15.缶コーヒー

December 12 [Wed], 2007, 1:20
「あ」

がこん、という音と、ほぼ同時に。
彼は声を上げた。

声をかけるべきか、何事もなかったかのように通り過ぎるべきか。
思わず足を止めてしまった美也子は、数秒逡巡した後、口を開いた。
「………どうしました?」

「――間違った」
自動販売機から取り出した缶を見せるように、彼は振り返った。
掲げる缶は、無糖の文字が。
「カフェオレを買うつもりだった」
そう言って薄く笑った彼に、美也子は曖昧に笑い返す。

居心地の悪さを感じ始めた美也子は、乱れてもないファイルを抱えなおした。
踵を返して、ここから立ち去ろうとした美也子に、彼は掲げたままの缶を軽く振る。
自動販売機からこちらへ歩みを進める彼に、不穏な気配を感じて。
思わず美也子は後ずさってしまう。

それが余計、彼の気に障るのを知っているのに。

「飲む?」
「いえ、結構です」
一刻も早くこの場を離れたいために、自然短くなる美也子の答えに彼は、薄く笑う。
その顔を見た瞬間、頭の中で警告が響いた。

空いていた左腕を取られ、一気に引き寄せられる。

彼の方へ倒れこみそうになり、美也子は慌てて両足を踏ん張る。
辛うじて彼との間に、僅かながらも距離を保てたのは、
自分のおかげではなく、彼が本気じゃなかったからだ。



「取っといてよ。――美也子」


囁くように。
耳元で名前を呼ばれ、美也子は一気に顔が赤くなるのを感じた。

「会社では…」
「わかってる。これでも譲歩している」
そう返されると、強く言い出せなくなってしまう。

久しぶりに会えた彼の顔を見たいのに。
今、顔を上げれば、赤くなってしまった自分の顔までも見られてしまう。
それが恥ずかしくて、美也子は俯く。
頬に感じる視線に、美也子は益々体温が上がるのを感じた。

「真っ青な顔していた。――さっきまで」
からかうように。
ゆっくりと発音する彼の声音は、明らかに面白がっている。

「今日で締めも終わりだろ。家に帰ったら、さっさと寝ろよ」
思わず顔を上げた美也子は、彼と視線があってしまった。
その顔に浮かぶ表情に美也子は、悔しいと思う。
いつも自分ばかり必死で。いつも、余裕な彼に。

「――何?」
「………なんでもないです」
口を開きかけ、美也子は再び視線を落とした。

上から聞こえた小さな溜息に、美也子は体を強張らせた。

「うそつき」
耳に唇が触れる距離で囁かれ、美也子はびくりと体を震わせる。
そんな美也子の反応を楽しむかのように低い笑い声とともに、
彼は、温かい缶コーヒーを押し付けるように手渡した。

「一人寝が嫌なら、それ飲んで。――部屋で待ってろ」

返事をしようと口を開いた美也子の耳に、遠くで、話し声が聞こえた。
だんだん近づいてくる足音に、思わず美也子は彼の胸に腕をついた。

力を込めたわけでもないのに。
美也子の動きに沿うように、あっけなく、掴まれていた腕が開放される。

それを心細く思う自分を奮い立たせ、美也子は乱れてもいない髪を急いで撫で付けた。
冷めた目で、その動作を見つめる彼を感じつつも。

「後藤さん。探しましたよっ」
「どうしました?」
自分の声がいつも通りなのを願いながら。
美也子は、こちらへ小走りでやってくる平塚さんに向き直った。
「さっき、藤原さんから外線が入って」

がたん、という音が再び自動販売機から聞こえた。
すぐ側にいるだろう彼を意識しつつ、美也子はファイルを脇に挟みこむ。
「さっき?どれぐらい前?」

取り出した缶コーヒーを片手に、彼がこちらへ軽く会釈をした。
軽く会釈を返し、すれ違う瞬間。
プシュっと思ったより大きな音を立てて、美也子が持っていた缶のタブが開く。

視線の端で、彼が小さく口端を上げたのが見えた。


15.缶コーヒー
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