谷内六郎のカレンダー

February 13 [Fri], 2015, 11:00
もう二月なんですが、正月に書きたかったネタを。


《図1》

これ、ご存知ですか?
新潮社で毎年出してる、谷内六郎のカレンダーです。

「週刊新潮」でずいぶん長いこと表紙を書いていらっしゃった画家さんなので、絵柄を見れば誰でも思い出すことでしょう。
カレンダーは来たものを使っている、という無粋な私ですが、このカレンダーだけ3年買い続け、今後も買う予定でいます。

実は、実家の父がだいぶ前からかずっと使っているもの。
それも、最新版だけではなく、近年五年分もカレンダー部分を折り込んで並べ、六年分を貼っているのです。

場所はいつもトイレのドアの壁。こんな風に。


《図2》

六年間買っているのではなく、いつの頃からかずっと六年分貼ってあるのだから、十年以上は買っているんじゃないだろうか。

写真は、正月分なのでたっぷりした雪景色が多い。
大正10年生まれの谷内六郎の子供時代だったら、昭和初期かな。
でも私の心の中に残る、幼い日の記憶とも重なり合うイメージである。
舗装されていない道路を、長くつの泥はねを気にしながら歩いた雪どけの道。獅子舞や武者凧など、縁日の光景もある。そして坊ちゃん刈りやおかっぱの子供たち。

今年は全国的にたびたび大雪の被害に見舞われていますが、それでも基本雪が好きです。
子供の頃、東北でも日本海側の山形県に住んでいたので、大雪が珍しくなかった。冬晴れの日は少ない気候のはずだけれど、雪の白さのおかげで、思い出す光景は明るい。
(てっきり谷内六郎は雪国出身に違いない、と思ってさきほどWikiを見たら、東京の恵比寿出身なんですね)。

◆◆◆

谷内六郎と言えば26年間続いたという「週刊新潮」の表紙。
実は若い頃、ずっとこの表紙絵が苦手だった。
男の子と女の子が登場して、毎年同じような季節の絵・・・正月なら凧揚げ、夏なら虫捕り・・・というありきたり(に思えた)パターンに情感を刺激されるのが嫌だったのかもしれない。なんとなく貧乏くさいというか悲しくなるというか、そんな気持ちになってしまう・・・。

なんでだろう。今見ると、こんなに特別な絵はないのに。
かつて平凡に思えた(←当時も平凡ではなかったのに)谷内六郎の絵は、時代が隔たるにつれ、すべてが「失われたもの」ばかりになった。胸が締め付けられるほどの。

年齢とともに、また帰省のたびに見ているうちに、だんだん好きになった。
またふと「絵の中の秘密」みたいなものに気づいて、強く興味を抱くようになった(・・・ような気がするだけかもしれないが)。
それが三年前なんだろう。

帰省するのはたいていGWとお盆と年末年始だから、毎年同じような絵を見ていることになる。秋など通常帰省しない時節に帰ると「おお!」と新鮮な気分になる。
(下は昨年11月に行った時のもの)


《図3》
知らない町に迷い込んだ孤独や不安感、(下中)
日常の片隅に、小さな世界を見つけた幻想的なものも多い。(下左)
キラキラしたデパートで手を引かれ、戸惑う様子。(上中)
その時代に新しかったテーマもちゃんと登場する。

郷愁をそそる景色に男の子女の子を配した、「単なる表紙用の画」として見過ごしていたのがもったいない。

後に谷内六郎の特徴といわれる、「幻想」がそちこちに見られる。それも「幻想ジャンル」として別世界のジャンル分けされているわけではなく、日常風景と変わらぬ筆致で、空にゼンマイが浮かび、御社で狐が酒盛りをしたり、庭の片隅にコオロギが鉄道を走らせていたり、松林の中空に海があって魚が浮かんでいたりする。

◆◆◆

それよりももっともっと、気になるようになった原因は、「シスコン」の要素を絵の中に発見するようになったからである。

作者の分身である「少年」はほぼ95%以上の絵に登場する。
小学校低学年くらいの、引っ込み思案で、感受性豊かな少年。
谷内六郎自身喘息もちで病弱だったというから、やはり作者の投影なのだと思われる。

大して興味も持てなかったころは、(学年誌のように)お約束的に男の子と女の子が登場しているんだろうくらいに思っていた。孤独がちだった病弱な少年だけの画では表紙として寂しすぎるし。

