ストリートパズル(軽井沢学園を応援する会会報)第10号より

April 28 [Sun], 2013, 0:17
‐園の庭をはきながら‐
育ち直し
−マユ戻っておいで−
たかねっち☆

 太平洋戦争終結の折、多くのこども達が空襲などで親を失い孤児として路頭に迷っていました。そのようなこどもたちを保護して軽井沢の地に集め、育て始めたことが軽井沢学園の起こりです。雨風をしのぎ、粗末な食事を提供しながらも日本の未来である幼い命をつなぐことが開園当初の価値観であったのに対し、およそ70年の時が経った今、時代は大きく変わり児童養護施設にも新たな価値観が生まれました。それは「家庭的養護の推進」です。
 家庭的養護とは、一般家庭のような家族単位(少人数)で行う養育のことで、簡単に言うと、施設を小さくする(グループホーム化)ということです。こどもにとってそれが良いに決まっている。そんな時代の流れに乗って、私たち軽井沢学園でも数年前に一軒のグループホームを建てることにしました。これが現在の小規模グループケア棟「ほほえみ」です。
 「ほほえみ」では、6人のこどもが暮らしており、3人の職員が交代でこどものお世話をしていますが、軽井沢学園本体施設(以下、本園という)とほほえみとでは、その暮らしぶりも大きく違います。例えば、本園では保健所の指導もあり厨房への出入りは施錠によって厳しく制限されているのに対し、ほほえみにはリビングと向き合った対面式キッチンがあって自由に出入りできます。食材も本園では業者のトラックから搬入されますが、ほほえみでは、夕方こどもと一緒にスーパーまで買い物に行きます。入浴もきっちり時間で区切られている本園に対し、ほほえみでは自由な時間に入ることが出来ます。その他にも挙げればきりがありません。
しかし、その中でも私が思う一番の違いは、こどもと大人の距離感です。狭い空間の中で、特定のこどもと大人がじっくり向き合うことができること。これこそが、こどもの育ちにとって大切なことであると思っています。前置きがとても長くなってしまいましたが、今回は、そんな小さな施設で暮らすこどもと大人のお話です。

「うぜえ、マジうぜえ、もうこんな学園脱走してやる!!」そう言ってマユ(仮名)は本園の長い廊下の壁やドアを足でドンドンと蹴りながら闊歩(かっぽ)します。何が気に入らない訳でもなく、これが13歳思春期真っ只中のマユの日課でした。語尾に「死ねっ」を付けることが口癖で、施設職員やクラス担任に対し、決して本音で話すことなく、いつも強がっては小さなこども達に威圧的な態度で接する彼女は、こども達から恐れられていました。過去に多くの思春期のこどもを見てきた私ですが、その中でもマユは、対応困難な部類に入るこどもであり、5年以上経った今だから打ち明けますが、トラブルを避けるため、なるべく自分からは近寄らないようにしていたことも事実です。
幼い頃からここで暮らしているマユには両親がいませんでした。頼れる身内のいないマユにとってはこの学園が唯一の家であり、この学園から社会へ巣立っていく宿命にありました。そんな中で「ほほえみ」開所の話が持ち上がります。開所にあたり50人のこどもの内6人がほほえみへ引っ越すことになるのですが、大勢のこどもが希望する中でマユはそのメンバーに選ばれました。選定に当たっては、マユの生活態度や素行の悪さから、大人の目の少ないほほえみでは心配という反対意見も出ましたが、近い将来自立するために彼女にとって必要との判断により優先的に選ばれました。
 そして、ほほえみ開所と同時にマユの新生活が始まりました。選定時の予想どおりマユは悪態暴言の数々、まさにやりたい放題です。しかもマユを担当していたのは、就職して2年目の新人保育士「北ちゃん」です。マユの粗暴ぶりに新人では手に負えず、開所間もなくしてほほえみが崩壊してしまわないか。予想を超える事態に「しまった、判断を誤ったかっ!」と、当時の私は不安が尽きませんでした。
 しかし、そんな乱暴なマユに対し、北ちゃんは逃げるどころか、そのおっとりとした性格で彼女を受け止め、包み込んでしまったのです。そして3か月もしないうちにマユの暴言は少しずつ収まり始めました。
 そして、マユに異変が起こります。
 今まで悪態つきながらも毎日登校できていたマユが突如「気持ち悪い」「お腹痛い」そう言っては学校を休むようになったのです。マユ中学2年の夏でした。受診してもただの風邪だと言われ、血液検査も異常なしでした。初めのうちは「ヤツめ、怠け癖が付いたかな」などと軽く考えていた私たちですが、秋頃には全く学校に行けなくなりました。ここで初めて不登校という現実に直面したのです。
 この時、私たちは一つの決断を迫られました。無理やり学校へ行かせるのか、それとも不登校を容認するのか...とかく施設では登校渋りのこどもを無理やり学校へ行かせようとします。何故ならば、施設は集団生活であるため、一人の不登校を認めてしまうことにより、他の子も次々と学校へ行かなくなる“不登校の連鎖”が起こることを恐れているからです。そして、何より18歳までしか施設にいられない条件の元、不登校や引きこもりのこどもを気長に見守ることが出来ない現実も、不登校を簡単に認められない理由の一つでした。

