10.うたたね

November 05 [Sun], 2006, 0:22
「最近、眠りが浅くてさあ……」

智は、わざとらしく目を伏せて、片手で顔を覆ってみた。
「そうですか」
伊藤は気のない返事を返すだけで、こちらに視線をよこそうともしない。
運転中なので、そう簡単にこちらを向かれても困るが。

ちっ、と、これ見よがしに軽く舌打ちした智は、ホルダーに置かれたコーヒーに目をやる。
「まだ熱いと思いますよ」
信号で車を止めた伊藤は、智の視線の先にあるものに気づいたのか、口を挟んだ。
そう言って、伊藤自身はコーヒーを口にする。

「…………」
「……そんなもの欲しげな目で人を見ないでください」
「青だよ」

先ほどまでの酷い渋滞をようやく抜け出て、車の流れはだいぶスムーズになっていた。

11.放課後

November 11 [Sat], 2006, 0:30
「今回は、なかなか厳しいね」

智はため息混じりに、呟いた。
「今回は?」
「今回は!」
言葉尻を捕らえてきた伊藤に、にっこり微笑んでやる。

「締め切りの度に、同じことをおっしゃてる気がしますが?」
「気のせいだ」
にっこり微笑み返してきた伊藤に、智は真顔で返す。

12.裏返し

December 09 [Sat], 2006, 0:15
「……は?」
「恥ずかしいから、さっさと立ってください」

すぐ脇に立つ伊藤は、もう1度そう言って、手を差し出した。

一瞬。
何を言ってんだ、このオトコ、と智は思った。
そのままの姿勢で、瞬きを数回繰り返す。

足を取られて、思いっきり転んでしまった。
公衆の面前で尻餅をつく自分の姿は、ちょっと無残な光景かもしれない。

――けど。ちょっと酷くないか、その1言?

考えがまとまってきたところ、また上から伊藤の声がかかった。

「何もないところで転べるなんて。呆れるほど、物凄く器用ですね」

13.10秒前

December 17 [Sun], 2006, 10:36
「と、とりあえじゅ。や、やれるだけやってみる」

松岡さんは、見るからにがちがちになっていた。
時間までまだ大分あるというのに、緊張のためか既に呂律が回っていない。

今回の市の企画を勝ち取ることが出来たら、それはウチの会社始まって以来の大仕事になる。
誰もが浮き足立っている中、松岡さんはいつものように企画を発案した。

それに少々の修正と詳細が書き加えられ、うちの会社の案として市に提出すると、あれよあれよと最終コンペティションまで勝ち残っていった。
本来なら、ウチのような会社が最終コンペティションまで残ってること自体、凄いことなのだ。

市から手渡された資料に、大企業や業界で名立たる人たちの中に混じって、会社の企画メンバーが名を連ねてるのを見て、佐々原は今さらながら鳥肌が立った。

発案者の1人である松岡さんは、そのまま企画メンバーに任命されていた。
気負うことなく、いつものように仕事を進めていく松岡さんに、佐々原は改めて感嘆していた。
松岡さんは、佐々原の憧れの先輩なのだ。

14.展望台

December 19 [Tue], 2006, 12:49
「どういう魂胆ですか」

伊藤は前を向いたまま、いつもの声音で返答した。
もうちょっと他の反応ができないのか、と智は小さく呟く。
「聞こえてますよ」

信号が赤に変わり、伊藤は車を停止した。
「地獄耳」
「先輩の地声がでかいんですよ」
伊藤にしかめ面をしてやってから、もう1度智は口を開いた。

「で。どうする?」
信号が青に変わり、それに返答することなく伊藤は、スムーズに車を発進させる。
伊藤は前を向いたままで、車のライトに時々照らされるその横顔からは表情が見えない。

――展望台から遠くをのぞくように、ちょっとは向こうの気持ちも覗けたらいいのに。

「まあ、祝勝祝いっていうか。何というか」
市のコンペティションに優勝した、そのお祝いっていうか。
言葉を濁すように智は続ける。


「給料日前だから外食もなんだし。夕飯、うちで食べてく?」


15.スキなんて

December 20 [Wed], 2006, 13:22
「お、はよう」
「おはようございます」
「おはよ!智、伊藤君!」

同じ年頃の男女が、3人。
揃って朝食の席に着く。

外は快晴だし、小鳥のさえずりが聞こえる、さわやかな秋の朝だというのに。

「智。冷蔵庫の中のもの、勝手に使ったよ」
「う、うん」
加奈子は手際よく準備した3人分の朝食を、食卓テーブルの上に並べた。
その様子は、から元気にしか見えない。



あの後。

再び触れるかと思うほど近寄った伊藤の顔を見上げている智の耳に、玄関のチャイムが聞こえた。
しかも、その押し方が尋常じゃない。

「……」
「……」
顔を見合わせた2人は、何度か瞬きを繰り返した。
――たぶん、同じことを考えてる。

いつかのあの男の人――?
静かに立ち上がった伊藤の後ろについて、智も玄関に向かう。
ドアののぞき穴を見た伊藤は、小さくため息をもらした。

16.右側通行

December 28 [Thu], 2006, 19:46
「あんたも面倒な相手を選んだわね」

加奈子がそう言うと、伊藤君は軽く苦笑した。
「それは友達の言い草じゃないですね」

じゃんけんに負けた智はドリンクバーへ、飲み物を調達中だ。
智がカップを片手に右往左往するのを眺めながら、2人は口を開いた。

「智はね、右側通行を遵守できないタイプなのよね」
両手にカップを持った智は、手前からやってきた他の客にぶつかりそうになりつつも、ゆっくりこちらにやってくる。

「……右側を通ったり、左側を通ったり。そのせいで厄介なことになっても、何が起こっても、本人に自覚がないのが始末に悪いですよね」
何の例えか分かったらしい伊藤君は、そう付け加えて、もう1度苦笑する。

