逡巡 

August 10 [Fri], 2018, 19:13
自分の生活が迷いに満ちたときは、父のことを考える。父と似ていることと違うことを考え、父が喜ぶ姿を想像する。

父は自分の人生を自分の言葉で語るのが下手だ。いつも父の父、私にとっては祖父についての話を通して、人としてあるべき姿について話をする。それは、父からの励ましを求め、父を人生の羅針盤としたがる私の兄にとってはとても不満なことであった。私は父が祖父を通じて話をすることそのものが父そのものの姿なのだろうと思いつつ、兄とは違う形で父の姿を追った。父はどちらかといえば危なっかしい兄についていつも心配をしていて、兄が大学入学とともに家を出てからは、その心配の度合いを強めた。それが私としては寂しさを感じつつ、家の中での自分の役割を理解していった。

私と兄はそれぞれ父について考え、時に父について話し合う。われわれのあいだには、「家族」以外の共通点はほとんど存在しない。私は兄の仕事や私生活にかんしてあまり興味がないし、共通の趣味があるわけでもない。兄は兄で私の現状を心配し、応援してくれているけれど、それは事実を知ったうえでのことではない。私も自分の日々の生活をそこまで細かく話したいとは思わない。なぜなら兄の考える私の像が努力とそれに基づく能力の開花に満ち満ちているのに対して、実際の私は10年来泥沼に足を取られ続け、能力の開花とは程遠い生活を送っているからだ。ここ数年は、今の仕事に意味を感じているけれども、それでも私の根本にある生活は破綻してしまっている。

冒頭に書いた迷いというのはまさにこの問題だ。

私は現在の行き詰まりに対して半ばあきらめたような態度をとっている。「どうにかなる/どうにもならない」の間で、確実にやってくる時間的な期限を迎えようとしている。おそらくどうにもならないのだ、そんなふうに考えている。その時に人前でさらさなくてはならない自分を考えると体中から汗が噴き出してくるけれども、だからといってその恐れや焦りは私を前に進めることなく、さらなる停滞へと導いてしまう。他のことは人並みにこなし、あるいは認められることもあるけれども、これだけは、どうしても、うまくいかない。うまくいくというより、まったく何も「見えない」。

なぜそんなことをそもそも選んだのだろうか。このことはもう考えつくし、自分なりの結論を出した。一言で言えば「勘違い」である。中身のない自信と、薄っぺらい能力(それはあった)によって、自分はこれしかないと思い込んでいた。しかし実際に周りをみわたすと、本当に選ばれた人間は、景色ひとつをみるときにも、その見え方が全く違うのだ。自分には見えない世界がはっきりと見えている。そういう人たちだ。見えるまでの努力もあったのだろう。人との出会いもあったのだろう。しかし、現状「見える/見えない」というはっきりとした線引きが、私と彼らとの間にある。

それではどうしようと次のことを考えたとき、私はできる限りここに居続けることを決めていた。そこで最大限の努力ができるわけでもないけれども、自分からあきらめることはやめようと考えていた。しかし現状について実際は、ほとんどあきらめ、手を放している状態にあるといえる。



書こうとすることはすべて言い訳であり現状をせめてきれいに飾ろうという安い自尊心だ。そのために、だれかのために何かをがんばるつもりであるという自分をかくことで自分を慰めようとしている。しかし、その次につながる俺の行為はおそらくまた何かに流されるだけであって、ここに書こうとしているようなものではない。それが、わたしが自分をこれにかんしてあきらめているゆえんなのであるけど、でも。

生きるということは動くことで、水だろうが人間だろうが動かなければ腐りゆくものだ。動かない水と流れる水。ただし流れる水はそこに始まりと終わりを生み出し、喜びと悲しみのないまぜになったものを生み出す。だから、水が流れることを否定しようという気持ちもわかる。

静止と運動ははるか昔から争い続けている。運動の中での争いもあるし、静止の中での争いもあるのだろうけれど、大きな争いは大文字の静止と大文字の運動の対立だろう。おれは静止するのだろうか。運動するのだろうか。運動できるのだろうか。運動ってなんだっけ。


結局運動と静止みたいなこと言ってる時点で、ひとつのことではなく二つ以上のことを考えている。一つ一つはつねに点で、線ではない。点のみでは運動でも静止でもない。だから、運動と静止以前なんだと思う。まずは一つ。一歩。ひとつの理解と一つの疑問だろう。それがなければそれに続くものもない。