 そんな議論の中で、マユをとことん受容していきたい。本園では出来ないことも、ほほえみだったら出来るはず。そんなプライドと使命感によって、マユの不登校に付き合う覚悟を決めたのは、北ちゃんはじめ現場の保育士たちでした。
マユの不登校を施設全体で容認することに決めた私たちは、「今日は学校に行かないの?」などとプレッシャーを掛けることを一切やめ「マユは当分学校へは行きません」と学校にも宣言しました。マユと北ちゃんの掃除や洗濯、食事作りの日々が始まりました。
しばらくすると再びマユに異変が起こります。
夜になると「北ちゃん一緒に寝よ」と言っては添い寝をせがむようになったのです。また、勤務が終わって帰ろうとすると、北ちゃんの裾を引っ張り「お願いだから帰らないで」と言って涙ぐみ、更にはトイレにまで付いてくる始末です。まるで、新しく弟妹ができ、お母さんを独占できない淋しさから“赤ちゃん返り”するこどもと一緒でした。そんな報告を受け、去年までの「うぜえ、死ね」と言ってはトゲトゲしく悪態をついていたマユからはおよそ想像もつかない事態に、私たちは困惑しました。
マユに「退行」が始まったのです。
私たちは再び選択に迫られました。果たしてこのまま退行を許して良いものだろうか、このまま受容し続けることで、自立間近のマユが自立とは逆の方向へと向かってしまわないだろうかと・・・

『三つ子の魂百まで』という言葉があります。これは、幼いころの性格は、年をとっても変わらないという意味のことわざですが、それを鵜呑みにして「3歳までに大切なことを身につけさせなければ全てが手遅れになってしまう!」などと、脅迫観念にも似た感情に襲われ、3歳までに3歳までに...と、しつけや教育にやっきになっている人も多いと思います。
しかし、3歳までにいちばん大切なことは、こどもに安心感を与え、自分はこの世の中に、生まれてきて良かったんだ、周りは自分を大切にしてくれるんだ、という基本的信頼感、自己肯定感を育むことだと思います。では、幼児期そのような機会に乏しかったこども達は、もう手遅れなのでしょうか。人を信用できない、自分はダメな人間なのだと思い続けてこれから先も生きていくしかないのでしょうか。


「大丈夫、マユは絶対に元の世界に戻ってくるから。そう、きっと・・・」

そう信じて北ちゃんやほほえみ職員はマユの退行の行方を辛抱強く見守り、そして受容し続けました。その結果、マユの退行はさらに加速し「あれやって、これやって」と何でもせがむようになりました。食事中も「食べさせて」と口を開けて待っているような甘えぶりです。高校受験を控えた中学3年の2学期初頭でした。

幼い頃に適切な愛情を受けることが出来なかったマユは、ほほえみという安心できる環境と、何よりも信頼できる大人との出逢いによって、幼い頃の大事な忘れ物に気付きました。彼女の退行は、その忘れ物を取り戻し、自らの力で『育ち直る』ための旅立ちでもありました。

そして、ある日突然「アタシ高校に行くね」と言い出しました。戻ってきてくれたのです。

その後のマユは変わりました。2年間学校へ行っていなかったため全日制高校への進学こそ諦めましたが、働きながら通信制高校へ通って早く社会自立がしたい。そんな前向きな展望を持ちながら彼女は高校へと進学し、毎日アルバイトに励みながら自立資金を貯め、そして無事就職も決まってこの学園を巣立っていきました。

