父の手紙 No.7

2009年03月03日(火) 22時00分


今日は蛤を食べたことで急に思い出した
父の自伝手紙ををまた抜粋します。

*     *     *     *     *


新宿駅北側の裏に専売局後の広場があった。

そこには平日でもたくさんの露天が出て、脇の空き地には
香具師(やし)(祭りや縁日に見せ物小屋を出したり、
口上を言って粗製の品を売りつけたりする人)が濁み声で通行人を呼び集め
長々と講釈した後、怪しげな物を売りつけていた。

日替りで色々な香具師がやっていたが、その講釈が授業よりよっぽど面白かったので
学校帰りにはいつも寄って話を聞いているうちにその口上を自然に覚えてしまった。

ある暑い日の午後、波布(はぶ)や蝮を扱っている香具師がいたので
惹かれて人垣の間から見ていると、一匹の蝮を籠から取りだして
「さあ、お立ち会い、いま、この蝮を俺の腕に食いつかせるから
目ん玉広げてよく見ておくれ!」と言って
ほんとに手首の少し上を蝮に咬ませた。(もちろん毒牙は抜いてぁるんだろうが)
血が少し垂れた。
おじさんは取り囲んでいる人達に蝮の食いついたままを突きつけるように見せて廻り
蝮を離し、籠に戻してから布で血を拭った。
汗も滴り落ちていた。
そのあと毒消しの軟膏を売るらしいのだが、おじさんが塗り薬の宣伝を始めると
今まで真剣に見ていた人達はばらばらと散って行き、買う人は誰もいなかった。

私は気になって物陰から見ていると香具師のおじさんはがっかりした様子で
汗を拭きながら片付けはじめた。
如何に香具師の仕事とはいえ痛いのを我慢して一生懸命やったのに、と思うと
おじさんが可哀想になり、私は思いきって片付けている所に行って
「ひとつ下さい」と言った。
香具師のおじさんは学生の私を見て 一瞬 怪訝な顔をしたが
箱から蛤の殻に入った軟膏を取りだして
「お金はいらないよ」と言ったが、私は無理にお金を渡すと
「ありがとうございます」と丁寧に頭を下げた。
私は逃げるようにその場を去った。
受け渡しの時 ふと おじさんの手を見ると
以前、毒蛇を扱って失敗したのか左手の親指がなかった。


最後に香具師先生のお陰で逆さ字の書き方を覚えた話をしよう。
その人は新型の万年筆というのを売るのだが
通行人を集める為に地面に大きな白紙を広げ
太い筆で何やら字を書き始める。(通行人がぼつぼつ集まってくる)
しかしそれが逆さ字なので何を書いているか皆目分からない。
書き終えると その紙を裏返して皆の方に広げ、見せて廻る。
裏から見るとはっきり普通の文字として見える。
そこで香具師先生は大きな声で読み上げる。

この文句は何度も聞いたので今でも全文一字一句はっきり覚えている。

『純国産 文化の魁 Patent4568号 自動吸入式万年筆、
使用法の説明と現品普及の為工場より街頭へ!』

読み終わってから新型万年筆の講釈を始めるのだ。
(ではちょっとだけ逆さ字を書いてみよう)

@@@@@@@@@@@@@@@@@
(裏返して見よ)

※逆さ文字は紙を横にして左から右へ横書きするのがコツなのだ)

つづく                              父より

父の手紙No.16

2009年02月12日(木) 23時06分

これは先日行ったいちご屋さんで見つけた「みつまた」
紙の原料になるんですよね。
本当にどの枝も三本にわかれています。



今日は、父の自伝手紙から話を抜粋しようと思います。

*     *     *     *     *

「岡野君のこと」

閑散としたある日の午後、私は青年学校の二階で一人、レコードを掛け
窓際で聴いていた。
曲はモーツァルトの交響曲 第三十九番だった。
ふと窓から下を見ると、岡野君が「先生、三十九番(ばぁん)!」と言って手をあげた。
「おう、上ってこいよ」というとすぐ階段を上って入って来た。

彼は岡野薫といって私より三才下の十九才、青年学校に入った時から
何故か私に親しみを感じたらしく、いつも私の後に付いてくる。
国文科は全員女子なのに一人で一番後ろの席に座って
私の話を聞いているので、教材の資料は配ってやった。
起立!礼!も一緒にしていた。

暇な時はよく話をしたが、実は彼が音楽のクラシック通で
名曲は皆、頭に入っていたし、当時の有名なトスカニーニ・ブルノワルター
フルトヴェングラー・ストコフスキーなど、その特徴をよく心得ていた。
だから初めに書いたように曲の一部を聴いてすぐ「三十九番」と言ったのは当たり前だった。

