『カルメギ』観劇。(ますます多田淳にハマりそう)

December 07 [Sun], 2014, 10:34
Doosan Art Center+東京デスロック+第12言語演劇スタジオ『가모메 カルメギ』


『奴婢訓』以来、多田淳之介の紡ぐ重層的でトリッキーな「世界の見せ方」がどうにも気になって、神奈川芸術劇場に『カルメギ』を観に行った。

今回も重層的だ。
チェーホフの『かもめ』を、韓国人脚本家が舞台を1930年代の朝鮮の農村を舞台に置き換え、それを演出家多田淳之介が韓日の役者を使って演出した。
〔(宮沢賢治+スウィフト)×寺山修司〕×多田淳=『奴婢訓』
チェーホフ×ソン・ギウン×多田淳=『カルメギ』・・・?
いやいや、やっぱりうまく説明できないので、KAATのページから抜粋します。

【カルメギとは】

>韓国で最も歴史と権威のある東亜演劇賞にて三冠(作品賞・演出賞・視聴覚デザイン賞)を受賞し、外国人演出家として初の正賞受賞となった2013年韓国演劇界の話題作『가모메 カルメギ』がついに日本初上演。
【原作】
アントン・チェーホフ「かもめ」
【脚本・演出協力】
ソン・ギウン
【演出】
多田淳之介
【出演】
夏目慎也、佐藤誠 、佐山和泉 、間野律子
ソン・ヨジン 、イ・ユンジェ 、クォン・テッキ、 オ・ミンジョン、 マ・ドゥヨン、 チョン・スジ 、チェ・ソヨン、イ・ガンウク
(と写しても、『奴婢訓』に出ていたオッペル(夏目)とよだか(佐山)さん以外初見です・・・)
【作品紹介】
気鋭の韓国人作・演出家ソン・ギウンがアントン・チェーホフの名作「かもめ」を1930年代の日帝朝鮮に翻案。帝政から革命への過渡期にあった19世紀末 のロシアを描いた「かもめ」。1930年代の朝鮮というしばしば政治的な議論となる、そして人々の心の内にも様々な記憶を呼び起こす繊細な時代を日韓の演劇人が手がけ、ソウル初演は大きな注目を集めた。戯曲の古典ともいえるチェーホフを用いながら、多田演出らしいサブカルチャーの転用や現代の社会情勢の引用が、作品に複数の解釈への視座を与える本作。(中略)
韓日・日韓の歴史、現在、未来から、私と他という人間の根源を描いた全ての現代人に捧げる世界演劇にどうぞご期待ください。

ワクワクしますね〜〜。
やっぱり、もう一つの観劇動機は近頃日本で強まっている嫌韓感情。
このネトウヨ的ヘイト意見に接するたびに、非常に不快で不安で不吉な気分になるので、そのモヤモヤを少しでも晴らす糸口が見つかれば・・・。

パンフレットを見ると
>今回ばかりは俳優たちとも歴史の話をたくさんしました。去年も今年もしました。そして、いまだにお互いを理解しあうということはありません。しかし、人間同士の関係はお互いの違いを認めることからしか始まりません。(多田)

素晴らしい試みだなぁと思う。
と同時にこういう「ごく普通のこと」が、特別な勇気がないとできないような今の韓日関係(=日韓関係。自分としてはどちらでも一緒なのだが、それを言い訳せねばいけないような関係のことだ)を思ってやりきれなくなる。

ちなみに、『カルメギ』とはチェーホフ原題『かもめ』の直訳。
無知ゆえ、「カルメギ」でまず検索したが、上位はほとんど韓国焼き肉店がヒットした。「カモメの肉を出すの?」と驚いたら、肉店では豚肉の一部位のことを言うらしい。形がカモメに似てるんだそうで・・・。

【舞台が始まる前から、たまらなくそそられる】

とても面白かった。
それは間違いない。許されるならもう一度見に行きたかった。

ただ、この舞台の感想を書くのはやや難しく感じる。
まあ、正直に感じたことを書くしかないか。

観たのは、初日だった。
ヨコハマクリスマス気分もおまけ。ランドマークタワーに上って夕暮れから夜景に移る横浜の風景を眺め、そこからイルミネーションを楽しみながら遊園地を抜け、赤レンガ、山下公園と海辺のナイトウォークで神奈川芸術劇場(KAAT)へ。