ちゃんと見たら、違う。同年代の女の子も出てくるが、もっと圧倒的な回数と存在感で登場するのは、年上の女の子・・・多分姉だ。
多くは12,3歳くらいに見える。初潮が始まったかどうか、という頃の、昔で言えばもう子供から大人に変わり始めている少女。

こんなことは、研究者ならずとも普通のファンであれば「基本知識」なのかもしれないけれど、「自分がある日突然気づいた」という実体験に即して語らせて下さいませ。
今思うと、なんて漫然と見てたのか、自分の鈍感さに驚くくらいなんですが・・・・。


《図4「ぼくのも上がった」》

「姉のような女の子」は、お正月の和服をちゃんと着て、男の子に優しく付き添っている。
母親でも、乳母でも、子守っ子でもない(そこまで古い時代ではない)。やっぱり実の姉なんだろう。(と仮定して話を進めるのでご了承ください)

他の男の子達(少し年上か)は離れたところにいて、見事に凧を上げている。
男の子の凧は、上がるどころか橋の手すりからダランと落っこちてしまった。
でも、川面に、他の男の子が挙げているたこと一緒に写っているから「ぼくのも上がった」と自分を慰めている。または、「一緒に空に上がってるよ」と姉に慰めてもらっているのか。

女の子はしっかりしているようだが、凧揚げもなんでもござれ、と言う男まさりなタイプじゃないのだ。家の中の遊びやお手伝いとかは割合得意だが、弟の面倒を見ても、男の子っぽい遊びをこなしてきたわけじゃない。

カレンダーゆえか、正月の凧揚げのモチーフは多い。
《図1》の左上の画も。
こちらでは男の子と一緒にいるが、関係性はこの絵だけではわからない。丁寧に描かれているのはどう見ても、座って見ている和服の大きな女の子のほう。彼女に見守って欲しい、あわよくば一人前に凧上げができるところを見てほしい・・けどやっぱりダメだった。

凧がうまく上げられなかった情けなさは、一生忘れられないものかもしれない。
「正月のせつない思い出」は私にもあり、子供の頃はそのために正月が来ることが嫌だったくらいである。
以前谷内の絵が苦手だったのは、こういう共通するコンプレックス(「そんなことわかってるよ!と言いたくなるほど常に嘗めているもの)を刺激されるということもあるのかも。

背景の美しい山は富士山に見えるから、やはり東北じゃないのかな。
すっぽりとした雪国を舞台にした作品が多いのは、憧れやフィクションもあるのだろう。


《図5「やっと取れた粉雪」》

雪にもいろいろあり、すごく服にねばってくる雪、ありますよね。お姉さんと犬が玄関に入り、ようやく自分の衣服の雪が取れたところ。男の子は雪をねばりつかせたまま、少し離れて姉と犬がせっせと雪を払ってるところを見ている。
年上の女の子を「ただ見てる」という絵も多い。

週刊誌の表紙絵に限って言えば、必要条件は「季節と子供たち」の叙情画だろう。
だから、同年代の女の子が登場する絵も決して少なくはない。
ただ、それらはどうも思い入れというか、情念に乏しいのか、あまり面白くない。
また、子供の集団を描いても、個々のキャラクターや関係性はよくわからず、あまり興味は感じない。作者が多くの子供たちに交わって遊ぶのが苦手だった感じがあるからかも。(《図3》の右下など)

非常に叙情的で生き生きしているのは、やはり「年上の女の子」との画。

《図4》みたいに、橋のたもとで並んで何か見上げているのも多い。
一緒に汽車に乗っている画も、銭湯に行った帰りの画の中でも二人っきりである。現実には他の家族も居たのかもしれないが、画の中にはいない。
姉に叱られるようなことをして小さくなっているのもある。工作のために姉のエプロンを切り取ったり、姉と友人に水をかけてしまって隠れていたり。
なんだか幸せそうに見えるのは、こたつに二人で向き合ってる画。ずっとこうしていたいんじゃないかなあ・・・。

「姉」の年齢も上下する。すっかり「小さなお母さん」みたいにしっかりしている画も多いけれど、歌手気取りでマイクを持って木箱に乗って歌ったり(男の子に録音係をやらせてる)、カーテンをスッポリ巻いてウエディングドレス姿になってみたり。またセーラー服で友人と登下校していたりする。
しかし、関係性的には同じなのだ。
「庇護型」に見えるときも「引っ張り型」に見えるときもあるけれど、少年にとって「母」でも「姉」でもあったからだろう。

