0425

2009年04月26日(日) 1時08分
原稿の締め切りが近くなってきたが進行状況がどうもで悶々と徒歩中、オペラシティーの前を通りかかり、急きょ観劇することにした。

終演後、出口近くで、ラボの特別講師をしてくださる下総源太朗さんにバッタリ会い、挨拶。

新たな受講生たちとの共同作業がもうすぐ始まる。
今回はどのような「道場」になっていくのだろうか。
期待のような、不安のようなものがよぎるが、そんなこんなもひっくるめて楽しみである、ということにしておこう。

まずは目先の締め切りだ。

0423

2009年04月23日(木) 22時31分
楽しみにしていながらなかなか映画館に足を運べなかった『トウキョウソナタ』をようやく今日観に行った。最高。おかげで良い気分で今日一日を過ごすことができた。

カトリーヌのごはんメモ090418

2009年04月19日(日) 0時35分
ここ最近はドライフード「オリジン キャット」に、ときどき「ツナ タピオカ&カノラオイル」とかアニモンダとかキャスター&ポラックスの缶詰。

オリジンは高蛋白なのと、味見するとちょっとしょっぱいのが不安だけれど、カトちゃんがお腹こわさない数少ないドライフード。炭水化物を減らしてダイエット、という狙いもあって。一日あたりのカロリー計算を大雑把にやってみて、少なめに一回22グラム前後をあげている。

高蛋白食が連続すると腎臓に負担がかかりそうなので、ときどき上記の缶詰をローテーションであげている。アニモンダは魚系で食べきりサイズのものを少々。値がはるので。

これらにときどきビタミン補強のサプリメント「テイスティービタミンミックス」をふりかけることもある。

0417

2009年04月17日(金) 5時48分
作品が「今」を象徴しているのではない。作品の見方が「今」を象徴しているのだ。

演劇について2

2009年04月11日(土) 3時48分
演劇のイメージや概念を持っていても、上演に立ち会って感じることと、既に思い描いている演劇の概念とは、全く別物である。こうして書いてみると、そんなの当たり前みたいな感じだけれど、先に進む。観ている時間に味わったこと、それがその演劇の感触なのだ。

演劇は観ている時間の中にしか存在しない。

観られる側つまり役者のほうでは、舞台にいる時間に出くわしているものが演劇である。のだが、観られる前に舞台袖で登場を待っている時に、何かがすでに始まってしまっているかもしれない。それもまたその人の出くわしている演劇なのであって、そうなるといつから演劇が始まっているのかはわからなくなってきて、家を出るときから始まってしまっているかもしれない。そんな風に考えても面白いのだが、やはり演劇は観客の存在無しにはあり得ない。観る観られる関係において演劇が生まれる、ということにしておこう。誰か一人でも観ている人がいてくれたら、演劇は成立する。

演劇は観ている/やっている時間の中にしか存在しない。

したがって、演劇の公演は無数にあるが、その公演ごとに異なった演劇が生まれている。
はずなのだが、それもわかりにくくなっていると思う《*A》。

その公演ごとにというのは、同じ公演でも日時が違えば、ということでもある。本番二回目にどのようなものが生まれるかは、やってみないとわからない。舞台セットとか段取りとか具体的なことは同じでも、三回目、四回目と、その都度その都度、演劇が生まれる。

しかしながら、同じ公演を何度も繰り返し繰り返し観る、ということをする人は、ほとんどいない。
それはなぜか《*B》。
(お金がかかるし、僕も無料で観れて面白いという限られた機会でもなければ、そんなことはしないが、お金の問題だけで片付けることはできない)

あと、新作が尊ばれているような感じがする。
それはなぜか《*B》。

《*B》は同じ理由だと思う。《*A》と《*B》には、関係がある。

…つづく。

演劇について1

2009年04月07日(火) 4時44分
演劇は面白いか面白くないかというと、面白い。なぜならおおむね人間が登場するからで、観客も人間だから。モノしか登場しなかったり、動物が観客だったりする可能性もあるが、そんなことはどうでもいい。人間という生き物がつまらないはずはないので、舞台に人間がいるだけで、どうしたって面白い。つまらなくなりようがない。けれど面白い舞台というのは少ない。なぜか。

自分でつくる場合は自分の観たいものをつくる。面白いと思うものをつくる。面白いと思えないものはつくらない。どういうのが面白いと思えないか。

しかし面白いと思うものをつくるつくらないというのも、そんなふうに線引きできるものではなく、あるプロセスで出来上がってしまうことで、ほとんどどうしようもないことである。作者のコントロールが行き届いた作品ほど、たいしたものではない。いや、たいしたものかどうかは知らない。全くコントロールしないということでもないし。
コントロールするかしないかというよりも、作者が安全なところでつくっているかいないか、ということだ。
安全なところとは、何か。

自分はほとんどの場合、不機嫌な観客である。何に不機嫌になるかというと、人間を見ているってことをわかりにくくする要素が実に多いからだ、と思う。それもまた人間である、と達観できれば、楽しめるはずだが。
例えばお話。設定。そこでは「●●が○○した/しなかった」ということが問題になっており、それを問題にしてしまった作り手は●●や○○の選び方を問われることになる。そして面白くするために●●と○○を考えることになる。
「●●が○○した/しなかった」という情報から受ける印象を<A>とすると、おそらくほとんどの人が同じような印象<A>として受け取る。そうでないと話の面白さがわからない。選ぶ段階で作り手としてはそういう認識のはずである。つまり、了解事項なのである。
作り手はフェイントをかましたりして印象<A>をちょっと意外な<B>に結びつけたりするなど意匠を凝らしたりするが、それらの操作はすでに了解事項が前提となっている。

安全なところとは、了解事項と関係がある。

了解事項というコードが見えてしまうと、楽しくない。わかりにくい。わかりやすいから、わかりにくい。

映画などと違って、人間がわざわざ人間の前に出てくる。わざわざ人間を観に足を運ぶ。この人間だらけの娯楽だか芸術だかは、作り手という立場もしくは観客という立場で参加する全ての人間が、「人間て何だ」「生きるって何だ」みたいな潜在的な問いかけと戯れているのではないか。
人間が人間を見る、人間が人間に見られる、これは残酷なことでもあるしくだらないことでもあるし、たったそれだけのことで十分豊かなのだ。
しかし役者たる人間を舞台に立たせてるだけで「さあ、人間です。人間て何だろ。面白いでしょ」なんてことは、無理というか、それもわかりにくいので、その面白さをわかりやすくする仕掛けが必要で、台本を書いている自分は、まず台本をそういった仕掛けのひとつとして考えている。人間を見る楽しみを失わないように、参加者が豊かなものを確認していきやすいように、戯曲というものを考える。了解事項というものは邪魔というか、吸引力が強いため、作り手も観客も了解事項に引っ張られてしまう。

(つづく)
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