没後の門人と自称!門人

December 18 [Wed], 2013, 8:17
 伴信友〔ばんのぶとも〕(1773―1846)は本居宣長没後の門人である。平田篤胤〔ひらたあつたね〕(1776―1843)もまた本居宣長没後の門人と自称(あくまで自称!)している。伴信友が歴史の研究、古典の考証にすぐれていたのにたいし、平田篤胤は復古神道を鼓吹し幕末の尊王攘夷運動に影響を与えた。
 伴信友の代表作のひとつが『仮字本末』だ。刊本は上巻之上、上巻之下、下巻、付録の合計四冊からなっている。付録では、平田篤胤の『神字日文伝』の説を批判している。「神代文字」存在説が信じるに足りないもので、古代朝鮮文字である吏道〔リト〕が出自であるとしている。信友は、わが国に固有の文字が存在しなかったことを明確に主張している。



●原資料:『仮字本末』(伴信友著、1850年)

 『仮字本末』で批判された平田篤胤著『神字日文伝』もとりあげなければなるまい。『神字日文伝』は、上巻、下巻、付録からなる。1819年(文政2年)に成立した。前述したように、漢字伝来以前に日本に文字が存在したと主張する。


●原資料:『神字日文伝』(平田篤胤著、1819年)

『仮字本末』にあらわれたひらがなの書体は(連綿も多くみられるが)、カタカナに対応して一字一字が独立したスタイルになっている。もともとの版下は書写されたものと思われるが、彫刻する過程において
少しアウトラインの単純化が顕著にみられ、それがやや硬めの印象を受ける。むしろ彫刻による作用によって増幅されているようだ。 『仮字本末』から和字書体「さきがけ」(和字書体三十六景)を制作した。四川宋朝体「龍爪」との組み合わせを想定している。
□和字書体「さきがけ」(和字書体三十六景)のこと
 『神字日文伝』においても、一字一字が独立したひらがながみられる。もともとの版下は書写されたものと思われるが、硬筆書写のような印象を受ける。『仮字本末』とは対照的におおらかなイメージがある。『神字日文伝』からは和字書体「ひふみ」(和字書体十二勝)を制作した。臨安宋朝体「陳起」との組み合わせを想定している。
□和字書体「ひふみ」(和字書体十二勝)のこと
 没後の門人というのはわかるが、自称!門人というのは首をひねりたくなる。しかし、印刷書体をみると、継承者にして好敵手といえるのではないだろうか。……伴信友と平田篤胤、本人が筆耕したわけではないが、対照的な書風である。

………



●伴信友の墓
 福井県小浜市の発心寺にある。
 伴信友は若狭小浜藩士で、通称を州五郎、号を事負〔ことひ〕という。信友は山岸維智〔これとも〕の子として生まれた。幼くして伴信冨〔のぶまさ〕の養子となり、江戸に出て小浜藩校「講正館」に学んだ。


●人の駅 伴信友


●伴信友顕彰碑 発心寺から佛国寺へ向かう参道の山裾にある。


●平田篤胤の墓
 秋田市中亀町の秋田大学工学資源学部附属鉱業博物館近くにあるそうだ。国の史跡として指定されている。まだお参りしたことがないので、いつか訪れたいと思っている。
 平田篤胤は秋田藩士・大和田祚胤の4男で、幼名を正吉また胤行という。通称半兵衛のち又五郎、また大角、さらに大壑とも称するとはややこしい。1795年(寛政7年)、20歳のとき脱藩して江戸に出て、さらに5年後、備中松山藩士の平田篤穏の養子となっている。1841年(天保12年)に、著作が幕府筋の忌むところとなり、著述差し止めのうえ国元帰還を命ぜられ、秋田藩士となった。

 
  • URL:https://yaplog.jp/kinkido/archive/17
P R
プロフィール
  • プロフィール画像
  • アイコン画像 ニックネーム:欣喜堂
読者になる
欣喜堂は活字書体設計をおこなっている会社です。日本・中国・欧米の書写と印刷の歴史にはぐくまれた活字書体の開発をめざしています。
2013年12月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31
https://yaplog.jp/kinkido/index1_0.rdf