「パッション」感想+疑問いろいろ

September 23 [Sun], 2007, 1:21


コメントにてご紹介いただいた映画「パッション」、ようやく観ることができました。

きっかけとなった劇団四季「ジーザス・クライスト・スーパースター」とは比べられません。エンターティメントであることを高らかに肯定している「ジーザス」とは違いすぎますので・・・。

メル・ギブソンが構想10余年、私財をなげうって制作したという、イエス・キリストの最期の一日を描いた映画です。

まず、延々と克明に続く受難(パッション)の残酷描写に圧倒されます。
ムチ打ちの刑の段階ですでにイエスはボロ雑巾状態。ただのムチではなく、先に釘のようなものが着いた、見るだに恐ろしいムチ。何度も、何十回も、背中も胸も打ち据えられ、皮膚はどこもかしこも引き裂かれ、つながれた手首も血まみれ。石の床にはおびただしい量のイエスの血が流れる。

疲れきったイエスが重い十字架を背負って坂を上るシーンも、何度も倒れ、打たれ、罵倒され、本当に辛い。目を背けてはいけない・・・と思いながらも、上りきったところで手足に釘を打ちこまれるところだけは正視できませんでした。

しかしながら手元のダイジェスト版をひもとくと、とても聖書に忠実な描き方をしているんですね。驚くほど誇張やつけ足しがない。
鞭打ちの合間にローマ兵に侮辱されるあたりなど創作かと思ったのですが、そのままありました。最後に起こる地震や、復活の際に残る掌の穴もそのままです。

意外だったのは苦しみのリアクションがかなり大きいこと。鞭を打ち込まれるたびに呻きを上げて身体を反り返らせる。従容として鞭を受けるようなイメージはない。十字架の重さに白目をむいてひっくり返るような部分もある。
ああ、イエスであろうと、痛みは我々と同じなのだ。神の子だから心頭滅却できていたわけではない。

【テーマは「痛み」?】

なぜここまで・・・?とは、当然湧いて来る思いです。

多分、イエスの味わった苦しみを、できる限り体験せねばならないのだ・・・と思いました。
母マリアが泣かずにゴルゴタの丘まで登りつめていくように、私たちも一歩ずつ、鞭打たれ血を流し、重い十字架を背負って歩くイエスに付いて行かなくてはならない。およそ二時間、とにかく目をそらさずにイエスの受難の残酷な光景を見続けるのが「パッション」が我々に求めていることなのではないか。

いやもちろん、映像を観たくらいで一本のムチの痛みも理解できるわけではない。
しかしメル・ギブソンは映画の可能性を信じたのだろう。

だって、イエスは我々すべての罪を償うために、我が身にこの苦痛を求めたのだから。


【非信者の素朴な疑問】

・・・・しかし・・・観ていて私は思いました。
一人の人間にこれほどの苦しみを与えてまで、自分の罪を免れたいと、思うでしょうか・・・(Q1)
私は、思わない。

多分私はいろいろと罪深い人間なのだと思っているけれど、だれか(イエス)に、苦しみを代わって貰おうとは思わない。

・・・・マグダラのマリアに石を投げつけることのできない我々には、すべて罪があるのだ(キリスト教的には)・・・と思う。

けれど自分に罪があるのなら・・・・・罪は自分で贖わねばならず、罰は自分が受けねばならない。何らかの形で。

・・・というか、他人が代わりに苦しんでくれることでは、自分は絶対に救われないと思う。
心の中の「罪悪感」は、増大するばかりではありませんか。

そのあたりが理解できないのは、私がキリスト教徒でないからなのでしょうか?(Q2)
信じることで、理解できるようになるのなら、教えて欲しいです。

そして、信じるのなら、処女懐胎から奇蹟物語まで何もかも信じねばならないでしょうか・・・?(Q3)
私ははるか以前、友人にこの説を唱えられてからキリスト教を敬遠していましたが、このごろ、一人の人間としてのイエスの生涯に寄り添ってみたい、もっと深く知りたい・・・と強く思っています。


