無題

March 10 [Sat], 2012, 16:53
一年前の 3月におおきな災害がありました。

もう一年経つという事でテレビが色々報道をしていますが、正直な所私はそれを見る事ができません。

見なければいけない。忘れてはいけない。と思う気持ちはあれどまだ私の中で全然過去の事ではなく脳裏にあの怖さが染み付いているので、気持ちが落ち込んでしまいます。

正直にいうとさんといちといちという数字が並んでいたらもう駄目です。
その数字を見ただけで心がすごく沈みます。

3月11日はツイートやめろとか言うけどそれなら911とかもツイートすんなとかそのたぐいのRTはできればもう控えて頂きたい。私はそのツイートですら傷をえぐられる。そんなしょーもない論議はいらんし。

忘れたらあかんけど、今の私にはまだちょっと振り返るというのは無理かも知れない。
母に数字を見るだけで辛い、チャンネル変えて。とテレビチャンネルを変えてもらったりしてて、そんな自分がちょっと情けなかったりします。

追悼の気持ちで何かをするプロジェクト。とかも何も冷やかしでしている訳じゃないし、気持ちは本当に犠牲になったたくさんの人の為を想ってて一生懸命なだけ、って頭ではわかるのですがなんか色々と考えてしまいます。

私、被災者じゃないのにこんな気持ちでテレビが見れないのに、現地の人達はどうだろうか。現地に家族がいた人達はどうだろうか。その気持ちを考えると自分が恥ずかしくなり、そしてやっぱり辛くなります。


今の私にはやはり何も出来ず、ただただ皆さんの心の安らぎをしずかに願う事だけです。
毎月の募金だけはこれからも続けます。


ーーーーー
追記
すごく後ろ向きな漢字な記事になっちゃったけど、後ろ向きとはちょっと違うんだ。
前を見て入るけど一歩がちっちゃくでのろい感じ。笑
がんばります。
被災地の人はもっといろんな気持ちがあると思うしその中でも力一杯頑張ってるんだと思ったら私もがんばらねばね!
仮設住宅の人が一日も早くあたたかい家に住めます様に。

March 06 [Tue], 2012, 22:10
うちのお父さんはそれはそれは乱暴者で暴力という言葉では治まらないレベルの暴君でありました。
子供の頃はただ怖いだけで大嫌いだった父。
私が物心ついた頃、もう母は家にはいなかったし唯一覚えてる母の記憶は痛々しいものばかりだったのでその記憶がなおさら父を憎み嫌う理由となりました。

5人いる兄弟、仲良く育ちました。
長女が母親役をしてくれて毎日お弁当を作ってくれていましたが、その姉も結婚と当時に父とぶつかり、家出をし音信不通となってからは次女が家のお母さんになりました。
当時高校2年生だった次女。部活もやめ、生活の全てを家の為に捧げてくれていました。


色々あってある日私は父にも姉達にも誰にも内緒で母と会える事になりました。
あれは小学校4年生になりたての時。4年生からは学校の送迎バスではなくて自分で市バスに乗って学校に行くからです。
何年ぶりかの母をみて、私は涙が止まりませんでした。
母が生きているかもわからず、自分には母の写真さえ残っておらず本当に寂しかった。
もっと寂しくて辛い境遇の人は沢山いますが、それでも当時の私には十分さびしかった。
普段母の名前は禁句だったので子供ながらに沢山我慢をしたのだと思います。
父はとにかくよくどなり、よく暴れ、よく殴り、めちゃくちゃな人でした。
子供ながらにたくさんの事を抱えていたのか、子供の頃から私は多発生円形脱毛症に悩まされてもいました。
私たちにだまって3女はもっと早くに母と連絡をとっていたらしく、母からその事を聞いていた私は私の頭を見てないていました。
頭を撫でてはごめんな。がんばりや。ごめんな。がんばりや。とくりかえしていました。