「努力型の天才肌だしね。昔から」
周囲から浮かないようにしようって考えは、智にはない。


「……あの事故の後」

17.親指 前編

January 14 [Sun], 2007, 0:20
「…ん、松岡さん」
「え?」

会話の途中に、意識がちょっと、とんでしまっていたようだった。
佐々原さんは眉を少しだけひそめた。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫」

慌てて否定すると、佐々原さんはちょっと首をかしげた。
「無理しないでくださいね」
「ありがと」
笑って、智は佐々原さんから資料を受け取った。

今回の企画は、智が今まで関わってきた中で、最も難解で。
同時にやりがいのあるものだった。

資料を集めたり、データを打ち込んだりしていると、
いつの間にか朝が来て、そして夜が来る。
時間が過ぎているのに気づかないほど熱中していた。


今日、月のものがきた。
ちょっと今回は、酷く辛い。

今朝、慌ててサプリメントを取ってきたが、そんなに都合よくいったりしないだろう。
気休めみたいなものだ。

「松岡さん」
振り返ると、吉井さんがスーツの上着を手にして立っている。
「これから出るんですか?」
「はい」

「気をつけてくださいね」
「何言ってるんですか。松岡さんもですよ」
「え?」
慌てて頭の中で今日一日のスケジュールを確認する。

「すみませんっ」
忘れていました、と智は慌てて、データを保存し上着を取ると立ち上がった。
あまりにも立ち上がるのが急すぎたのか、一瞬立ちくらみがする。

「――――っ」

「松岡さん?」
「あ、すみません」
怪訝そうな顔をした吉井さんが何かを訊いてくる前に、智は笑う。
取引先へ向かう間は、打ち合わせを口頭でしながら、書類の確認に時間が費やされた。



次の日。
目が覚めると、体調は更に悪化していた。

17.親指 後編

January 20 [Sat], 2007, 1:18
「松岡さん、まだ帰らないの?」
パソコンから顔を上げると、出先から戻ってきたらしい吉井さんが立っていた。

「もうちょっとだけ。すぐ帰りますよ」
いつの間にか外は、もう暗い。
だいぶ遅くなったようだった。

吉井さんは、手にしていた上着を近くの椅子にかける。
「手伝おうか?」
「いえ。吉井さんにも宿題があるでしょうから」
笑って返すと、吉井さんは苦笑した。

先ほど連絡が入り、佐々原さんは出先から直帰することになっている。
残っていた他の同僚も既に帰宅し、この部屋には、吉井さんと智の2人だけだった。

「松岡さん」
「はい?」

改まったような声に、手を止めて振り返ると、吉井さんは少しだけ俯いていた。

「この忙しさが落ち着いたら、今度…」
「お疲れ様です」

突如、聞こえてきた別の声を振り返ると、伊藤と小林さんが顔を覘かせていた。
「お疲れ様です」
2人を出迎えるように、吉井さんと智は立ち上がる。


小林さんと共に部屋の中に足を進めた伊藤は、智を見て眉間をひそめた。
けれど、小林さんと話す智はそれに気づかなかないまま、会話を続ける。


「あちらから、直帰する予定じゃなかったんですか?」
「その予定だったんだけどね」
長い髪を綺麗にアップにしている小林さんは、何だか意味ありげに微笑む。

「何か不都合でも?」
小林さんは微笑んでいて、何か話そうという素振りは見られない。
伊藤を見ると、彼はそっぽを向いていた。

時計を確認した小林さんが、ちょっとだけ顔をしかめる。
「もうこんな時間じゃない。吉井さんも松岡さんも疲れてるでしょ?今日はもう帰りなさい」
「あ、はい。でもちょっとだけ、データを…」

言い募ろうとした智は、小林さんに笑って制される。
「上司命令です」
「…はい」

年長者であり上司でもある小林さんにそう言われると、強くは出れない。
しかし、どうしても。
もうちょっとだけ残りたい。
もう1度口を開こうとした智を、今度は伊藤が制した。

「帰りましょうか?」

「……はい」
言葉だけを捕らえれば、疑問系なのに。
有無を言わさない迫力で伊藤に微笑まれ、智はもうそこに反抗の余地がないことを悟った。



行き先が別な吉井さんと小林さんに挨拶をして、智は伊藤と駅へと向かった。
いくらも進まないうちに、伊藤は通りかかったタクシーを拾う。

「伊藤?」
「いいから、さっさと乗ってください」

智をタクシーに引きずり込むと、伊藤は行き先を運転手に告げる。
タクシーが走り始めても、伊藤は沈黙を保ったままだ。

ーー疲れてんのかな?
それにしては、雰囲気が重い気がする。

他に気を紛らわすこともないせいなのか、鈍痛が戻ってきた。
鎮痛剤が切れたのかもしれない。
それを誤魔化すかのように、智は軽く目を閉じた。

いくらも経っていない気がするのに。
次に目を開くと、窓の外には見慣れた風景が広がっていた。


18.ピースサイン

February 17 [Sat], 2007, 2:33
「横着者」

うっ、と息を詰まらせ、智は顔を上げた。
「無精者」
続いてかけられた言葉に反論しようと口を開きかけたところに、もう1言。

「莫迦者」

暴言きわまる後輩・伊藤に、智は口を尖らす。
「そこまで言うことないんじゃない?」
「何度目ですか、これで」

病室のベッドに横たわる智の腕には、点滴が繋がっていた。