学生球技の指導者が陥り易い問題

January 10 [Thu], 2013, 12:22
 大学時代、高校時代、中学生時代のような学生時代の
スポーツは競技そのものの勝敗も問われるが、数十年が
経過して自身の人生として振り返った時に、各々の中に
何が残るか。あの時に勝った負けたという事よりも過ご
した日々や時間、取り組んだ事、自分を出し切った感覚、
限界まで挑んだ達成感、精神的な充実というような人間
としての要素や記憶である事の方が大きい。
 実業団のスポーツはそれで給料をもらいプロとして競
技をするのだから厳しく競技能力や試合結果、試合での
一挙一動足が査定されるが、学生時代までのスポーツは
競技の勝敗よりも人生として見た場合は人間教育、人格
の鍛錬、人間の芯の部分を育成するという要素の方が大
きいように感じられる。

 大阪の高校で生徒が指導者からの体罰を苦に自殺する
という悲劇が生じた。
 このような事態は生徒が自殺する等の最悪の結末にな
らない限り世間的には表沙汰にはならない場合のほうが
多い。特に球技種目においては何故か上級生から下級生
に対する暴力やいじめ、指導者からの指導という名の下
の暴行が日常茶飯事である。陸上競技のような走る、飛
ぶ、投げるという人間の本能と身体能力に根差した分野
ではほとんど暴力やいじめは見られない事に対して球技
では逆に何故、いじめや暴行、暴力が日常茶飯事になる
のだろうか。
 競技能力や資質の向上につながる指導ではなく根性論
や陰湿な性癖とでもいうべき暴行による指導の事例を耳
にする度に私はまたかとうんざりする。
 走る世界が絶対的であるのに対して球技は相対的であ
るからだろうか。例えば走る世界では下級生が上級生よ
り速く走ったり、走る事が強かったら大抵は尊敬される。
ところが球技では下級生が上級生よりうまくて試合に出
場でもすれば大抵は陰で上級生からいじめられたり暴行
を受けている。この違いは何だろうか。人間の本質、性
(さが)を考えないではいられない。

 高校生といえば思春期ではないか。発育途上の多感な
人生の時期は大人からの何気ない言葉で深く傷付いたり
逆に意欲的になる場合がある。大人が考えている以上に
中学生、高校生の時期は大人からの言動が生徒の人格や
その後の人生に深く影響を及ぼす事が多い。指導者はそ
ういう事をも考慮して指導に立っているだろうか。
 指導者が陥りがちな思考回路として自分が指導してい
る学校が強豪になった、或いは自分が古豪を指導してい
るという成果を確認したくなる、実績を他校や世間に対
して誇りたくなるという認知欲がある。世間から名指導
者として認知されたいという認知的欲求である。これが
肥大し過ぎると生徒本位ではなく自分本位になっていく。
球技において時折そのような指導者を見かける。高校生
のスポーツは競技の勝ち負けも大切だが先ず根底にある
のは人間育成としての教育としてのスポーツだという意
識は消滅し、何が何でも勝利するそのために生徒を駒と
してしか見なさなくなる、勝利は生徒達の育成のためで
はなく指導者である自分の名誉のために捉えるようにな
っていく。それが球技における学生スポーツによく見ら
れがちな勝利至上主義を生んでいく。
 全体を支配しているのは競技をしている喜びではなく
極度の緊張とまた殴られたり蹴られたりするのではない
かという恐怖感、負けたらまた殴られるという呪縛と委
縮しかない。生徒自らが向上する喜びや成長したい、だ
からもっと球技をしたいという自発的な意欲を削いでし
まっている。
 今回の大阪の高校で生徒が指導者からの暴行を苦にし
て自殺したという悲劇は世間に露見した氷山の一角であ
る。顕在化していないだけで全国各地にはこのような事
例が山ほど存在しているという事実を認識しなければな
らない。指導者は生徒の人間的な成長と今後の人生につ
ながる視野を持った球技の指導を心掛けるべきである。
生徒達が真剣に向き合った中で生まれる勝敗は有意義で
生徒を成長させていくが恐怖に支配された中で強制され
た勝利を目指す感覚の中からは時に生徒を歪めてしまい
さへする。