家は学校の近くにあり、行ってみたら部屋の三方にレコードがびっしり並んでいた。
膨大な量だった。
私がクラシック好きで特にモーツァルトに熱中し、相当数のテープ・レコード・CDを
持っているのは彼からの影響に由るものだ。


彼は肺が弱いということで兵役は免除だったが実は肺結核だった。
国文科にいつも出入りしていたので女生徒たちに親しまれていた。
それがこの頃永く姿を見せないので彼の家へ行って見ると
布団に伏していて何か急に窶(やつ)れたように見えた。

その後時々行ったがその度に窶れてくるようだった。
ある日、私が見舞いに行くと彼はか細い声で
「僕が死んだらここのレコードをみんな先生にあげる」と言った。
私は勿論取り合わなかったが重体ではないかと思われた。

翌日国文科の女生徒たちに言った。
「実は岡野君の病気が大分重い、危険な状態だ」
生徒たちは「まさか?」という表情をした。
私は続けて「そこでみんなに頼みがある。出来るだけ早く岡野君に
お見舞いの手紙を出して欲しい。それには一つ条件がある。
今どき、なかなか手に入りづらいだろうが便箋も封筒もピンク色とか
花模様とか、なるべく少女らしいものを使って下さい。
そして出来るだけ長い文を書いて欲しい。この頼みは是非実行してもらいたい」と
真剣に話したらみんな黙ってうなずいた。

それから三週間ほどして、 岡野君は亡くなった。


これは後日、彼のお母さんから聞いたのだが
「薫が息を引き取ったあと、蒲団を上げたら
枕のあったあたりの蒲団の下に綺麗な色の封筒の手紙がいっぱい敷かれていました。」
と涙を溜めて私に話した。           


父からの手紙

2009年01月27日(火) 0時28分
父は生前の一時期
私たち子供に自叙伝やエッセイを書いた手紙をくれました。
実に二十数通になるのでした。
今となっては私の大切な宝物です。
その中から父が「文章の書き方」を講釈しているのがあります。
今日はそれを一部書き写してみます。




今回はテーマを一転して 文章の書き方について一講釈することにした。
文章で一番大事な事と言えば 当然ながら ただ一言
「よく解る」ということである。
読む人から言えば すんなりと頭に入って来ない文はまず駄目。
集中して読んでも よく解らないのは自分の頭が悪いんじゃなく
「文が悪いんだ」と思え。
実はこの前の手紙は「わかりやすい文」のお手本?として
書こうとした意図もあったんだ。

第二は
文の筋がしっかり通っていて、何を言いたいのかよく解る事。
この場合、簡潔なのが絶対条件。
説明が長たらしいと返ってわからなくなる。
簡潔で理解度の高い文を「達意の文」と言って
少し古いが鴎外や露伴は「達意の文」の名人だ。

第三は 
文にはその情景や心情を最も適切に表す語彙がある筈。
「ボヴァーリー夫人」のフローベルは「一語説」と言って同じような事を述べている。
 実はこの語彙の選択こそがその文の死活を大きく左右するのだ。
文だけでなく 詩・短歌・俳句の推敲もこれがポイントなのだ。

第四は
矢鱈に形容詞や修飾語を重ねないこと。
志賀直哉の「万暦赤絵」という短編の書き出しに
「京都の博物館に一対になった万暦の結構な花瓶がある。」
という表現を三島だか谷崎だか小林秀雄だか忘れたが絶賛していた。
花瓶の説明を長々しくせず 「結構な」というだけで
骨董としての愛着や花瓶の優雅さ・その時の作者の態度・心情まで感じられる。
丁寧に説明したくて形容詞を付け過ぎると
逆に印象が薄れてしまう事が多いのではないか。

第五は大体の構想を考えたら(出来れば要点をメモ)
初めはゆっくり書き出し乗ってきたら一気に書き進める。
文字はひらがなでも何でもいいから気分が途切れないように
一と先ず書き、後で必要なら漢字に改めればよい。

最後は推敲(これが最も大事)
読み返す時は必ず相手の心になって熟読する。
ひとりよがりにならぬよう。
身近の人に目を通してもらうのもよい方法。

その他細かいことはいろいろあるが、この辺で打ち切る。
手紙や葉書の書き方などもまた折りを見て書く。
                                以上




・・・・・とまぁ、こんな感じなのですが
ほかのきょうだいはともかく私に至っては
文中の書物をほとんど、というか書物をほとんど読んでいないので
父には顔向けできないのです。