KAATは三回くらい来たけれど、中スタジオは初めて。
中に入ると、舞台は細長い「中洲」状で、その両側に客席が3〜4列ほど並んでいる。客はどちら側の席で観るべきか一瞬迷うが、なんとなく流れで入って右側に行き、前から二番目の真ん中という最高の席。
後で逆側の端っこの一番上で観た人に聞くと、「自分の席が一番よかった」と感じていたそうで、それは私も同感だった。
急こう配なので、どの席からでもよく舞台が見える。前ももちろんいいが、後方(上)も、字幕との視差が小さく、全体が見られていいかも。

『奴婢訓』の時も思ったけれど、すべての観客にとってベストな観劇の位置を考え、その外側には席を置かない(ロープで区切ったりしているなど)ように配慮している感じがする。今回は観客参加スタイルではなかったけれど、「舞台と同一の場所に居る感じ」が強い。
「入場者1人=○万円」と考え、大きな舞台に三階席の端っこまで客を詰め込む今の人気演劇状況(もはや「客畜」だ)を考えると大きな違い。
大舞台に反発するとアンダーグラウンド的空間を求めがちなのだが、多田さんは設備の整った新しい公共の建物(どこでもいいわけではなく、きちんと演劇に適した空間を追求した施設)も堂々と活用している。(「デスロック」なのにさ!)カッコいいなぁ!

細長い舞台の上は、チラシで見た以上に、非常に乱雑。
新聞、雑誌、日用品、家具などで足の踏み場もないような状態。そして、家具類・・・中央の大きな洋服ダンスは、あとあと重要な「ルート」になるのだが、斜めに土(砂?)の中に埋まっている。いすや机も、多くのものはやはり土に半分埋まっている。そして、漁業で使うようなロープや、網カゴも散乱している。

たいていの日本の観客は、一目で想起するだろう。
この光景は、東日本大震災で津波にさらわれた町の残骸ではないかと。
昨年韓国で上演された舞台写真には、津波の跡っぽさ(漁労道具など)はあまりなかったよう見える。日本バージョン?

または持ち主に去られて荒れ果てた、「部屋」の廃墟のようにも見える。下手奥(こちらから)にある主人公が執筆するためのデスクのせいかもしれない。
そのほか、蓄音機や鳥かご、額に入った写真、なぜかタブレットなどもある。
四隅にはブラウン管のテレビが客席に向けて置いてあって、最初は舞台の出入り口の入場者を映していた。上演中は反対側の舞台を映すのかな、とも思っていたが、両側から眺める舞台でも隅々までよく見えたので、テレビモニターに目をやることはほとんどなかったのでちょっと意図はわからない。

この舞台装置に、期待と緊張が高まる。
舞台の縁取るように大きな木枠が建てられており、その上の横バー部分に、韓国語の時の字幕が映される。もちろん両側から。(セリフ以外に「1940年 東京オリンピック中止」 などのように、歴史上の年表が出ることもある)。

開演前から、カジュアルな現代の衣装を着たボーイッシュな女優さんがチョコチョコしている。この場面ではラストにつながる現代の存在なのかもしれない。舞台の中に過去を探しに行く我々みたいな・・・?
とか先走ったことを考えるが、「私は朝鮮の少年、ミョギです」とはっきり自己紹介をする。(もしかしたらこの瞬間が、舞台の始まり)

◆◆◆以下、ネタバレありの感想になりますので、ご了承ください◆◆◆




【セリフの精巧さ、舞台の仕掛け】

黒いチマチョゴリを着た少女エジョンが現れる。
「演劇って、いったいどこでやるのかしら?舞台らしきものも見当たらないし」。
次に日本人の「御手洗先生」が現れる。
その会話で、村の青年、作家志望のリュ・ギヒョクが演劇を始めるらしいこと、舞台は特になく、「ここでやる」ことが観客に明らかにされていく。

先生「あなたは、なぜ、いつも、チマチョゴリが、黒いのですか・・?」
エジョン「これは人生の喪服です」
ついで、不吉な黒いカラスや、吉兆であるカササギについての話が出る。