退所間際の彼女は、メイクやファッションに関心の高いどこにでもいそうな普通のお姉さんとなっていました。私はそんな彼女を冷やかします。「マユも成長したなあ〜、中学ん時は学園の壁蹴りながら、うぜえしか言ってなかったもんな〜」彼女は照れ臭そうに答えます。「まあね、そんなバカな時代もあったよね」

マユは私たちに教えてくれました。急ぐ必要はない。やり直しのきかない人生なんてない。気付いた時からいつでも修整できるし、育ち直せるってこと忘れないで欲しいと。

軽井沢学園開園から70年近くたった今、時代は目まぐるしく変わり、価値観も大きく変わりました。しかし、70年経っても変わらない価値観があります。それは、

こどもは日本の未来であるということ


「ただいまっ!」

「あっ、おかえりマユ!!」

おわり

ストリートパズル(軽井沢学園を応援する会会報)第9号より

April 21 [Sun], 2013, 5:02
‐園の庭をはきながら‐
いろんな家族

たかねっち☆

 核家族、複合家族、ひとり親家庭、別居婚、こどもを持たない共働き夫婦、夫婦別姓など、家族や夫婦の形態が多様化し、「家族=夫婦と子供」という典型的な家族形態の価値観は変わりつつある昨今、施設の中でも「ボクのママは離婚して新しいパパと暮らしているよ」とか「オレのお父さんと兄ちゃんのお父さんは違う人なんだ」「私の家族はお母さん一人だけだよ」などと、お互いの家庭状況を何食わぬ顔で披露し合っているこども達の姿をよく目にします。今回は様々な家族がある中、家族がどのようなものか知らない一人の女の子のお話しです。

ある日、「高根さん、昨日の夜、裕子(小4)が京香(小3)と一緒になってエリ(小3)〈全て仮名〉のことをいじめたそうです。エリが泣きながら訴えて来たためわかったのですが、その後、当事者を呼んで事情を聴き、裕子たちには指導しておきました」と、若い職員から報告を受け、私は「またか...」と思いました。

早速、私は直接裕子から話しを聞こうと思い、食事時間に彼女の隣の席に座りました。すると、裕子は自分から「たかねっち〜、えっとねえ、昨日エリのこといじめちゃったんだ」と小声で話してくれました。私も小声で「またやっちゃったんだ、今回はどんなことしたの?」と尋ねると、裕子が京香を誘ってエリのことを無視したり「エリのお母さんってみんなから嫌われているから、エリも嫌われ者なんだよね!」などと悪口を言ったことを告白しました。そして、「どうして今回はお母さんの悪口言ったの?」という私の質問に対し、裕子は「うちね、お母さんに全然会えないでしょ?でもエリはお母さんに会ったり出来るじゃん。それがうらやましくて悪口言っちゃったんだ」「あっでも、うちがやったことはいけないことだから、エリに謝って許してもらったよ。これからは気を付けます...」と言いました。私はそれ以上何も言えなくなり、「そうだね」とだけ言って別の話題に変えました。

裕子は、未婚の母の元に生まれ、父親は誰かわかりません。2歳の頃、母から適切な養育がなされていない(ネグレクト)との理由で、県内の児童養護施設へ措置(児童相談所が施設入所を決定すること)され、裕子が5歳の頃、事情があってこの軽井沢学園へやってきました。
裕子は物心ついた時から施設しか知りません。また、母親は一度も面会に来たことがないので、きっと顔も覚えていないでしょう。そんな裕子ですから、昔から家族に対しては強い憧れを抱いていました。保育士と買い物や公園に出かけた時に、両親に挟まれ両手をつなぎながら歩く親子連れや、ベビーカーを押して歩く母親、父親に肩車されているこどもの姿などの光景を見るたび、裕子は保育士の手を強く握り返しながら、その親子連れの様子をじっと目で追い続けていました。

私は、そのような裕子の想いに応えるべく、以前ある作戦を思い付きました。裕子は家族に憧れているのだから、実際にそれを再現してみたらきっと喜ぶに違いない。そう思った私は、女性保育士と男性指導員を呼び、裕子と一緒に手をつなぎながら近くの公園に遊びに行ってもらえないかと頼みました。職員たちは快く引き受けてくれ、早速実行に移してもらいました。私は、3人で仲良く遊具で遊ぶ姿や、裕子の喜ぶ顔を思い浮かべながら報告を待ちました。そして、3人が戻るや否や様子を尋ねると、裕子は終始恥ずかしがって全く手をつなごうとしなかったし、「また今度行こうね」との職員の投げ掛けにも応じなかったという予想外の報告でした。作戦は見事失敗に終わりました・・・

