06.左利き

October 10 [Tue], 2006, 8:33
「……何してるんですか」

「見て分からないっ!?」
冷静な伊藤の声に、緊迫した調子で智の答えが返る。

「切羽詰った状況だというのは、分かります」
「それが分かれば、十分でしょうっ!?」

声が多少裏返ったのは、しょうがないことだと智は、思う。
何しろ、天井すれすれまで高さのある、資料棚の上段に、ぶら下がるようにして。

しがみついているのだから。

「脚立というものを、先輩はご存知ですか」
呆れたような伊藤の声に、智は、顔だけ振り返った。
出先からちょうど戻ってきたばかりらしい伊藤は、手にファイルと上着を抱えている。

「知ってますとも!脆くて壊れやすい脚立なら、今、資料の下に埋もれてる!」
床には、棚に並べられていたファイルや書類、模型などが散乱し、足の踏み場も無い状態だった。
その隙間から、確かに、脚立の脚がわずかばかり見えている。

「……壊したんですか」
「壊れたの!」

脚立を壊したと、壊れたとでは、大きな違いがある。
そして実際、脚立は壊れたのだから、しっかり訂正しておく。

脚立にあがり資料を漁っていたら、突然脚立が崩れ落ちたのだ。
何が起こったのか分かる前に、目の前の資料棚に飛びついた自分の運動神経を褒めてやりたいと、智は思う。

「佐々原さんが、資料室を飛び出して行ったのは……」
「予備の脚立を探しにねっ!」
「予備の脚立、ね……」
そんなものありましたっけ。
呟く声が聞こえたが、もはや智にはどうでもいいことだった。

「何か策を考えろ、伊藤っ!」
「佐々原さんが脚立を持ってきてくれるんでしょう?」
「腕が限界っ……!」
「……最近太りました?」
「今の言葉あたしは忘れないよ!?伊藤!!」

後ろを振り返って大声を上げた瞬間、右手が滑って、危うく落ちそうになった。
色気の無い悲鳴を上げつつ、何とか手を伸ばして棚の端に再びつかまる。

「潔く飛び降りればいいんじゃないですか」
ため息とともに、伊藤が口を出してくる。
「どこに飛び降りるんだ!?足元を見ろ!足元を!」

ファイルや書類だけならまだしも、模型や試作品の上に飛び降りるのは、智じゃなくても遠慮するに違いない。
おまけに、靴は両方とも脱げてしまって行方知らずだ。
散乱した床のどこかに転がっているのだろう。

「もう、ほんと。限界……」
泣き言を吐いた智に、はいはい、と返す伊藤は、全くやる気が感じられない。
このまま床に落ちてしまうのか……。
痛そうだな、と、どこか他人事のように思えてきた。

後ろで物音がした。
佐々原さんが戻ってきてくれたのか、と期待をこめて智は、振り返る。
しかし相変わらず、そこにいたのは伊藤だけだった。

手にしていたファイルと上着そしてコーヒーを戸口の側に置いた伊藤は、躊躇することなく、床に散乱したファイルを踏み超えた。


「先輩」


すぐ真下で手を伸ばす伊藤を、思わず口を開けて見返してしまった。

「今、物凄くあほ面してますよ」
「煩いなっ」

反射的に言い返した瞬間、今度は左手が滑ってしまい、智は慌てて棚にしがみつきなおす。

「さっさとしてください」
「さっさと、って…」

しれっとした表情で伊藤は、腕を伸ばしたまま、智を見上げている。

「あ、あたし、重いよ?結構筋肉質だし」
何どもってんだ、自分で自分に突っ込みながらも、言葉は止まらなかった。
「社会人になるまでは日々運動に励む健康優良児で……あっ!パンツ見ないでよ!?」

女二人で、脚立に上がったり降りたりを繰り返していたせいで忘れていたが、智は今日、スカートを履いていたのだ。

「幸運を祈ります」
「伊藤〜っ!!」

踵を返して部屋を出て行こうとする伊藤を、智は声を張り上げて呼び止める。
あからさまにため息をひとつつくと、伊藤はまたこちらを振り返った。

「分かりましたから、さっさとしてください」
智は、相変わらず表情を変えない伊藤と、伸ばされた手を交互に見た。


そして、意を決して。
両手を棚から離した。



「助かった。……ありがと」
伊藤の首に両腕を回し、しがみついたまま智は礼を言う。

「どういたしまして」
伊藤は智を抱きかかえたまま、資料室の端に移動する。
それから、閲覧用に設けられた一揃いのデスクから椅子を引くと、その上に、伊藤はゆっくりと智を降ろした。

そのとき、不意に伊藤の髪が智の頬に触れた。

くせっ毛でまとまりがない智の髪に比べて、伊藤の髪はさらさらと頬を撫でる。
思わず視線を上げると、間近に見えた伊藤の顔は、表情を変えないままだった。

何だか落ち着かないまま、所在なげに座っていると、靴を探し出してきた伊藤が、揃えて足元に置いてくれた。

「重ね重ね、ありがとう」
靴に足を通して立ち上がると、伊藤が何やらこちらを見ている。

「何?」
それに答えないまま伊藤は、ゆっくりと、左手を伸ばした。


伊藤の左手が、髪に、触れる。


伊藤は、前に落ちていた智の髪を手に取ると、丁寧に、脇に払いのけた。
伊藤の指が少しだけ、首筋に触れる。

瞬きを忘れたまま伊藤を見上げる智に、伊藤は、笑った。

「頭」
「え?」

左手を下ろした伊藤は、踵を返して戸口に向かうと、置いていたファイルと上着、コーヒーを手に取る。

「すごいことになってますよ」
「え?ほんとに?」

智は慌てて、両手で頭を押さえる。
早鐘を打つ心臓に、顔がほてった。
何、どきどきしてんだろう。

遠くから、廊下を走って、こちらへやってくる音が聞こえた。
たぶん、佐々原さんだろう。
無事を知らせるべく、智も戸口へと足を向けた。

「ほんと、助かった。ありがとね」
脇に立つ伊藤の肩を軽く叩くと、伊藤は、にっこり笑った。

「先輩って、着痩せするタイプなんですね」

06.左利き
お題提供:誰でもトライ20のお題
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