母とのお別れの時、私は一人バスの中から外の母を見、小さくなって行く母を見ながら号泣しました。
幸せと辛さの量が同じでした。
泣いてる顔で家に帰ったら父に怪しまれる。でももうフォローできる状態の顔ではなかったので私はバスを降りて走りました。
そしておもいっきりこけてみました。足に擦り傷ができるまで、何度も何度もこけました。
はたから見れば変な子でしかありませんが、私は真剣でした。
そして満足のいく怪我ができたので泣きながら家に帰りました。
子供ながらに演技は100点でした。

バレたら母は殺される、もしくはもう2度と会う事はできない。
母と姉にはそう言われていました。
必死でした。

子供の頃の私にとって父は本当に怖い人でした。でもどんなにめちゃくちゃでも好きな時もありました。
親子って不思議です。

ーーーー
私たち兄弟はそれから父に内緒で長女とも会いました。
長女のお腹は大きくなっていました。
生まれたのは今高校生の甥っ子。
小学4年生の私にとって、赤ちゃんは救い以外の何者でもありませんでした。

父は母以外にもめちゃくちゃでした。
特に次女には殴る蹴るの暴力が酷かった。
毎日がとても辛い事の連続でした。学校だけが楽しい時間でした。
とにかく家に帰りたく無い、家が辛い、そんな日は近所の空き地で時間をつぶして帰りました。

日曜日は部活にいく振りをし、体操着を着、練習着を持って早朝に家を出ました。
そして電車に乗り長女の家に行きました。
あかちゃんを見ると不思議だけれど元気が出ました。
ただ姉の家でボーっとするだけ。
帰る時間が近づくのが嫌で泣いた日もありました。

家を捨てて妹達を置いて逃げ出した長女はあのとき本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだったみたいですが、どうじに逃げ場として待ってかくまってあげれた事がすくいだったと最近言っていました。

しばらくたち、兵庫から大阪へ引っ越しが決まったとき、私たち兄弟は決心をしました。
皆で家を出て行こう。と。

引っ越しの荷造りをしながら本当に必要な特別な物だけをそれぞれ別の箱に積めそれだけを姉の職場に置いてもらいました。そしてそれ以外の荷物を引っ越し先へ運びました。
6年生でした。これでいつでも着の身着のままで家を出れる。と思いました。
引っ越しが済み、次女が家出をしました。兄弟達は知っていました。
皆内心とても不安で、どうして一人先に出て行くのと思いましたが、誰も口にしませんでした。
次女にはとても言えませんでした。
誰よりの父の暴力に耐え、妹達を庇い、守ってくれたのは次女でした。
母も長女も沢山力になってくれましたが、実際に父との暮らしの中で頑張っていたのは次女でした。

中学1年生になった頃、とうとう次女が出て行き、家のお母さんがいなくなりました。
三女は舞台人。父は三女に舞踊だけはなんとしても続けろと言っているような人間でした。
そんな三女に舞台をやめさせるわけにはいかない。
そこで父が思いがけない行動に出ました。

母に連絡をとったのです。

父は誰もしらないと思っていたでしょうが、私たちは知っていました。
母が、帰って来る事を承諾した事もまた、知っていました。

家を出て、母と暮らす家ももう決めていたのに、母は頷いてしまったのでした。
そしてさらなる泥沼がはじまりました。



ーーー
もう書くの疲れた。笑
父の還暦の事を書きたかったのだよね。
過去の色々ごと、父を抱きかかえてる、4姉妹。
男としてどうしても父を好きになれない兄。
そんな兄とゆっくり電話した事。
子供の時はただ怖かった父の大きさや優しさがわかって来た事、どんな父でも私たちの父はあの人だけで、嫌いでも大事にしないといけないと言う事。(私は好きだよ)
もちろん暴力は1000000%悪いという事。
兄が高校生のとき、父の暴力から母を庇っている姿が忘れられない。
母に覆いかぶさり、ひたすら耐えていた。
父と兄はどうやっても歩み寄れないらしいけど、それでもあの兄が来た事を父は喜んでて、兄とお嫁さんの結婚式の格好を見てずっと泣きじゃくっていた父が私はやはり忘れられない。