家族とは、「住居を共にする血縁集団を基礎とした共同体」、「親子の絆」、「やすらぎの場」など、様々な表現が出来るかと思います。難しいことはわからない私ですが、家族が誰にとっても必要なものであることはわかります。そんな発想から思い付いたあの当時の作戦でしたが、浅はかな私は、その失敗によって家族の外見や形だけ整えても駄目なのだということを教えられました。そうではなくて、家族を考える上で、大切なことはもっと他にあったのです。

裕子は物心ついた頃よりずっと引きずってきた想いがありました。それは、記憶の糸をいくらたどってみても思い出すことの出来ない母の顔や温もり、どんなに逢いたいと願っても決して叶わない怒りや悲しみ、独占できる特別な大人がいないという淋しさ、その他自分一人では処理することのできない重たくて複雑な想いです。そんな、言葉にできない様々な想いを彼女は身近な大人に受け止めて欲しかったのかもしれません。そして、その気持ちに寄り添って欲しかったに違いありません。単に手をつなぐだけではなく、気持ちをつなぐようにして。買い物や公園での親子連れを見て、裕子はきっとそんな大人との関係に憧れていたのでしょう。

そのように考えた時、血縁の有無に関係なく、ここで暮らすこども一人ひとりが大切にされるべき場所として、この軽井沢学園は“大きな家族”と呼んでも良いのかもしれません。むしろ、そうあるべきなのです。本当の親子でもないのに施設が家族だなんて“おこがましい”と思っていた私ですが、この出来事をとおして「いろんな家族があっていい。施設で暮らすこどもにとって、たとえ一時的であったとしても、ここが家族と思ってもらえるような場所にしなければ」などと考えるようになりました。


ストリートパズル(軽井沢学園を応援する会会報)第8号より

April 14 [Sun], 2013, 5:01
‐園の庭をはきながら‐

ありふれたこの場所で

たかねっち☆
 今回のストリートパズルは、昨年長野市で開かれた「長野県児童福祉施設大会」という催しの中で、軽井沢学園の保育士が実際に発表した体験談をそのまま掲載させていただきました。毎回このコーナーでは施設で暮らすこども達の様子について述べていますが、今回はそんなこども達を日々支えている保育士達に焦点を当ててお話しさせて頂きます。

軽井沢学園を応援する会が発足してから2年が経とうとしています。あっという間の2年間でしたが、その中で私達は実に多くの方々と出会うことができました。そして、有難いことに、出会った皆さんは口々に「地元にこんな施設があるなんて知らなかった」「もっと詳しく知りたい」「自分にも何か手伝えることはないか」「応援しています」などと言って私たちを励まし、勇気づけてくれます。しかし、それと併せて「大変なお仕事ですね」とも言われます。そんな言葉を聞く度に私は、どんな仕事であっても大変さは付きものであるし、自分達はそんなに特別な事をしているのだろうかと恐縮してしまいます。

保育士の仕事は、朝こども達を起こして学校や幼稚園へ送り出し、そのあと、まだ幼稚園へ行かない小さなこどもの面倒をみながら掃除や洗濯をします。病気の子どもがいれば受診もします。この時期は庭の草むしりや畑の世話なども行います。夕方になってこども達が帰ってくると宿題をさせて、明日の学校の準備をこどもと一緒に行います。そして、夕食、そのあと順番にお風呂に入れて、本を読んであげながらこども達を寝かしつけます・・・
この繰り返しであり、やっていることは世のお母さんたちと同じです。大きな違いといえば、私達は本当の親ではないということですが、児童養護施設という所は何か特別なことをする場所ではなく、ごくごく当たり前のことを淡々と繰り返す場所なのです。