 学校教育の中でけじめは大切である。
 生徒が意図的に反抗したり授業を妨害するような言動
を行ったり、他の生徒をいじめたり暴行を加える事態が
発生した場合は教師は厳しくこれを叱り、時には張り手
の一つや二つは必要である。それは時と場合による。
 逆にこれを体罰だと世間が騒ぐのだとすれば、それは
世間が間違っている。
 しかし時と場合に止むを得ず、叱る中での張り手と明
らかに不必要で不自然で度の過ぎた暴行とは指導者もわ
きまえなければならない。ごく普通の指導の場面で言葉
と同時に蹴りや拳が出る指導者が時にいるが、そのよう
な性癖の一部の指導者がいるために本来は必要な躾とし
ての暴れる生徒に必要な張り手までが暴力とひとくくり
にされて教師全体が委縮してしまう事態をも招いている
のである。
 スポーツ、特に球技をしている生徒達が意欲的に自発
的に取り組んでいるのか或いは指導者による威圧と暴行
による恐怖に支配されて委縮しているのかで生徒達の人
格形成に与える影響は全く異なってくる。間違った恐怖
で支配すればその球技が好きで始めた生徒すらその球技
を拒絶してしまうようになりかねない。生徒にトラウマ
が出来る指導は明らかに間違いである。

 多くの球技の現場で生徒同士や上下関係、或いは指導
者による暴行は日常茶飯事である。多くは公然の秘密に
なっているままに時が過ぎて行くが、中には教育委員会
に相談や連絡する保護者や生徒も少なからずいる。
 しかし各地の教育委員会の事無かれ主義はもはや重症
と言うべきものであり、多くの人達は頑として腰をあげ
ない教育委員会の実態に驚き呆れ、しかしやり場のない
虚しさに途方に暮れるだけの場合が多い。
 多くは事実を確認しても何もなかったかのように偽装
されるだけである。
 いじめや暴行問題に深く巣食う悪しき慣例である。
 何故かいじめや暴行が発覚した学級はその教師が駄目
だという評価につながり、いじめや暴行があると発覚し
た学校はその学校が駄目だという評価にされる。だから
教師の多くはいじめの相談を受けてもいじめが無かった
事にしようと必死になり、学校全体で問題になっても学
校が隠蔽を図るようになる。教育委員会は教育委員会で
問題を解決しようとするのではなく、できるだけ隠蔽し
て何事も無かったかのように取り繕う場合が多い。
 このような発想が、例えば仙台市内の高校で煙草の火
を腕に何度も押し当てられるという凄惨ないじめに遭っ
た生徒に対して学校側が「やけどの跡を他の生徒達が見
たら動揺するから」という信じられない理由で被害に遭
った生徒の側に自主退学を迫るという狂気の対応を行う
事態になるのである。加害した生徒を厳しく叱り場合に
よっては煙草の火を押し付けた生徒を退学させて然るべ
きところを逆に被害に遭った生徒を排除して口を封じて
何事も無かったかのように取り繕う。このような事例が
各地に多過ぎる。
 敢えて何度も言えば、教育界は重症である。

 教育は生徒の知的にも体育にも健全な育成こそが肝要
である。そのためには先ず学校や教育する側が健全でな
ければならない。そして間違った事をした生徒や他の生
徒に加害した生徒を厳しく叱らなければならない。
 勿論、生徒に加害する教師は論外である。
 しかし止むを得ず、時と場合に応じては必要な張り手
や拳骨はある。
 その兼ね合いとバランスは健全な人格からしか生まれ
ない。
 学校や指導する側と生徒達に共に共通して必要な事は
「ならぬ事はならぬ」というけじめである。
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