書く前に考えていたこととはだいぶ変わったけど、それでもいいや。


それでは、失礼します。もし読んでくださる方がいたら、ありがとうございます。

おカネの教室 

April 26 [Thu], 2018, 11:36
『おカネの教室』高井浩章、インプレス

面白かった。経済の話は、具体例のわかりやすさによって難しくもわかりやすくもなると思うのだけど、今回の本は、例がかなりわかりやすい。内容も、元銀行家のおじさんが中学生二人に語り掛けるという体裁なので(もともと筆者は自分の子供に話していたものらしい)わかりやすい。その分、もう一歩深く知りたい…という箇所もあったが、それでも全体としてはとても発見的で、興味深かった。

まず面白いのは、お金を手に入れる方法として、

かせぐ、ぬすむ、もらう、かりる、ふやす、???

という六つの手段が挙げられたこと。かせぐ、ぬすむやもらうという言葉は、そのままの意味ではなく、不正な手段を使って、だれかが損をする仕方で大儲けすることを「ぬすむ」と呼び、正しい手段でたくさんもうける人が「かせぐ」であり、両者の中間にいるのが「もらう」層だ。さまざまな理由でまっとうに生きているがたくさん稼げない人がここに入る。おれもここに入る。

この区別を提示する過程で、リーマンショックにおいて「ぬすみ」を働いた人々の紹介や、最古の職業である売春婦や軍人が登場する。後ろの二者は、本書の重要概念である「必要悪」を説明するために用いられている。正義を信じるとしても、どうしても人間は一から正義のみを積み上げて社会を作るわけにはいかない。その時必要とされるものであるとされる。ただ、基本的には「ないほうがよいもの」とされている。わたしは、この評価については、言及しない。


さらに、個人的に興味深かったのは、福祉国家の発達の一要因として、経済成長にともなう長寿化だけでなく、冷戦が挙げられていることだ。資本主義社会では、基本的に自分で稼いだものが自分のお金で自分を守るのが原則なのだから、福祉国家は発達しないはずだ。しかし当時は、社会主義国家が福祉国家になるものとして存在していた。だから、資本主義国は、社会主義国に対抗するために、自分たちも福祉に力を入れていることを示す必要があった、という説明である。これは一つの説明だとおもうけれど、それでもわたしには説得的に聞こえた。

中学生の二人もとても魅力的です。消防士がお父さんの男の子と、資産家の娘の女の子、彼らの成長も見れます。

お金を手に入れる第六の方法については、もう少しいろんな知識を得た後で、気が向いたら書きます。

門外漢にとっては、とても面白い内容でした。


目次抜粋

1時間目 そろばん勘定クラブへようこそ
2時間目 お金を手に入れる6つの方法
3時間目 役に立つ仕事 立たない仕事
4時間目 リーマンショックはなぜ起きた
5時間目 もうけは銀行家、損は国民に
6時間目 いる?いらない?最古の職業
7時間目 戦争と軍人
8時間目 「フツー」が世界を豊かにする
9時間目 キーワードは「持ち場を守る」
10時間目 資本主義・社会主義・民主主義
11時間目 働くということ
12時間目 「タマゴ」がわかれば世界が見える
13時間目 お金の借り方、教えます
14時間目 貸すも親切 貸さぬも親切
15時間目 低金利の真犯人は「市場の力学」
16時間目 株式投資と「神の見えざる手」
17時間目 貧富の格差が広がる理由
18時間目 6番目の方法

本 わかったつもり 

April 20 [Fri], 2018, 23:51
『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』西林克彦、光文社、2005

本の紹介。

簡単な自己紹介をされて、その内容を理解したとする。
その時、理解したという気持ちになれば、それ以上話を追求しようとはしないだろう。
しかし、その簡単な自己紹介も、本当はその人の人生をすべて畳み込んでいるものだ。
だから、本当はその自己紹介は、無限に長くなりうるし、その意味で、その自己紹介は、不完全なものだといえる。
しかし、そんなに疑問に思われることはない。そういうものだ。
この人は、この観点で自分の人生を切り取って紹介したのだから、それをそのまま理解すればそれで十全な理解だと思う。