内容も日常会話の中に象徴的な内容が入っていて引き込まれるが、この日本語と韓国語の入り乱れた会話が実にスムーズで驚かされる。こんなの見たことない!(韓流ドラマあまり見てないからかもしれないけど・・・)
韓国語部分は、上のバーの字幕を見ながらの観賞だが、楽で自然で、なんのギクシャクも感じなかった。これにはかなりの細かい技術や気遣いがあったことだろう・・。

芝居見物のため、登場人物がどんどん舞台上にお目見えする。ヒロインであるソン・スニムと言う美少女、主人公の母親である女優ヌンヒ、その兄である老ヌンビョ、その元部下で猟仲間のジュング、ジュングの長女でエギョンの姉エギョン。日本の小説家塚口、主人公の母親である女優ヌンヒ、ドクトル姜、看護婦いさ子などが現れる。

要するに、みんな親戚知人で顔なじみのような顔ぶれ。

登場する人物は特殊な場合を除き下手前から登場し、上手奥に去っていく。
(逆側から見れば、上手奥からやってきて、下手手前に去っていくわけだ)
これは、この舞台の最も大きな仕掛け(ガジェット)だと思う。このパターンは舞台全体を貫き、後半ではハイスピードの追いかけっこがこの一方向で目が回るスピードで繰り返され、笑いと徒労感を産んでいく。
逆側から人物が現れるのは非常に少ない。日本からソン・スニムが帰って来たときとか、ミョギが志願兵とされて徴兵されて行く時とか、特別に異質な場面でのみ使われたように思う。

面白いのは、基本動線である舞台の対角線上の真ん中に、例の半分埋まった洋服ダンスがあること。動線をたどると、みんな斜めのスロープでタンスを上り、高いところで地面に降りる。タンスの角のてっぺんで、安っぽいラブシーンが行われたり、服毒自殺が行われたり、なかなか使われるのだ。(老人はタンスを上らずに迂回することが多かった気がする)

【「喜劇」だったんですね・・!】

勢い込んで見始めたものの、正直なところ前半、やや退屈したものである。
人間関係を覚えきるのに時間がかかったし、またその登場人物のやってることがすべてどこかで見聞したことのあるような陳腐なものであり、「1930年代、日本統治下の朝鮮」という特殊で緊張した感じがしない。登場人物たち自身になんら危機感がない。

私の気持ちがパッと温まったのは、日本の小説家、気障で女好きの塚口(佐藤誠)がマイクを手にセリフをしゃべり始めた時。
バックに「Surface Pro 3」のCMでいつも流れているあの曲・・・・娘に聞いたら韓国の2NE1(トゥエニィワン)の『I AM THE BEST』と言う曲なのだそうだ・・・が大音量で流れ始めた。

塚口は、日本の文学はある意味で壁にぶち当たっていると言い、白々しいことを言ってスニムの心をつかもうとする。
塚口「だから今はみんな朝鮮半島や外地に関心を持ってるんですよ」
スニム「私たちはみんな東京に行きたがってるのに・・・」
塚口「朝鮮の人達は、自分たちが持っている宝物の価値に気付いていないんだなあ」

これを、めちゃくちゃインパクトの強い『I AM THE BEST』が流れる中、マイクを持って語る。

遅まきながら、「なあんだ!これ、笑って観ていいんだ!!」と気づき、あとは舞台に楽しんで乗っていけました。

チェーホフの『かもめ』、まともに読んだことないんですが、あれ作者が「喜劇」としてるんですね。悲劇的な終わり方をするのに、なぜ?
『100分で名著』等によると、本人たちにとって重大事でも俯瞰すると喜劇。みたいな意味。
それはそうですねえ・・・。
『ロミオとジュリエット』だって、恋人が死んだと早とちりして後追い自殺をするバカバカしい話。本人たちが大真面目だからこそなんだか可笑しくて、「これって喜劇にしたらいいのに・・・」と思ってました。

多分観たのが初日だったせいもあり、不発だった笑いのネタが多かったのかも・・・。
最終日近くで観た友人に聞くと、もっと受けていたらしい。
韓国公演でも、『冬ソナ』や『雪の華』(中島美嘉の曲で、韓国で大ヒットしたという)がかかると、(ベタですが)ドッカンドッカン大受けだったそうですから・・・・。