【他の登場人物】

息の抜けない映画ですが、回想シーンのマリアと子どもらしいイエスのやりとりにはちょっとホッとしました。母親としては気丈過ぎ、息子の死ぬ日に狼狽も動転もしないマリアですが、生まれたときからわが子を崇めていたのではないのですね。

マグダラのマリアは、最近のいろんな解釈(妻だとか一番の弟子だとか)を何らかの形で盛り込むのかと思っていたけれど、割合普通でした。

弟子達は、ペトロの否認などほぼ聖書どおりですね。ユダの死にざまは印象的です。

ローマ総督のピサロも、良心と迷いを持った人物として、聖書に忠実に誇張なく描かれていたと思います。

【キレネ人シモン】

一人、とても共感できる人物がいました。
十字架を背負いきれないイエスの手伝いをさせられる人物(聖書ではキレネ人のシモン)です。

映画では、始め「俺は罪人じゃない(こいつとは違う、ムチ打つな)」と言っていたのに、次第にイエスに同情し、何度も倒れるイエスを励まし、支え、「俺はもうどうなってもいい!」とまでローマの刑吏の前で叫ぶ。個人的に一番救いを感じた場面でした。

何派でも狂信者でもない、イエスと何の面識もない、ただの一人の個人が、自分の言葉を叫んだから。
シモンが、短時間で変化したのはなぜか?(Q4)
○イエスを「救い主」「神の子」だと感じたからなのか。
○罪のない一人の男がこんなに酷い目に合わされる理不尽に、同じ人間として怒りを覚えたのか。
○自分に罪がないことを知りながら、他の人々の罪を許してもらうためにこの苦難を受けるイエスのことを理解し、弟子のような気分になったのか。

私は、気持ちとしては二番目の説を取りたいです。
近代以降の、ヒューマニズム派っぽいですが・・・個人の自発的な良心を信じたいのかも。

【イエスの目的とは?】

どうも信者でないせいか、やはり「イエス一人が苦しむことで全人類を救ってくださっている」という考えが気持ちに収まらない。

以下も、信仰なきゆえに自由勝手に浮かんできた疑問を書き綴っています。
幼稚な疑問、タブーに触れる疑問などあるでしょうけれど、どうか一緒に考えてくださると嬉しいです。

イエスは、多くの人々の見ている前で、惨めに拷問を受け続ける姿を晒し続けた。
そして多くの人々の総意の下に十字架の刑によって殺された。

それこそが「イエスの望んだこと」「イエスがエルサレム入りした目的」だったのですよね。
何のために・・・?「すべての人々の罪が許されるように・・・・」。
神のひとり子として・・・?それとも一人の人間として・・・?(以上Q5)

イエスは、自分が「神の子」で「救世主(メシア)」だなどと言ってましたっけ?
一人の人間だとしたら、たかが自分の命一つですべての罪を許してくれとは、誇大妄想的ではないかしら・・・。

○でもそれが、悪魔に対するイエスの挑戦だったのでしょうか?
○いや、形骸化したユダヤ教、パリサイ派やサドカイ派の奉じる古い律法に対する挑戦だったのでしょうか?
○それとも、無慈悲で恐ろしい怒る神、裁く神、に対する挑戦なのでしょうか?
(以上Q6)

イエスは神の許しや愛を説いた。しかし、既存の神に反逆しているわけではないでしょう・・・。
だって、十字架上でイエスがつぶやく「エロイ・エロイ・サバクタニ」(我が神、どうして私をお見捨てになったのですか)は、旧約の詩篇の一片であり、神を恨むものではない。

そして、イエスの人生は全くオリジナルなものではなく、旧約のイザヤ書に予言されていたことに近いという。
○「救い主が民に侮辱され、迫害されて多くの人の罪を負って死ぬ」というイザヤ書の予言を、イエスは体現して見せたのだろうか。
○預言者イザヤがイエスの誕生から死までを予言していたのだろうか。
(以上Q7)