思いがあまりにも複雑でたくさんあっておおきい。

ただ一つ伝えたい事は長生きをして欲しいという事だけ。


あと補足するなら、警察は何も守ってくれなかった。
過去2回警察に助けを求めて来てもらったが、おまわりさんも父の恐ろしさに逃げて行った。笑

くみこぉ!!!というペルソナ召還

February 13 [Mon], 2012, 0:15
昨日やっとクミコに色々を話せました。
もうね、仕事の事とかも含めて言う事が本当に多かった。

隠しておきたい様な自分のあかん所とかも全部言えて、現状に至るまでの色々を話せて本当によかった。
このブログ自体が間接的なクミコへの報告書(笑)みたいなもんやから、大まかな事は把握してもらえてたけど、細かい時間軸の色々を聞いてもらえて、ここには書いてない新鮮なネタも話せたからちょっとスッキリ。

クミコが慎重なアドバイス?というか話をしてくれてたいぶ落ち着いてるし、冷静やし、モヤモヤはちょっと無くなった。 

話した通りに、なんだか自分の中で二人の自分が反発しあってる感じ。
しっかりして頑張らなければ。

私って、どんな診断テストしても『石橋叩きまくって叩きまくるタイプ』って出るけど、本当にそうやわ。笑
このままじゃ、叩き過ぎて壊してしまいそう。( ̄◇ ̄;)

ただ心の向くままに。頭と心って別ね。難しい。


_____



ちょっと別の話になるけど、在日としての考え方が最近クミコの影響で本当に良くなってきている。
クミコは日本人の友達もいーーーーーーーっぱいおるし、別に朝鮮人という事を全く隠してもないから端から見ててすごくかっこいいです。
『自分と会って話す事で在日朝鮮人へのイメージがいい意味で変わったらいいなと思う』っていう考え方。
私には無かった。
おかげで、最近は勇気を持って色んな人に『実はわたし在日朝鮮人で朝鮮学校に行ってました』って言える様になってきた。


学生の時本当に怖い思いをしたのもあって、まだ怖いしめちゃくちゃ勇気が必要で、言っておきたい人にしか言えないけど…。
在日朝鮮人って言う事に対して私自身が引け目を感じる事は前より少なくなった。
というか、世間の人は私が思ってるよりずっとずっとずっとずっとずっとずっとずーーーっと『何人か』ではなくて『誰か』で見てくれてる。
自分でも私は逆に気にし過ぎって自覚はあるけど、あの学生の時の経験はやっぱりトラウマになってるから本当に怖いです。

言うのは本当に怖くて勇気がいっぱい必要で、今日も自分は在日なんですよというのを話してる時に、気付いたらテーブルの上に置いてた手がプルプル震えてて自分でもびっくりしたし、声も震えてたけど、ちゃんと話は聞いてくれた。

お母さんが日本人で日本の人だって受け入れてくれる人がいーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっぱいいるって一番わかってるはずの私が気にし過ぎててバカみたい。

私は視野が狭すぎる。もっと広く大きくなれよ。
たとえ私の人種を知った事が原因で嫌われてしまう事があっても、私がそのままみんなを好きでいれたらそれでいい話。
プロフィール
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  • アイコン画像 ニックネーム:かを
  • アイコン画像 誕生日:8月2日
  • アイコン画像 血液型:AB型
  • アイコン画像 職業:専門職
  • アイコン画像 趣味:
    ・絵を描く-漫画とかイラストを描いています。
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好きな漫画家は、荒木飛呂彦先生、田村由美先生、高尾茂先生。リスペクト。
仕事から帰ると家でちまちま漫画書いて投稿とかしてます。
だから基本的にいつも眠い。笑
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