その点に異存はない。ただし、もしそれが国語の授業などで読んでいる文章だとしたらどうだ。
簡単な説明文を読まされて、それを理解したとする。しかしそれ以上その理解を深めようとする人間はいないだろう。
でも本当は、その文章は、先の自己紹介同様、無限に近い深みを持っている。
小説でも同様だ(深みの説明は難しいけど)。
でもわれわれは、それ以上追求しようとしない。われわれ、というのは、国語という科目と向き合っている子供たちがだいたいあてはまる。

著者の西林さんは、ひとが「読解力」を身につけない理由を、「わかったつもり」としている。その通りだと思う。
人は、「わかった」と思うものを追求しようとしない。なぜなら、わかっているのだから。そして「わかれ」と日々言われ続け、「わからない」=問題が解けない状態だとすると、わからないにたどり着くには、問題が必要だ。答えのある問題が。だから、問題を与えられない限り、わからないは存在しない。(この辺は私の文章です)

さて、わからないの原因を、西林さんは、文脈に求める。わかりやすい話だ。
たとえば、

布が破れたので、干し草の山が重要だった

とある。これを読んですぐさま意味がわかることはない。しかし、前提として「パラシュート」という言葉が与えられていれば、理解は格段に進む。つまり、パラシュートの布が破れたが、干し草がクッションとなり、助かった、みたいな理解になる。
干し草がクッション代わりとなることや、パラシュートが破れると落下速度が増すこと、これらは認知心理学的にはスキーマとよばれ、読解の際の基礎的な能力とされる。筆者は、スキーマも合わせて、文脈力と呼ぶ。読解には、文脈力が必要である。

さらに筆者は、わかったつもりになる理由として、「全体の雰囲気」というものを挙げている。
ここでは先述のスキーマが悪影響を及ぼす例が挙げられる。
たとえば、天平文化の紹介文を読んで、仏教と正倉院の関係について、問題が出されたとする。正解は、「書いていない」である。その文章には仏教と正倉院の関係は、事実、書かれていない。しかし、その問に対して「書いていない」と書いた学生(大学生)はたったの9%だったらしい。正倉院は、仏教文化として中学校で教えられるものだ。だから、たとえその文章に書いてなかったとしても、読む人間はそこに書いてあるはずだと考えてしまうのだ。これが「全体の雰囲気」という読解を妨げるイドラみたいなものだ。

われわれは、様々な「わかったつもり」を自分で壊しながら理解を進めていかなければならない。

という筋だと思う。

面白い本だった。特に文脈力に関する例は、一つ一つの説明が執拗になされていて、十分納得のいくものであった。
ただ、その「わかったつもり」を壊すモチベーションが難しい。

人は、自分がわかったようにわかればそれでいいし、それをわざわざ覆そうなどとは思わないからだ。中学生高校生で、受験を控えるというなら、わからないことに敏感かもしれないが、それも、問題を解くという前提のうえでだ。そもそも正しく理解したという根拠がどこにあるのかわからない。だから、正確に読もうというモチベーションが育たない。

この本は、一部の人に対して、「われわれは容易に間違いうる」ということを知らせることで、正確に読むモチベーションを与えてくれるかもしれない。


5/29(真) 

May 30 [Tue], 2017, 0:51
ひどすぎ

結局午前の使い方に尽きる

論文半分理解

かなり使えそうではあるが、量が必要

明日の午前中が今週前半の山場。

今週後半から週末はまたひとつ決戦だと思え。そこで決められないと、来週が意味なくなる。


5/29 

May 29 [Mon], 2017, 4:13
いろいろまったく進まず退歩。
時間はやっても進まない日の典型。

やることの確認と、読むべきものを読み進めた。

でも、このこれ嫌い。まったく面白くない。完全なパズル解きに見える。
でもすっきりしてはいる。そういうのって頭に入ってこない…


…パズル解きになってしまう根拠を探せ。そもそも何が問題なんだ。重ね合わせの組み合わせが多くなるのはなぜ。
重ね合わせようとすることは正しいの?

二つの事柄の分析の必要は、なぜ生じたの?それはきっとあれの問題に直結してて、
でもそのくせ、そのあれをここではっきりとすり合わせてこない。その理由はわかる。
そのせいで複雑になる。最終的に、見ることは知ることと異なってくる。

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