笑って終われない内容も含まれているのですが、「おはなし」の部分では大笑いして、その後ラストにもつれこまないとイケない舞台だったと今では思います。

前半も、ラブシーンが見られていて中断するとか、母親のおせっかいな「マクアキコージョー」に腹を立てて公演を中止してしまう「本格芸術病」の息子とか、もっと笑わせてくれた方があとあと効果的だったと思う。
笑っちゃうような思い出がよみがえると余計悲劇が強まりますから・・・。

アフタートーク(また聞きです)の多田さんの弁によると、ところどころ「マイクを使って話す」理由は「強制的にものを聞かせる、権力的なイメージがあり、また見た目がバカっぽいから」という、実に過不足のない説明があったようです。

【精密精妙な脚本だった!らしい】

これは、日本語しかわからない私には気付けなかったことなんですが、ソン・ギウンさんの脚本へのこだわりは凄かったそう。
これはパンフレットにも書いてありました。

>韓国の俳優と日本の俳優が一緒に登場し、朝鮮語(韓国語)と日本語とが混ざり込む1930年代朝鮮バージョンの『かもめ』を作りたいというこの一筋縄ではいかない夢は、去年ソウルでこの『カルメギ』という舞台で実現されました。それも私自身が演出するのではなく、日本人の演出家という他者の視線によって。私と長年のつきあいである演出家、多田淳之介は、まるで時代劇のように考証的で細かく詰め込んだ私の脚色戯曲『カルメギ』を現代化させ現前させる演出を施したのです。

「時代劇のように考証的」・・・!!
これも又聞きアフタートークですが、言語には非常にこだわり抜いて作られていたらしい。
登場人物一人一人の出身地、学歴、年代まで考慮し、それを反映させたハングルになっているという。
真価はマックス半分しか私には理解しきれないわけだが、韓日の言語が入り乱れていながらよどみなく自然に流れるセリフの応酬が見事だったと感じた。

老人二人の会話は、字幕の日本語訳が東北弁で書かれているが、非常に訛りの強い方言ハングルだそうで、韓国の観客からも「この部分にも字幕が欲しい」と言われていたとか。
ヒロインスニムの日本語も、故郷に居た頃と、日本で過ごした後では変えていたという。「ハチュオンがオカシイと言われてオドリコにしかなれなかったけど」というような可愛いたどたどしさは残っていたので気づかなかった。
かつて求められた理想の統一言語「エスペラント」も登場する。韓国人ドクトルは、時々セリフで使っているが、これもソン・ギウンの並々ならぬ「言語」への思い入れでは。

【後半 冴えわたる多田マジック】

さて、こうして優れた文学的作品に仕上げられたソン・ギウン脚本を料理して我々に届けるのが多田演出。
ハッキリ言って、多田演出が入らなければ、この悲喜劇は、今の日本で見て「面白い」ものだったかどうかはわからない。変な言い方を許してもらえれば、「あまり面白くはないけれど、なんだか褒めねばならない感じがする舞台」になったような気がする。

多田演出は、なんだか、見る私を、自由にしてくれる。いつもの芝居を見るときと同じように。

誰でも知っているKポップJポップ(多田さんの大好きなperfumeもあった)を爆音で多用し、唐突にスマホやタブレットが登場し、1930年代の朝鮮を現代・・・2014年とリンクさせ続ける。歴史を、「戦争を知らない若者にはわからない」ではなく、「朝鮮の苦しみは日本人にはわからない」でもなく、平凡に生きている誰もが日々感じるドラマの積み重ねとして描いてくれる。

チェーホフが、ソン・ギウンが、この戯曲に何を盛り込んだかはわからないが、それを多分改変することなく演出手法で「現在化させ現前させる」ことに成功しているのではないかと思う。

「爆音」は、思考をマヒさせるために使うのではなく、観る者の思い込み(両国の歴史や関係性に関する思い込みだ)を打破するために使われたように思うのだ。『冬ソナ』で笑い、『I AM THE BEST』の毒々しさが快感になり、『ボレロ』を果てしなくクレッシェンドさせ続けられると、舞台が自分の中で全然違ったものになっていくような感じがする。
BGMの影響力はしばしば暴力的である。客の感情を強制的にある方向を向けさせるような選曲だったら、いつもうっすらと反発や違和感を感じる。今回はそういう感じは全くなかった。