文に限らず自分の思いを話すことも難しいですね。
昨日NHKの「ダーウィンが来た」で
オーストラリアに生息する鳥の面白くも悲しい求愛の様子をやっていて
あまりの感動に、ある人にそれを説明しようと思ったのですが
うまく伝えることが出来ませんでした。

亡き父の誕生日

2008年09月29日(月) 20時08分


今日は亡き父の誕生日。
他界して はや六年あまりになる。
一昨年は父のコスモスの句を紹介した。

今日は同じ秋の句を紹介しようと思う。



終章に 入りて伸びきる 天の川

(クラシックをこよなく愛した父らしい句である)




きりぎりす 棋士長考の 顎支へ

<以下、父の説明>
(囲碁(将棋)の棋士が顎を支えて長考している。
きりぎりすがその間に合わせるようにギーチョンと鳴く、
顎支えときりぎりすの形の相似性)




石仏の 団栗をよく はじくこと

この句はエピソードがあって何回となく父から聞いた。

父が大学卒業後アルバイトをしていた会社に
水原秋桜子の馬酔木同人の俳人がいて
まだ若い父の句を見てくれた。

上記の句を見せると

団栗を 弾(はじ)きて在(お)はす 石仏(いしぼとけ)

と直してくれ、その添削の見事さに感服したそうだ。

団栗をみると私は必ずこの2句をおもいだすのである。

父の命日

2008年08月19日(火) 4時48分
もう栗のイガが落ちていた
子供の頃からの馴染みの露草
おそらく「アマドコロ」の実
晩夏に咲く朝顔
秋海棠には石垣が似合う

写真には関係ないのですが

8月18日は父の命日なので

以前アップしたのもありますが父の夏の句を少し。

()の中は父の説明「自句自解」


強者また 傷つきやすし 夏芭蕉

(夏の芭蕉葉は大きく堂々としているが破れやすい。
強者もまた、実は傷つきやすい)





矍鑠(かくしゃく)たり 水撒きホース のたうたせ

(香西照雄先生は 「蛇使いのごとく」と評した。
老いてますます壮(さか)ん)




夏山の 競(きお)わずなりぬ ダム湖以後

(ダムが出来 山の険しさが失せて
互いに競うこともなくなった)



「喜び」は たはいなし 瓢(ひょう)太ることも

(人間の「喜び」などというものは
例えばヒョウタンが太ったのを喜ぶような・・)

山笑ふ

2008年04月30日(水) 0時08分


老いどちの 呼応ちぐはぐ 山笑ふ

父の句。

「老いどち」とは「老いた者同士」という意味。
ここは深く考えず底抜けに明るく句を鑑賞します。

俳句には「山笑う」(春)とか「山装う」(秋)とか「山眠る」(冬)など
独特のいいまわしがあって面白いですね。



4月27日の午後の空
なんと早くも積雲がでていました。
この時期の新緑
いろんな緑の絵の具をちりばめたような山が大好きです。

うぐいすも朝から綺麗な声で啼いてくれます。

うぐいすといえば
お詫びしなければならないことが・・・。

春先に「初音」というタイトルで紹介した父の句ですが・・・

今日父からの手紙を見たら
「衆目(しゅうもく)や 初音トチッて もう鳴かず」
とありました。

句の説明には
「衆人の前、初回に失敗して、飼い主が躍起になっても
二度と鳴かぬうぐいすの意地」と。

昔は見せ物でうぐいすを鳴くのを聴かせたりしたのでしょうか?
それにしてもはじめの5文字は違うし「鳴く」の字も違うし
漢字の間違いにうるさかった父が知ったら
大目玉を食らうところでした・・・・。