これだけ聞くと、何だか事務的に生活を流しているかのように思われるかもしれませんが、しかし相手はこどもですから、この当たり前の生活がなかなか思うようにはいきません。朝はなかなか起きられない。学校へ行きたくない日だってあります。勉強も嫌いですしお風呂も嫌いです。好き嫌いだってありますし、夜が更けると不安で不安でたまりません。そうかと思えば仲間同士ふざけ過ぎて歯止めが利かなくなることもありますし、気に入らない事があって暴れたりもします。そんな思いどおりにならないこども達を叱ったり、褒めたり、甘やかしたり、時には突き放したりしながら日々生活しています。

そして、何よりも様々な事情によりここへやって来たこどもたちですから、一人では到底抱えきれない重たい荷物を抱えています。そんな抱えきれない怒りや悲しみを保育士は、こどもと一緒に背負いながら山を登るかのようにして自立の手助けをしているのです。この部分だけ聞けば確かに重たくて大変な仕事かと思われるかもしれません。しかし、私はこども達と向き合う健気な保育士達の姿を見て思います。きっとこの人達は、こどもと共に笑ったり泣いたりして過ごしながら、共に成長していけることを楽しんでいる。それが児童養護施設の保育士の一番のやり甲斐なのではなかろうかと。少々カッコつけ過ぎかもしれませんが、仕事としての枠を超え、生き方そのものではないだろうかと。

今回この原稿を書くにあたり、数人の保育士に単刀直入「どんな保育士になりたいの?」と聞いてみました。すると、「えっ?どんな保育士になりたいかって急に聞かれてもなあ。楽しいとか?頼られるとか?正直よくわからないです・・・」と、返答に困って誰一人はっきりと答えてはくれませんでした。何故だろうと私は考えました。皆目標を持っていない訳ではない。日々の生活を当たり前のようにこなしていくことが何より難しく、そして大事であるからこそ“普通”の暮らしを演出する保育士に特別なことはいらない訳で、だから言葉となってはっきりと出てこないのだろう。
でも、日頃こどもとの関わり方を見ていたらわかります。保育士たちは皆、心の中では「楽しくて、温かくて、こどもに恋しがられる保育士になりたい。いつしかここを巣立って大人になってからもずっとずっと恋しがってもらえるような・・・」そんな風に思っているはずです。きっと・・・

 今回、保育士の意見発表文の紹介を兼ね、たかねっち☆のコーナーをご挨拶および編集後記に代えさせていただきます。これからもストリートパズルをよろしくお願いします!!

ストリートパズル(軽井沢学園を応援する会会報)第7号より

April 07 [Sun], 2013, 5:00
‐園の庭をはきながら‐

ホントの幸せ

たかねっち☆
 
「こんなものいるかっ!」そう叫びながらマキ(仮名)は、かわいいリボンの付いた誕生日プレゼントの箱を床にたたき付け、何度も何度も足で踏み付けました。卒業間近に控えた田口マキの12回目の誕生日の晩のことでした。
毎日こどもたちに勉強を教えに来ている寺山先生は、昔から学園のこどもたちの誕生日に、担当職員には内緒でささやかなプレゼントを贈ってくれています。そんな寺山先生からのプレゼントをマキは中身も見ずに「こんなものっ!こんなものっ!!」と繰り返し踏み付けながら叫んでいるのです。その様子を叱る事もせず呆然と見つめる寺山先生は、マキがその場を去った後、一人でボロボロになったプレゼントを拾い上げていました。私は、その時の寺山先生の悲しげな顔を10年近く経った今でも忘れる事ができません。プレゼントをもらって喜ばない人なんていないと信じる私は、何故マキがあのような行動に出たのか、その時のマキはどんな心境だったかなど、当時全く理解できませんでした。

マキは、未婚の母の子として生まれ、2才の時軽井沢学園にやってきました。母はまだ若く、遊びたい盛りであったと同時に養育力も乏しく、マキを置き去りにして遊びに行ってしまうような人でした。そのような状況がネグレクト(保護の放任、怠惰)であると判断されてここにやってきたのです。マキは、幼い頃から甘えることが苦手なこどもで、職員に甘えている同年代のこどもの姿をいつも部屋の端から眺めているようなこどもでした。そして、小学3年生になる頃から周囲の大人たちに対し暴言を吐くようになり、些細な事でもいちいち反発するため職員とのトラブルは日々絶えませんでした。マキは年を重ねるにつれ大人を寄せ付けなくなっていったのです。