特に後半になると、それぞれの「片想い」が暴走し、誰かが誰かを追いかけつつ誰かに追いかけられている、という図式でぐるぐるぐるぐる回転し、大音量で「ボレロ」が際限なく流れ続ける(何度か終わってもまた基本は「ボレロ」に戻り、最後の最後まで「ボレロ」押しが続く)
下手から政治経済問題を語りながらドクトルと先生が現れては消え、ドクトルを慕う滑稽な姉エギョンが恋心で暴走し、意地悪な看護婦が「ドクトルには私が必要なんだって」と残酷な結末を突き付けて追い抜いていく。
若い少女の夢を掻き立てもてあそび、年配の女優と結ばれる塚口。
振られても振られても塚口に思いを告白し続けるスニム。
ようやく小説家として認められ始めた主人公も、望むことはかなわない。

それらバラバラな恋模様や人生が、下手から現れて上手に消えていく(反対側は逆)。映画の細かいカット割りのように、何十何百ものコマシーンで流れていく。この同時期、戦争が始まり世情は深刻化しているのだが、『カルメギ』は個人レベルの悲喜劇をハイスピードで紡ぎ続ける。
時は一方向にしか流れない。ぐるぐるぐるぐる回っているうちに、どんどん時間の流れが速くなり、我々はもっと歴史の長いスパンから、この悲喜劇を眺めるようになる。

言っちゃおう。みんなどこにでもいる、陳腐な人間たちだ。そんなに尊敬したいような立派な人間は出てこない。日々の自分のことばかりで、国家のことなんか考えていない。我々のように。
理想を求めて悩む芸術家気取りの知識人も。未来や愛を夢見る少女達も。朝鮮では「強者」として偉ぶっている日本の男達も。

けれど、時を巻いて眺めると、一生懸命自分の小さな人生を生きている愛しい愛しい人間たちなのだ。生きて、夢見て、働いて、勉強して、少しでもいい方に行こうともがいている。だからわずかのずるさも悪意も、憎むべきものには見えないし。憎むべきものには描かれていない。誰も裁かれていないし、告発もされていない。

不思議なのは、舞台の上の津波の跡としか思えない光景が、登場人物の誰一人にも全体的に見えていないことである。全くないものとされているわけでもない。時々新聞をつまみあげたり、蓄音機やマイクを使ったりしている。椅子にもタンスにも腰かけたり乗っかったりする。しかしそれが半分砂に埋まっていることは誰も気づかない。

それが言及(?)されるのは唯一、最後に一気に字幕に流れる、1940年代以降の歴史年表の中である。「2011年 東日本大震災」。

そう思うと、ソニムのセリフ、「先生はこの朝鮮に過去と未来が同時に埋まっているとおっしゃいました。けれど、現在がないんです」が、意味ありげに感じられる。
日本でだって、いつだってそうだ。
我々の現在は目の前にある。見ようとしないだけだ。
地滑り的に国全体が戦争に向かっていったあの時代も。
環境問題をないがしろにして公害を垂れ流しながら高度経済成長を遂げていったあの時代も。
いまだに福島原発から漏れる放射性物質の解決の道筋も見えないというのに、もうそれを見たがらない今の時代も。

カモメのように自由に空を飛びたいと思いながら、見えている足元を見ようとせず、同じところを結局ぐるぐる回っている。廃墟(悲劇の跡)を足で踏んでいることにも気づかずに、日常の悲喜劇に身をやつしているようにも見える。そういう人間たちを、この作品は俯瞰して、喜劇として許しているのだろうか?
眼前の廃墟は、なおももの言いたげである。

【ミョギは喜劇の枠外か?】

少年ミョギについて少しだけ。

登場する12人のうち、8人の韓国人俳優は皆朝鮮人役。日本人俳優4人も基本日本人を演じている。
しかし、ミョギ役の間野律子だけは、異国人である朝鮮人を、なおかつ性別も変えて演じている。何か特別な役であると、マーキングされている感じなのだ。

また彼だけが「子供」であり、後に志願して兵隊になる(日章旗を首に巻いて!)という歴史の悲劇を感じさせる役割を担っている。(日本人が朝鮮の少年を“志願兵”として徴兵していったのだ)