【神か、悪魔か】

聖書に忠実なこの作品の中で、謎の存在は、黒い布に身を包んだ性別不明の超越的な人物(神?悪魔?)です。

冒頭ゲッセマネの園で「神よ」と呼びかけるイエスの前に現れる。
神なのかとも思うけれど、どうみても悪魔っぽい。
だとしたら「荒れ野の誘惑」を重ねているのかもしれない。

「一人の男がその苦しみに耐えられるのか?たった一人ですべての罪を背負おうなどと・・・・」と、イエスの挑戦に否定的。
その上、イエスの足元にヘビが狙って絡まりついてくる。イエスが激しくこれを踏みつける。
ここは意外なほどのイエスの強烈な意思表現。

・・・黒い人がニヤリと笑った。・・・・ゾッとした。これは神ではない。

恐ろしい顔の赤ん坊を抱いた母親のようにも見えることもある。聖母子のネガ?

銀貨30枚でイエスを売った、裏切り者のユダの前にも現れた。ユダはその後も悪魔的風貌の少年達に襲撃され、砂漠の真ん中で自ら首をくくって死ぬ。
恐ろしく情を挟む隙のない、即物的で印象的な場面だった。

その後も、イエスについて人混みの後ろに現れ続ける。
最期、イエスが絶命し、雷鳴がとどろく場面では、カツラを飛ばし、天に向かって叫ぶ。歓喜なのか絶望なのかも良くわからない。(Q8)

なぜ悪魔は付いて回るのか。イエスが苦痛に耐え切れず信仰を捨てる瞬間を見届けるために。
この試みは挫折した。
ムチ打たれながらもムチ打つもののために祈り、十字架の上でも誰を恨むこともない。
悪魔は負けたのだ・・・・。

しかし、これ以降も世に悪魔のいなくなった形跡はない・・・ですね。
悪魔がイエスを籠絡させると言う野望は敗れたけれど、悪魔は常に世の中を見続けている。あらゆる人の心の中に、簡単に入り込む。

だから・・・キリスト教を信じて身を委ねるよりも、一人一人がキリストの人生を追体験することが、悪魔の誘惑と戦う方法のような気もするのです。(あ、そうするとメルギブソンの意図もはっきりするかも・・・)

【レビュー探訪】

うーん、どうもわからない。
これはちょっと考え切れないので、珍しくamazonの映画評など見に行きました。150件のレビュー、すごいんですね!
つらつら〜〜と読むと、大体、信者の方と一般の方で違ってきます。

「キリスト教を信じない人には伝わらない」
「キリスト教についての予備知識がなければ辛い」
「何も予備知識なんていらない。イエスの姿を見て、自分が何を感じるかだ」

比較的肯定的意見が多く、「生涯で一番感動した」というほどのものもたくさんありました。否定的意見は、「残酷シーンが多すぎて悪趣味」みたいなものです。信仰のある方には評判がいいみたいです。

しかし、私の知りたかった「黒衣の人間」の意味については、「多分サタンだろう」以上の考えは見られず、それが少し残念。

字幕版で観ましたが、制作者の希望により日本語に訳出しないという部分が多く、それも理解の妨げだったような気がします。

わからない部分は多いですが、疑問はだいたい形を成してきつつあるようです。
ある日突然、ひらめくように腑に落ちることもあるでしょう。

非常に迫力のある、制作者の情熱のこもった映画でした。
イエス・キリスト像を訪ね歩く者には、避けては通れない作品だと思います。

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プロテスタントに関する知識はあまりないのですが、カトリックと違い、幾つもの系統があって統一見解はないんだそうですね(違ってたらゴメンなさい)。礼拝を「受ける」というのが良くわかりませんが、私は多分ないです。神父さん(牧師さん)のお話を聞いたことは何度かありますが。

宗派による教義の違い、と言うものにはあまり興味がありませんでした。宗派による解釈が生まれる前のイエス像やイエスの教えというものが知りたいです。「パッション」もそこに立ち戻ることを教えてくれているのかな・・・とも思いました。

