10.プラスマイナスゼロ

April 12 [Thu], 2007, 21:05
何杯目かのコーヒーのお代わりを注文した直後に、店のドアが開いた。
ドアに視線を向け、これまでと同じように再びテーブルに視線を戻そうとしていた恵美は、先ほど目にした姿に慌てて席を立ち上がった。

「すみません。大変お待たせしました」
こちらに小走りにやって来た藤原に会釈を返し、席を勧めて自身も腰を下ろした。

「何か、あったんですか」
「いえ。ちょっと…」
言葉を濁した藤原は、メガネを直す。
そこを見計らったように、男性の店員が注文を取りに来た。
アイスティーを注文した藤原は、もう一度改まって恵美に謝罪した。

「初歩的な連絡ミスです。本当にすみません」
「…そうだったんですか」
「申し訳ありません」
頭を下げる藤原に、いえ、返しながら恵美は小さく溜息をついた。

「何か……事故にでもあったのかと思いました…」
「すみません」
恐縮する藤原から、恵美は視線をそらす。
「実は異動が決まりまして」

何気なく発された言葉に、恵美は顔を上げた。
「4月から構成の方に」
「そう、ですか」
自分の声が硬くなるのを恵美は感じた。

コーヒーとアイスティーが運ばれてきた。
喉がやけに渇いた気がして、恵美はすぐさまコーヒーに口をつける。

会社が変わるわけではない。
――だから、会おうと思えば会えるのだから、そんなに落ち込むことでもない。

アイスティーに少しだけ口をつけて、藤原は顔を上げた。
「……高坂さん」

白昼夢を見ているのかと、思った。
藤原が恵美の担当になってから、数年。
ペンネームで呼ばれることはあっても、名前を呼ぶことは今まで一度もなかったからだ。

「――はい」
藤原は何度か躊躇った後、恵美から視線をそらした。
「今度、ウチで焼肉をしませんか」
「やきにく、ですか」
何かのパーティでもするのだろうか、頭の冷静な部分で恵美はそんなことを考える。

「高坂さん、肉がお好きですよね?」
「はい」
「別にウチじゃなくても、焼肉じゃなくても構いません」

目を瞬く恵美に、藤原は顔を上げた。
「――何か、食べに行きましょう。仕事抜きにして」


10.プラスマイナスゼロ

11.保険

April 13 [Fri], 2007, 0:19
鞄の中に入れていた携帯が振動したのに気づいた晴菜は、慌てて中に手を突っ込んだ。
「もしもし」
『八嶋?友近だけど』

「友近先輩っ!?」
電話から聞こえてくる声に、晴菜は一気に体温が上がるのを感じた。
『今、電話大丈夫?』
「は…」

――はい、と言いかけて、目の前に座る男と目が合った。
瞬きをせずに、じっとコチラを見つめる――つぶらな瞳。

――お前は捨て犬か。

12.迷子

April 23 [Mon], 2007, 0:44
「ちいにい」

腕を引っ張られて千博は足を止めた。
莉那の視線を追うと、通路の片隅に立ちすくむ小さな女の子の姿があった。

春休みのせいか、デパートは大勢の人でごった返していた。
人込みが苦手な莉那が珍しく外に出ると言って、駄々をこねた。
仕方無しに車を出して、ご希望の界隈に出てきたら、1時間もしないうちに音を上げた。

はっきり言って時間と動力の無駄。
この忙しい時期を狙った予想通りの莉那の行動に、溜息が漏れる。

疲れたのか無口になっていた莉那がその少女に目を留めたのは、2人が車へ戻ろうとした、ちょうどそのときだった。

13.キーホルダー

April 29 [Sun], 2007, 0:55
「どこ行ったのよ、晴菜ったら…!」
扉にもたれた陽菜は、口の中で小さく悪態をつく。

「春休みなんだから、今日ぐらい家に居なさいよねっ」
ブツブツと呟いていたら、何だか怒りが収まらなくなってくる。
思わず、手にあったキーホルダーを、目の前の壁に投げつけた。


がしゃん。


音を立てて地面に落ちたキーホルダー。
無機質なそれについているのは、3つの鍵。

1つは車の鍵。
もう1つは、今住んでるアパートの鍵。
もう1つは、実家の――省吾の実家の鍵だ。