もう一つ、彼だけはあらゆる意味で喜劇の外に居るように思える。
完全に枠の外の傍観者と言うわけではない。ラブシーンを見てしまったり、時計(象徴的だ)を持たされたりと、セリフが交わされることも何度かある。けれど有機的な形(追いかけっこみたいな)では関わらない。
母親は、ミョギが戦争に行った時バンザイしていたが、心痛めていて病気になってしまったという。誰も彼が戦争に行くことを止めなかった。これが胸に刺さる。

この物語がミョギにどういう役割を託しているのかわからないが、姿を現さない日本軍とか憲兵とか日帝軍国主義の投影なのだろうか。彼がいる場面では笑うことができない。

他の登場人物たちのように大人になれば・・・いや、思春期になって自分の羽根で家や故郷を捨てて羽ばたきたいと思うようになれば違う。
自分のわがままを貫いて飛んでいくのもいい。愛されてもいないのに愛する人を追いかけて何十年棒に振ったっていい。
結局人間に許されている自由なんて、どういう喜劇に身を投ずるかを選ぶくらいなんだと思う。ミョギ以外の登場人物は、悲劇につながる相当愚かな選択にせよ、自分で決めてやっている。止めたって止まるものでもないし。だから「喜劇」でいられるのかも。

しかし子供に愛国主義(ここでは祖国を奪った国への!)を注入し、銃を持たせ、日章旗を首に巻いて戦争に出すようなことだけは大人はすべきではないと思う。これまでもこれからも。
どの国の子供だって、男の子だって女の子だって同じだ。(それを言いたいがために、ミョギの役だけは国籍と性別をチェンジしたのかも・・・)

【ラストへの演出】

最終場面近くでは時が移り、日本の支配が強まり、女たちはチマチョゴリではない和服を着て現れる。何組かのカップルは成立している。例によって世間話がセリフのメインで、戦時下の悲惨さは描かれないが、そのままとってよいのかわからない・・・。

ギヒョクは農民の姿。恋人に去られた後、晴耕雨作の生活をし、ぼちぼち作品の依頼も来ているらしい。
気の毒な最期を迎えるが、振られっぷりと最後の演説が喜劇として見られる。
「農薬をあおって自殺する新人作家か。この馬鹿馬鹿しいほどの通俗性。この大層な朝鮮新派的リアリティー!!」。

しかし、チェーホフ的に(ソン・ギウン的にも?)終わりを迎えるこの場面の後、恐ろしいスピードで歴史をが回り始める。(年表も読み切れないようなスピードで進みだす)

彼らに最後に与えられたのは、個々には理不尽かもしれないけれど、遠目には平等な「死」。
走って踊って歌って、舞台を同じ方向に回って回って回って、そのうち力尽きて、舞台の上で静かにうずくまり、倒れて動かなくなる。
自殺もあり病死もあり天災もあるんだろう。ミョギは、やはり銃声とともに倒れたから戦死だろう(この時だけ涙が出た)。
一緒ではない。何周か多かったり少なかったり、フラフラになりながらもう一周回ったり、元気で死ななそうに見てもポキンと折れるように倒れたり、人それぞれ。女性の方が多く回っているのがリアル。

しかし最後には細長い中洲の舞台の上で、全員死を迎える。廃墟の一部となってしまった彼ら。不思議と無残という感じはしなくて、なぜか「愛しい・・・」という思いが湧いてきた。
生きて生きて力尽きて、この小さな小さな舞台の上でなぜだか韓も日も関係なしに一緒に横たわっている彼らが、少し羨ましくなった。とても静かで、もう爆音は聞こえない。

再び彼らが舞台に現れた時、彼らはみんな現代のカジュアルな私服(衣装かもしれないけど)をまとっていた。意外と、多くの人が舞台上での役とイメージが違っているのが面白かった。老ヌンビョは若いし、塚口さんは気障どころか素朴な感じ。
全員深く礼をして、満場の拍手。
とても後味の良い舞台だった。

多田さんはパンフで「人間とは、他者とは、歴史とは何かということを考えるきっかけになってくれたら嬉しいです」と書いてたけど、観劇後はなぜかフッと言葉が出た。

人間とは、一生懸命生きている愛しい生き物。
他者とは、自分と同じ人間。
歴史とは、今のこと。(今の積み重ね?)