教義あるところ、否定すべき外部(異端・他の考え)が生じます。
私は宗派の見解(三位一体とか、マリアの解釈とか)を勉強することから入るよりは、聖書の研究書(信仰の立場からは認められないものも含めて)や、イエスの生涯を描いた作品を見たり読んだりすることで、アプローチしていくような気がします。
少なくともその作品は、「教義に則って」描かれたものではなく、制作者個人がイエスの生涯に真摯に向き合うようにして作られたと思うから・・・。迫害者だったパウロや疑いのトマスのように、疑うことから近づいて行くのもありですよね。

なるほど!!旧約聖書と新約聖書の話も面白いです。ありがとうございます。
新約・旧約と言うのは主にキリスト教側からの囲いであり、ユダヤ教徒にとっては旧約がすべてですからその言い方はないですよね。同時に、イエスにとっても神の教えは旧約と言われるものの中にしかなかったわけですよね。新約部分を取っ払った状態の旧約のみの聖典、と言うものをイメージしなくてはならないかもしれませんね。

キリスト教は、現世利益を求めない「罪の自覚と救済」という特徴を持つ宗教だと思っているので、原罪は大きなテーマかと思います。原罪にせよ生後生じた罪にせよ、その自覚のない人にとってはキリスト教はどういう意味があるのかよくわかりません。罪を犯さぬようにし、罪を犯した隣人達のために祈る・・・のでしょうか。考えてみたいです。できればまたお付き合いください。

by きのこ September 29 [Sat], 2007, 11:49

キノコさんは礼拝を受けた事がありますか?
私が受けている礼拝はプロテスタントなのですが、
礼拝には、説教といって牧師が聖書から話のテーマとする部分を選び、そのテーマに沿って話す時間があります。
そこで話される内容というのは、その聖書の部分について書かれた当時のバックボーンについて語るということはあまりありません。
それよりも、その牧師の過去の経験であったり、現代の日本の状況であったりを聖書の一節に例えて話すことがほとんどです。

旧約聖書と新約聖書とは、救い主(=キリスト教においてはイエス)が現れる前に結ばれた契約が旧約、救い主が現れた後に結ばれた契約が新約という意味なので、
イエスの時代(活動していたのは約3年ほどのみですが)の礼拝での聖典は主として旧約聖典です。

その時代の礼拝様式は皇帝礼拝ではありましたが、
人民の中で今の礼拝であるように、話し手がイエスの活動を旧約聖典に沿って話していたのかもと私は考えています。
ーーーーーーーーーーーー
原罪については正直あまり考えた事がありません。
(営利団体が『あなたを原罪から救います!』としていたのを見て、嫌になってしまったので。)
ただ現代の人間が科学技術の恩恵を受けた反面、
環境に与えてしまった変化の余波を次の世代は受けていかなければならないように、
何かしら先人の行いはその後の世代に影響していくのではないかとは思っています。



》私も文末になってしまいましたが、まさん、初めまして。
こんな若造の話を参考になるといって頂けて驚きました。お声掛けて頂いてありがとうございます。

by あや September 27 [Thu], 2007, 18:45

キコさん、見ても大丈夫です。見た方がいいと思います。そしたら是非ご意見聞かせてくださいね。

>メル・ギブソン監督は敬虔なカトリック教徒と聞いたのでこの映画は信仰の視点が大きいのかもしれませんね。
映画では、三位一体のような超越的なイエスは感じられませんでした。とても人間的に感じましたが、最後一瞬だけ出てくる復活後の風貌は、凛々しく雄々しすぎて、少しばかり違和感もあります。

>映画に関係なく言えば、イザヤに限らず、旧約聖書で語られている「いつか来るメシア」がイエスである、とするのがキリスト教だと思うのですけど。

そうですか・・・旧約についてもちゃんと読み直したいと思っています。
そのイメージは民衆にも広く共有されていて、イエスを崇拝する現象を生んだのだと思います。しかしこれはイエスにとってどうだったのでしょうか。進んで旧約のメシアのイメージを体現しようとしたのか、重ねられて迷惑だったのか。

L5Yご観になったんですね!
井手さんも評判がいいようですが、私は二列目の真ん中辺り見た、という幸運が邪魔をして、キャシーには肉体にも息遣いにも生々しさ(悲しさ)を感じさせられました。
対してジェイミーには、あれだけ至近距離でどの方向から見ても絵になっており、重力にも縛られず、あんなに動いて息も乱さず歌は完璧、生身の悲しみも限界も感じさせられることがなく、美しくも憎らしい男だなぁ・・・と、溜息モノでした。
(なんとなく磐音様にも通じますね。)

by きのこ September 27 [Thu], 2007, 0:11

あやさん、推薦と感想ありがとうございます!