 そんなマキが小学5年生になる頃、家庭の状況に変化がありました。母親が結婚したのです。今まで母一人では生活も危ういためにマキを母のもとへ帰省させることは出来なかったのですが、結婚して生活も安定したため頻繁に帰省が出来るようになりました。そして新しい父親とも交流を重ねるにつれ家庭引き取りの話が持ち上がります。

 今でこそ私は施設で暮らすこどもたちには「辛いこともあるけれど軽井沢学園で良かった。」そう思ってもらえるように努めていますが当時の私は違いました。ここで暮らすこどもにとって大切なことは、一刻も早く家庭に帰すことであり、早期在宅復帰こそが我々施設職員の使命であると考え、それに向かって突き進んでいたのです。たとえそれがどんな家庭であったとしても“家庭に勝るものなし”そう信じて疑いませんでした。
当時はそのような価値観の真っただ中でしたので、マキのケースも同様、家庭復帰に向け着々と話が進んでいきました。マキの気持ちは置き去りのままで...

そして、私たちはマキの両親や児童相談所とも協議を重ね、マキの退所日は小学校卒業式終了後と決めました。そのことをマキに伝えたのは6年の夏休みの最終日で、児童相談所の若い女性職員がそのことを伝えました。マキは終始うつむいたまま黙って話を聞いていました。

2学期に入り、まもなくしてマキに登校渋りが始まります。担任が嫌だという理由でした。それでも私たちは小学時代最後の年を不登校で終わらせてはダメだと考え、何とか学校へ行かせようとしました。時には泣いて嫌がるマキを大人2人掛かりで抱えながら学校へ連れて行ったこともありました。しかし、マキは教室へ入る事を頑なに拒むため、かろうじて登校出来たとしても保健室登校が精一杯で、2学期が終わる頃にはとうとう学校へ行かなくなりました。そして3学期に入り、あの12回目の誕生日を迎えます...

退所を間近に控え、施設生活も残りわずかだというのに、あの誕生日の出来事に象徴されるようにマキは決して大人と打ち解けようとはせず、残りわずかな日々も大人との言い争いで虚しく過ぎていきます。担当職員もさすがに疲弊し、担当以外の職員も口々に「マキはここではもう無理だ、早く家に帰すべきだ。」と言い、そのような雰囲気が施設全体に広がっていました。

そして、その日がやってきます。

中学への入学手続きも済んで退所の準備は全て整いました。ところがです。卒業式当日の朝、マキは「やだっ、絶対に帰りたくない。」と言って部屋の扉につっかえ棒をして立てこもったのです。卒業式が始まる1時間前のことでした。私たちは慌て、マキを説得するため部屋のドアをはずして中に入りました。しかし、マキは押し入れの中に閉じこもったまま出て来てはくれません。昨日までは卒業式には必ず出ると言ってくれていたのに。マキのすすり泣く声を襖越しに聞いた私たちは説得することをやめ、結局卒業式は欠席させました。

親子で卒業式に出席したのちに施設を退所するという当初の予定とは少し変わりましたが、お別れの時間が迫って来ました。両親はマキの荷物を車に運び込みます。マキは相変わらず部屋に閉じこもったままで、いくら呼んでも返事すらしてくれません。そうこうしているうちに1時間が経過しました。さすがに両親も苛立ち始め、職員はそれぞれの対応に追われます。

そんな中、私はある決断をしました。「あと15分説得しても駄目だったら、マキを部屋から出して担いで親の車に乗せましょう。辛いかもしれませんが、家に帰る事がマキにとっての幸せだと信じて。」私は勤務中の職員全員を集めてそのように伝えました。そして、マキを説得する役、担ぎ出す役、残りの荷物を運び出す役、その様子を見て動揺するであろう他のこどもたちを落ち着かせる役、それぞれの分担を割り振りました。説得役として指名したのは石坂保育士でした。
石坂保育士はマキが素直に話すことができた唯一の大人であり、最後までマキの行く末を案じていた職員です。泣き叫ぶマキを大人数人掛かりで取り押さえ、追い出すようにして退所させるなどという最悪のシナリオを迎えたくないと思ったのでしょう。石坂保育士は私の話が終わるのを待たずにマキの部屋へ向かって駈け出して行きました。