「考えるきっかけに」と言ってるのに、反射的過ぎますよね。勝手に湧いた言葉として書きとめます。お許しを。
Comment
小文字 太字 斜体 下線 取り消し線 左寄せ 中央揃え 右寄せ テキストカラー 絵文字 プレビューON/OFF

不正な自動コメント投稿を防ぐため、チェックボックスにチェックをしてください。

利用規約に同意
 X 
禁止事項とご注意
※本名・メールアドレス・住所・電話番号など、個人が特定できる情報の入力は行わないでください。
「ヤプログ!利用規約 第9条 禁止事項」に該当するコメントは禁止します。
「ヤプログ!利用規約」に同意の上、コメントを送信してください。

nemoさんへ。
ご訪問ありがとうございます。

nemoさんがしばらく見えられないので、何かあったのか気になっていたのですが、そうだったんですか・・・。
nemoさんがあれほど愛していらしたお父様がなくなられたとのこと。ご冥福をお祈りいたします。
nemoさん超多忙でしたでしょうし、また大きな喪失感を感じていらっしゃっていることと思います。お身体に障りませんように。

まだ日が浅いのに、コメント入れてくださってありがとうございます。安心しました。

私の父親も米寿。遠くない将来、「その日」が来るとわかっているのに、私たち姉妹は自分の家族のことばかりで過ごしています。父も我々の負担にならないよう、いつ電話かけても愚痴のひとつも言わず「元気だ。何も困ってない」と言ってます。その言葉に我々子供たちは甘えている感じです。後ろめたさは募るんですが・・・。

私の(遠くない)後学のためにも、nemoさんの感じたこと、よろしければそのうちぼちぼちお話しください。

>その中、プルートを観に行けるかと算段中。

私もチケット滑り込みで取れました。
しかし手塚アトム『地上最大のロボットの巻』改め浦沢『プルートゥ』を、映画でなく舞台にする(それも歌と踊りありの)、というのがそもそもピンとこないので、どんなものになるのかなぁ・・・。

>12/17森山未來の番組がNHKで放映予定で、その前に本人自撮りの映像が流れています。

教えていただいてありがとうございます。是非見たいと思います!

ではまた。更新も返信もゆるゆると・・・。

by きのこ December 11 [Thu], 2014, 13:32

きのこ様
ご無沙汰しています。超多忙に輪がかかり、読むことすらままならない日々ですが、
観劇記事 面白いです。
これからも楽しみにしています。
11月に実父が逝き、(今年の多忙の半分以上はこれ関連でした)、バタバタしています。
その中、プルートを観に行けるかと算段中。
ところで、12/17森山未來の番組がNHKで放映予定で、その前に本人自撮りの映像が流れています。
なんだかねえ。。面白いです。で、きのこさんに観てもらいたくなったので、お知らせ。踊ってるのが面白いです。
またゆっくりの時間が来ますように。他の方のコメントも楽しいです。ますますご盛況を・・

by nemo December 11 [Thu], 2014, 7:55
プロフィール
  • プロフィール画像
  • ニックネーム:きのこ
読者になる
最新コメント
nemo
» ホームドラマ復活??2017年1月期ドラマ序盤戦 (2017年02月03日)
きのこ
» 2016年連続ドラマmyベストテン発表! (2017年01月31日)
nemo
» 2016年連続ドラマmyベストテン発表! (2017年01月24日)
nemo
» なぜ石田治部少輔はこんなにも嫌われるのか (2016年09月15日)
きのこ
» 2016年夏ドラマひと月め (2016年08月06日)
nemo
» 2016年夏ドラマひと月め (2016年08月04日)
きのこ
» 陛下の思いが実りますように (2016年07月24日)
レーズンパン
» 陛下の思いが実りますように (2016年07月22日)
2014年12月
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31
P R
旧館
としずきん妄想:「新選組!」再鑑賞日記
月別アーカイブ
ブログポリシー
コメント・リンク・トラックバック大歓迎です。過去記事へのコメントにも喜んで飛んでいきます。スパムに関しては予告なく削除させていただくことがありますのでご了解ください。
お友だちのお店です
サンウィッチハウス チーズアンドオリーブ