階があるのではないかなと思う。
自己の事だけを考える時期も絶対必要だと思うし、
また人はそこで満足したり、そこがゴールでない事を知る機会が与えられるという事も。

本が私を諭してくれる事も多いし、
またマットの上でポーズが上手に出来るというような捕らえ方ではなく、
マットの上でどんな精神が出ているか?望んでいるのか?
という事の根本が私が思っているより出ていたり、答えが見つかるときもあると分ると、
ある程度体調悪くても、マットの上に立つ意味が少し私になりの答えとして見つけられたかもしれない。

どんなエゴで私はその場所で立とうとするのかが、
私の今日の1日の根本的自分を知ることかもしれない。

私の事だけ考えないといけないときもあるし、
それでは前には進めないときもある。

どちらが良い悪いではなく、状況に合わせた思考と行動を選択できるかという事が大切なんだと改めて感じました。

良い悪いで物事を遂行する事の愚かさを私はもっと見ないといけなんだろうなと反省中です。




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