不思議なのは、姉(多分)がこれだけよく登場するのに、母親、父親らしき人が絵の中にほとんど登場しないこと。「子供たち」が中心になるとしても、魚屋さんや郵便屋さんやステッキに帽子の紳士などは登場するのに、親っぽい人はいない(カレンダーに見える限定でだが)。
谷内六郎は九人きょうだいの六男というから(これもこの前調べてわかっただけ)、大きい姉がいれば母代りで面倒を見てもらうことも珍しくはないだろう。
けれど、喘息もちで病弱だったということなので、母親がもっと登場してもよさそうなところだけど・・・。
さらに、五人はいたらしい(六男と言うからには)兄たちの姿も、それと分かる形ではまったく登場しないのも謎である。

作品をどう感じるかは自由という、鑑賞者の特権でいろいろ想像してしまう。
多分、両親は忙しくて、そんなにこの男の子にかまってやれなかったんだろう。
兄たちも、上の方はもう大きかったろうし、年の近い兄たちも病弱な弟と遊ぶより元気な友達と遊んだ方が面白いんだろう。あまり遊びに入れてくれない。
家にいることの多い姉の一人が、面倒を見てくれた。少年は姉の側で姉のやることを見ているのが好きで、姉と一緒に外に出るのが好きだった。

ただ彼女も大人ではないから、時に寂しげだったり疲れていたりもするだろう。男の子にだけ見せる不機嫌な表情も泣き顔もあったかもしれない。


《図6 るす番》

好きとは言えないが、見ているうちに非常に気になってきた作品。
二人で「るす番」をしている。用事もなく出かけることもできず、仕方がなくシャボン玉を吹かしている。それは珍しくもないのだが、この絵の微妙なニュアンスはなんだろう。
壁も床もまるでコンクリ―トのように見え、いつもの開放的な季節感がない。服装からは多分夏なのだろう。
女の子の表情は読めない。部屋の隅でうずくまって、シャボン玉で遊んでいても物思いにふけっているよう。頭の中にあるのは、男の子もシャボン玉もなく、ひそかに憧れている彼のことかもしれない。または珍しく親に叱られたとか、友人とトラブルがあったとか・・・。
一方男の子は、何もできずに姉を見つめ続け、無力感と自分の膝を抱えて、小さく小さく縮こまる。(手前にいるのに小さいですよね)

ただ、二人の間にふわふわするシャボン玉には、なんだか慰められる。映りこんでいるのは、よく見るとキノコや虫や小さな靴。そこだけファンタジーが残っている。暗さに落ちていかないこういう不思議さが、谷内六郎らしくていい。
中心にある椅子とその影は、何の意図があるのか・・・?

この絵に流れるアンニュイには、どこか共犯関係的なエロティシズムがある。
作品全体の秘密の証拠を見つけたようで、ちょっとドキドキした。


《図7「みかん」》

《るす番》とは対照的に、ほほえましくて明るい一枚。
この絵では男の子がグッと幼くなって、2〜3歳くらいに退行している感じ。
でも、やはり懐く対象は母親じゃなくてお姉さん。一人で障子の張り替えをしている位大人。お姉さんにみかんを渡そうとして障子を破ってしまった男の子に、ちょっと困ってるのかな。もう少し大きくなったら叱られるんだろう。でも、今なら許してもらえる。

時々、小さい子になって甘えたり叱られたりしたい気持ちもあるよね。丹念に描かれた綿入れ半纏の絵柄にも思いがこもっている。
障子が明るい。糊の匂いや、冬の日差しの温かさも感じられる。手袋や靴下を干した小物干しとその影の、丹念な描写もいい。正座した女の子の靴下をはいた足にも、全部思いがこもってる。

お母さんの懐に居たい少年が、庇護してくれる姉(?)にくっついている。外の世界はわからないものに満ちていて、なんだか怖い。
そばにいる大好きな姉も、ずっと自分の側にいるとは思われない。いつか家を離れてどこかに行ってしまう。
いつか消えるとわかっている幸福だからこそ愛しくてたまらない。
「時を止めたい」という叶わぬ願いが谷内の画にこもっているように感じる。

もしかすると、谷内六郎の画がせつないのは、あの懐かしい日常風景が消えてしまったことと、大好きな人との幸福だった日々が失われてしまったことの喪失感が深層でリンクして、観る者の無意識の中で響き合ってしまうためかもしれない。