>『キリスト教徒』と言っても、プロテスタントかカトリックか、またどの教団に属しているかなどで在り方は違います(後略)

カトリックの立場で映画を作ったのかどうかわからないのですが、宗派を超えて、一人の人間としてのイエスの最期の一日に向き合おうとしたのかな・・・?と感じました。

>ですから、理解出来ない所があったとしても一概に『キリスト教徒なら理解できる』『キリスト教徒ではないから理解できない』とは言えないのではないでしょうか。
・・・その通りですね。「理解する」にこだわるより「痛みを感じる」ことがテーマなのかな?

>しかし『書かれている』という事実と、『書かれている事が事実』ということは違います。


すごく良くわかりました!すっきりしました。

友人は(故人ですが)、いろいろ考えたあげくに「疑うことをやめた」のだそうです。
私は「信仰する」ことができないゆえに、信仰の場の中心に居るイエスに所詮近づけないんだ、近づいたとしても本質的にアプローチが違うんだと思って半ばあきらめていました。
今ではあまりこだわっていません。自由なアプローチでイエスに近づこうとしている試みがたくさんあるので。また何より、イエス自身が既存の宗教宗派に対する反逆者でしたよね。囚われない、勇気の人だったと思います。

>『免れたい』から信者になるのでなく、
『免れた』事を知り、悔い改めたり感謝するのが在り方かなと思います。

あやさんは、原罪についてどう思いますか?ニーチェが「アンチクリスト」でこれを否定したのはスゴイと思いましたが、やはりどこか自分の中に原罪を感じてしまいます。生きている以上、誰かを犠牲にしたり踏みつけにして生きているんだと。不必要な罪悪感を抱えて生きるのは、自らを鎖につなぐような愚かなことなのか。しかしこの種の敬虔さは、人間にとって必要な徳のような気もするし、わからないのです。

黒い存在について。
>ぞっとする感じのイメージが、私の中では黙示録の破滅の辺りのイメージ
そんな感じもしますね。
サタンだとしても神と対立するような超越的な感じはなく、ひたすら悪意や嫉妬などの人間的マイナス感情の塊のようにも見えました。もしかしたらイエスの中にもいて、それと戦いつくして克服したからこそ復活できたのかなと。

by きのこ September 26 [Wed], 2007, 3:05

はは、勝手に恒例、主の留守中になんとやら、
キコさん。うすぅく、お久ですっ。
で、まだ未見なんですよぉ、ジェイミー。なんとか観られるように野暮用をいっしょ懸命、斬ってますぅ。

パッションも同じく未見にて。ご縁まち、っすね。ただぁ・・
昔拝見した映画作品で、たぁぶん?同タイトルの、パッション、というキリストさん主題の作品を観たのですが、内容はさっぱり憶えておらず。ウイリアム・デフォーなる役者さん、が主演だったのだけ憶えておる体たらく。これも機会をみて再鑑賞したいところです。

文末ながら、あやさん、ども、はじめましてです。
とても参考になるお話、こっそり覗かせていただいております。ありがとございます。

by ま September 26 [Wed], 2007, 0:27

きのこさま
パッション、興味はあるのですが
前評判を聞いて怖くなり、見る勇気が出なくて・・・。
メル・ギブソン監督は敬虔なカトリック教徒と聞いたのでこの映画は信仰の視点が大きいのかもしれませんね。
見ていないので、何も語れないのですが、
きのこさんの疑問のQ7のイエスの生涯はイザヤが予言したことか・・というのは
映画に関係なく言えば、イザヤに限らず、旧約聖書で語られている「いつか来るメシア」がイエスである、とするのがキリスト教だと思うのですけど。