これはまるで水を張ったように見えますが
こんにゃくの土壌殺菌の為のビニールです。

今は器械で張るようですが
一昔前は手作業でやっていて相当大変そうでした。

谷内六郎

2007年11月23日(金) 1時10分






知り合いの方に

谷内六郎のカレンダーを頂きました。

父の影響で私は大好きなので大喜びです。

父は教育者でしたがいわゆる変にきびしい親で

毎朝クラシックをかけては曲名や作曲家を聞かれ

答えられないと怒鳴られました。

百人一首も特訓され

クイズ番組で答えられないと

夕飯後にはそれに関する講義が始まりました。

そんな父でしたが

時々世界美術全集を持ち出しては

家族を集め絵の鑑賞会をしました。

そんなときは父も上機嫌で

私もずいぶん画家の名前も覚えました。



この谷内六郎もそんな時間のなかの一人でした。

昔「週刊新潮はあした発売になります」というCMで

表紙がこの絵でした。

几帳面な父は綺麗に切り取り

スクラップブックに貼り付けていました。

絵のタイトルとその絵に関する作者の言葉が趣があり

父も感服していました。

似たような日本の叙情的なものでは

原田泰治や滝平二郎の切り絵も鑑賞会をしました。

こういった懐かしい叙情的な風景をみて

今の子はどこまで理解でき心に響くでしょうか。

できたらそういうものを観てピンとくるような

自然環境がいつまでも残っていて欲しいものです。


谷内六郎の絵は

単なる風景でなく子供の目線で

子供時代に人としておそらく誰もが味わったことのある

高揚・寂しさ・悔しさ・もの悲しさがテーマでもある絵が多く

それが魅力です。


50に手が届きそうな今になって

また父とこんな鑑賞会をしたいと思いますが

もう父はいません。






浅間山

2005年12月28日(水) 9時48分


上毛三山というと
国定忠治で有名な赤城山(あかぎやま)
頭文字Dにも出てくる榛名山(はるなさん)
岩山が険しい妙義山(みょうぎさん)だが
私は一番親しんできた
浅間山が好きだ。

時に冬の浅間はいい。
去年大きな噴火があったが
先日軽井沢に向かう途中も
相変わらず噴煙を吐いていた。

亡き父の俳句の中に確か


浅間山こそ・・・・・・冬の風雲児

というのがあったような気がして
・・・・・の部分がわからず兄・姉に聞いたがわからなかった。

父の自選句集にも同人であった萬緑の歳時記
「季寄せ」にもみあたらなかった。

実家に行って父の記録を調べればいいのだが・・・。
年が明けたら行ってみよう。

若いときから俳句を学んでいたが
東京から群馬に移り
中村草田男氏から「俳句を続けなさい」と
再三葉書を頂いたにも拘わらず
退廃的 自虐的 なところのあった父は
氏の没前にはとうとう句界には復帰しなかった。
氏を尊敬していたからよく句を口にしていたから
私が父の句と勘違いしているかもしれないが
地元の山だからおそらく父の句だと思う。

父のことを思うとき
風雲児という孤立したイメージを彷彿とさせるのである。

父のこと

2005年08月18日(木) 3時27分
三年前の今日、父が他界した。

私の実家の兄家族、帰省していた姉家族と我が家で
賑やかに過ごしていたときのこと。

母から電話。

「お父さんが大変なの。すぐ来て頂戴」
気丈な母は落ち着いていた。
兄の子供達は実家の内孫なので一緒に、
あとは大人のみで慌てて車で20分の実家に。
すでに息絶えていた。

その年の夏は辛そうだった。
入院先のベッドで辛くて横にもなれず夜お見舞いにいくと
「どうにもだるいんだ」といいベッドの上で座ってた。
18年前初めての心筋梗塞による発作で危険だったが奇跡的に持ち直した。
その後数年ごとに何度か危篤状態になった。
だからまた元気になってくれると思ってた。

身の回りはすきがないほどいつも整理整頓されていた。
壁中本棚ですこしでも勝手に動かすと叱られた。
用意周到な人だったから戒名も自分で考え遺影も自分で用意していた。
遺書もすでに書き、母や兄嫁にいつも
「おい、俺が死んだらまずこの通帳で真っ先にお金をおろせよ」と言っていた。

父は大正12年、関東大震災の年に東京で生まれた。
中村屋と同じ頃創業の新宿の和菓子屋の長男で当時羽振りも良く
従業員もたくさんいてあちこちに別荘もありいわゆるお坊ちゃんだった。
小さいときの交通事故が原因で足が不自由だったため兵役は免れたが
それはそれで忸怩たる思いがあったと思う。

今は世田谷に実家が移り父の弟が後を継いでいる。
20代に現在の県に移り住んだ。
地元の中学校に職があり教員になった。
同じ学校で和裁の教員をしていた母と結婚した。
5人子供をもうけた。

文学とクラッシックが好きで芸術が好きでいい女が好きで着道楽で何よりお酒が好きだった。
権力が大嫌いでアナーキーだった。
上司にいつも敵対してた。
短気だった。
私達には厳しい父だった。些細なことで何度も怒鳴られた。
ユーモアがあった。話術があった。
夕飯あとに画集の鑑賞会をしたりゲームをしたりして楽しませてくれた。

父のことは書き始めると本当にとまらなくなるので今日はこの辺で。
大嫌いなところもある父だったけどいなくなってみると良いところばかりを思い出す。




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