◆◆◆

「姉」の話はいったんおいて、「幻想」モチーフの作品についてもちょっと書きたい。

大きなファンタジー世界が広がっているというわけではない。日常の生活のかたわらに、小さな世界が息づいているのを「見て」しまうのだ。
アート作品として取り上げられるときはこのジャンルが多いかも。


《図8 「虫のハイウェイ」》
葉脈を虫のハイウェイに見立てた夏の一枚。

「列車」も良く登場するモチーフで、どこに行くのかわからない「憧れと郷愁」をそそる。

「時計」も特別な感じがする。古く威圧感がある時計は生き物のようだし、時計売りの寂しげな姿を描いた夕焼けの光景にもそそられる。
「幻燈会」「お祭り」みたいな、夜の集まりも、幻想と郷愁を誘うモチーフである。
虫や魚や小動物が、童話さながらに画面の中で動き回っているものも多い。

彼の作品に創作童話があるかどうかは知らないが、童話の入り口のような、幻想的でファンタジックな作品がカレンダーでも見られるのは楽しい。
(作品全体像に関しては、今度少し調べてみようと思います)


《図9 雪の落ちる音》

幻想と言うより、ユーモラスな想像による比喩かな。
屋根に積もった雪が「どさっ」と落ちる音。振動も感じられそうな感じ。子供らしい発想が面白い。

雪にくるまれて眠る夜は、不安はなくあったかい感じがするのだ。(いや、大人は大雪で屋根がつぶれる心配をしていたのかもしれないけど)。お正月のお餅や、お相撲さんのもち肌みたいに、柔らかくて優しくて丸っこい。
「雪に閉じ込められる」というのは、災害的には怖いけれど、「ふゆごもり」「ゆきごもり」のイメージにはなんとなく心惹かれる。先週の大雪予報の前も「家を出なくてもいいように」あれこれ買い出しする気持ちには、どこか高揚感がある。
どこにも出かけられないということは、誰も出ていかない、ということだ。外は寒いけれど、家の中はみんな揃っていて、あったかい。子供の頃はそれが嬉しかったなあ・・・と、ぼんやり思い出した。
窓の中の部屋は暖かい色に包まれている。眠る男の子の安らかな表情も安らか。

生涯何千枚もの絵を描いた多作な画家だけれど、「知ってるつもり」で済ませているともったいない。

画集があれば買ってみたくなる。
・・・けれど、また来年のカレンダーを楽しみに待つのもいいかな。

私も父に倣って、3年分のカレンダーをトイレの壁に貼っている。
無情な時の流れが、少し優しく感じられるように思う。
いつか父が他界して「実家」がなくなっても、甥姪がうちに来た時懐かしがってくれるように。
もし恵まれればだが、孫たちの目にも何気なく刷り込まれていくように。


【画像の著作権について】

非常に珍しく、画像データをたくさん貼りました。
著作権問題について、少し勉強しまして大丈夫と判断しました。

>著作権法上の「引用」として許され報道や批評、研究などのために、あるいは表現の自由・学問の自由という観点から、他人の著作物を引用することは不可欠というほど重要です

>そこで、著作権法は一定の要件のもとに他人の著作物の「引用」を許容しています。
>著作権上法の「引用」として許されるのは、
1. (1)公正な慣行に合致している
2. (2)報道、批評、研究などの目的上正当な範囲内で行われている
3. (3)引用箇所を明記している
4. (4)引用部分が本文と比べ従属的な扱いである
5. (5)出典を明記している
 などの要件を満たしている場合です。


というわけで、一応パスしているのではと・・・・。
考え違いをしておりましたが、ご指摘いただけますと助かります。

おっと、(5)が抜けてました。

○図版の引用元は、新潮社刊『谷内六郎カレンダー』の2013〜2015年版。および実家にあった同シリーズの古いもの。
これを、手持ちのデジカメで撮って画像ソフトで切り取ったものを掲載しました(そのため、実物より歪んでいますのでご了解ください)

○著作権に関する解説の引用元は、
http://j-net21.smrj.go.jp/well/law/column/4_4.html
の「中小企業支援サイト」の「法律コラム」です。

《追記》
2月26日、この記事で提示した「姉のような女の子」の謎を追った記事をアップしました。
●谷内六郎作品に、「姉のような女の子」を探して
ここまで読まれた方は、どうか是非読んで頂きたく、お願い申し上げます。

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