記事違いですけれどL5Y観ましたよ。
井手さんもとても素敵で前回より大人の恋愛ものに
なっているように感じました。
ジェイミーは魅力的だけれどずるくもあり、弱さもちょっとあるかな・・。
色々不満はあっても、あの笑顔には勝てない、
そんなジェイミーに山本さんぴったりですよ。
あ、それから・・ま さんこんにちは!
お会いできて嬉しいです。
ジェイミーはご覧になりましたか?
(きのこさん、記事違いごめんなさい。次回は移動したほうがいいですね!)

by キコ September 25 [Tue], 2007, 22:12

こんばんは、きのこさん。
先に書きました業務連絡について、どこへ書き込んだかわかんなくなってもた。すまんです。
で、お気にされていても申し訳ないので、こちらへ補記を。
まとめれば、「書いてあるが見えないこと」についてのお話です。昨今書いた引用ネタを踏まえてお読みを。

貴宅の過去記事、コメント者さんに触れた一部について、ご本人様は書いてあるが、どぅもきのこさんが見落としているかもぉ〜と思われることを書きました。
但し、先様の事情も鑑み、騒ぐな。とも書きの。世界をまたにかけて楽しんでいらっしゃる方とお見受け。まんず心配もいらんでしょう。とはいえ、こりらすべて自分の判断ですがの。

何かと気をつけていらっしゃるとは思われますが、ほかにもあればそれなりに。間ぁ見ては、ゆっくり振り返られたし。もち、自分の見間違いということもあり。その節には、あしからず。

by ま September 25 [Tue], 2007, 1:52

パッション、キノコさんにとって悪い印象のものでなくてよかったです。
いくつかにコメントさせて頂きます。
(とても長くなってしまいました。すみません。)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

》Q2
理解出来ないのはキリスト教徒ではないからか。

『キリスト教徒』と言っても、プロテスタントかカトリックか、またどの教団に属しているかなどで在り方は違いますし、
もちろんプロテスタント同士だから、同じ教団だからと言って同じ考えを持っているわけでもありません。(逆に全員が違うとも言えませんが)
ですから、理解出来ない所があったとしても一概に『キリスト教徒なら理解できる』『キリスト教徒ではないから理解できない』とは言えないのではないでしょうか。
(ただし、聖書やキリスト教自体への精通で言えば違いはあるとは思います。)

》Q3
信仰=処女懐胎・奇跡物語を信じる事なのか。

(上の文章を踏まえて読んで頂けると嬉しいのですが、)
聖書の中に記述として『書かれている』ということは事実です。
しかし『書かれている』という事実と、『書かれている事が事実』ということは違います。
少なくとも私は『書かれている』という事実は受け入れていますが、
キノコさんのご友人の様に、全てを肯定することはできません。
そして同時に全てを否定することもできません。

(キノコさんが時々されている生物学的な話の方面から言えば有り得ないと考えるとは思いますが、『100%ない』の証明は非常に難しいのです。)


》Q1
については簡単に私の考えのみ。
『免れたい』から信者になるのでなく、
『免れた』事を知り、悔い改めたり感謝するのが在り方かなと思います。

ーーーーーーーーーーーーーー
》Q8の黒い存在については、私もとても気になります。
ぞっとする感じのイメージが、私の中では黙示録の破滅の辺りのイメージと重なってしまうのですが、
獣=666とは繋がりにくいので、
やはりサタンなのでしょうか?

by あや September 23 [Sun], 2007, 21:27

一人突っ込み。
(Q1)イエスは苦しみを肩代わりしてくれる人じゃなく、苦しむ者のそばに寄り添って同じように嘆き苦しみ、一緒に歩いてくれる人でした。そのために自分の身に最大限の苦しみを求めたと。
遠藤周作「イエスの生涯」のイエスはそういう方でしたね。奇跡も何も起こせない、無力なイエスは、「パッション」に重なります。

by きのこ September 23 [Sun], 2007, 15:12
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