15分後“担ぎ出し役”として待機していた私たちのところへ石坂保育士が走ってきました。「マキ、自分で出て行くって言ってるから大丈夫!!」どうやら説得に成功したようです。「そのかわり、皆に知られないように裏口から出て行きたい。絶対に見送らないで欲しいって言ってます。」と付け加えました。最悪のシナリオが回避できるならばと快諾して“担ぎ出し役”は解散し、通常業務に戻りました。数分後、マキは誰に見送られることなく一人で両親の待つ車に乗って10年間過ごしたこの学園を去って行きました・・・

後になって知った話ですが、マキが何故家に帰ることを拒んだのかというと、新しい養父を「おとうさん」と呼ばなくてはならない事に耐えられなかったからなのだそうです。養父はマキの父親になろうと努力したらしいのですが、マキ自身が心を閉ざし、私たち職員同様に養父とも打ち解けようとしなかったのです。マキにしてみれば今まで他人だった人を、ある日を境に父と認めるなんて器用なことは出来るはずもなく、ましてや大人を一切信用しないマキにとっては到底受け入れることが出来なかったのでしょう。

あの日、15分という限られた時間の中で必死に説得を試みた石坂保育士はこう言います。「私が説得したわけじゃない。マキはずっと前から家に帰る覚悟はできていました。その証拠に、私が部屋に行くとすぐに『もうわかってるから。』そう言ってマキは自分から出て来ました。」と。
物心ついた頃から施設で育ち、上手に甘えることもできなかった。ホントはもっと仲良くなりたかったのに出来なかった。そんな私の気持ちを大人たちは理解してくれない。だから家に帰る覚悟はできていたけれど、マキは私たち大人に対し最後の抵抗をしたかったってことなのかと私は思いました。

あの出来事を今振り返ってみると、本当にあれで良かったのだろうか。マキに対し私たち大人は、もっとすべきことがあったのではないか。少なくとも、マキの気持ちに寄り添いながら、マキ自身が「よし、大丈夫!」と思えるくらいに自信をつけさせてから家に帰すべきであったと今更ながら考えてしまいます。こどもたち一人ひとりの人生を預かる大事な仕事。そう自覚することが私たち児童養護施設で働く大人たちの責任であり、誇りでもあります。ここで暮らす全てのこどもたちの“ホントの幸せ”とは一体何かを常に考えながら、こどもと共に成長していきたい。そんなことを今回この原稿を書きながら考えました。


・・・その後マキがどうなったのかというと、中学時代の後半は不登校となり、高校へ入学するも2年生で中退、家出を繰り返して警察に保護されることもしばしばあったとか。そして、現在はどこかの繁華街で夜の仕事に就いているらしいと風の噂で聞きました。その話を聞いた時は切ない気持になりましたが、ちょうど1年くらい前、石坂保育士が病院の待合室でばったりマキに会ったそうです。その時のマキは当時のような暗い面影はなくなり、とにかく明るくてよく笑う今どきの娘だったそうです。そして、院内であるにもかかわらず、息つく間もなく一方的に話しかけてきたそうです。まるで今までの穴埋めをするかのように。
そんな報告を聞き、何だか私は少しだけ救われた気分になりました。
おわり
2013年04月
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プロフィール
  • アイコン画像 ニックネーム:KDC(kei hirosue dance club)
  • アイコン画像 性別:女性
  • アイコン画像 誕生日:2003年4月1日
  • アイコン画像 血液型:B型
  • アイコン画像 現住所:長野県
  • アイコン画像 職業:専門職
  • アイコン画像 趣味:
    ・ダンス-佐久平のとにかくダンス大好きなメンバーの集まりです。昼はそれぞれお仕事していたり学生だったりしますが夜や週末になると見事に変身!素敵なダンサーになります。
    ・ビューティ-美への追求も忘れません。内面から溢れ出る美しさ。なりたい自分になれるようにセルフプロデュースする。これがKDCで最も楽しいことの一つです。
    ・お笑い-KDCはダンスのクラブですがいろんなことに挑戦します。お笑い、コント、芝居に歌。ラジオ出演にラジオドラマ、プロモーションビデオ撮影ととにかく盛りだくさん!すべて趣味です(^^)v
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「そこにいるすべての皆様に、素敵な時間を、心輝ける人生を!enjoy our lives! by KDC!」を合い言葉に佐久平の文化振興に役立てるよう遊び心満載で活動しているダンスクラブという名の何でもありサークルです。人の和を大事にし、相手を思いやる心を持ったひとを育てる努力をしています。皆さんも一緒に楽しい仲間に加わってみませんか?
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