20.届かない手紙

July 06 [Fri], 2007, 21:28
「伊藤君の性悪なところは、相手を牽制しないところよねっ」

自分の名前が呼ばれて。
思わず足を止めた。

顔を向けると、佐々原さんと小林さんと井上さんが、給湯室で話しこんでいるようだった。

大きな仕事をひとつ仕上げ、正式な見積書を提出したばかり。
今のところ切羽詰っている用件があるわけではないが、暇なわけでもない。

他社ではどうか知らないが。
うちの会社はやけに私語が多い気がする。

「そこが伊藤さんの性悪なトコなんですか?いいトコじゃなくて?」


――これでもかってぐらいの、プライベート系の私語が。


ーーいないと思って、言いたい放題だな。

伊藤は、聞こえてきた声に溜息をついた。

給油室にあるコーヒーを目当てにきたのだが。
自動販売機まで足を伸ばした方が賢明だったかもしれない。

殊更足音を忍ばせているわけではないが。
話に夢中になっているのか、3人はこちらに気づかないまま話を続ける。

「伊藤君は相手を牽制しないけど。松岡さんが無意識に、伊藤君との親密さを垣間見せるのね」
「ああ。納得」
「あたしが思うに。伊藤はそれを分かっていて、智に止めを刺させているわねっ」
「分かってはいるかもしれないけど、それを狙ってはないんじゃないですか?」
「どうかしら」
「小林さんまで、そんなこと言う〜っ」
「この間渡部が酒で潰れたとき、伊藤の笑顔がどうのこうのって呟いていたのをあたしは知っている!」
「でもあの2人付き合ってないらしいですよ?」
「あら、そうなの?」
「あれで付き合ってないなんて、有り得ないでしょっ!」
「あの2人。きっかけがあれば、『くっつくのもすぐ』なんでしょうけどねえ…」
「あの2人に必要なのはソレなのよね」
「今さらというか、何というか…」
「きっかけか〜」
「そうよ、佐々原!物事には、きっかけとタイミングがあるのよ!」
「そのときは分からなくて、大抵、後になって『ああ、あのときが…』って気づくものだから」
「1度逃すと、次はいつ来るか分からないわよ」
「脅さないでくださいよ、小林さん、井上さん〜」
「実はあの2人。お互いに何度か、ソレを逃していたりして」



「人のことはいいですから。皆さん、さっさと仕事してください」
「「「……は〜い」」」




3人の後姿を見送った伊藤は、溜息をひとつ、吐き出した。
そこへ半分駆けるようにやって来た智の姿を目にした伊藤は、もうひとつ溜息を吐き出す。
「……今日は、残業かもしれないな」

「伊藤!」
「なんですか」
「何でそんな平静なのっ。伊藤にも届いたんでしょっ?招待状!」
携帯を手にしているところを見ると、どうやら先ほど実家から連絡があったのだろう。

「届きましたよ」
伊藤の元に届いた招待状には、ご丁寧にも新郎からの一筆付だった。
――ざまあみろ、と一言。

「遂に、だねっ。本当、すごく嬉しいっ」
「そうですか」
「またまた、素直じゃないな〜。伊藤だって喜んでるくせに」
「充分祝福していますよ」

昼休みなのをいいことに、少し遠出していたらしい。
智のもう片方の手には、紙袋に入れられたコーヒーがあった。

「今日の豆は、オーガニックなんだって」
そう言って、智はひとつを伊藤に手渡す。
「ありがとうございます」
コーヒーを受け取るついでに、伊藤は、もう用済みとなった紙袋も引き受けた。

「この時期って、忙しくないよね?出席できそうだよね?」
「現段階では。出席できるはずですよ」
「楽しみっ。きっと凄く可愛い花嫁さんになるんだろうな〜」

満面の笑みではしゃぐ智から視線を逸らして、伊藤はコーヒーに口をつける。
念願かなって口にしたコーヒーは、程よいキレが旨かった。

コーヒーと紅茶。
昔から、そのどちらも好んで、よく口にしていたが。

ここ数年は、圧倒的に。
コーヒーとビールを口にする機会が増えている。

――誰かと一緒にいる時間が増えたから、か。
興奮気味の隣の人物に視線を向けると、彼女は満面の笑みで振り返った。
「今から、もう待ちきれないねっ」
「…………」
「純白のウエディング姿が目に浮かぶよね〜。あ〜っ、もう、いいよねいいよね!物凄く楽しみ!!」
遠足を待ちきれない子どものように捲し立てる智を、伊藤はぼんやりと見つめた。


その言葉が出たのは。
本当に、無意識だった。



「……――ウエディングドレス、着たいですか?」


伊藤が我に返ったと同時に。
先ほどまで、はしゃいで舌を回していた智が、ぴたりと止った。

話の流れから、考えようによっては何やら意味深発言。
口から出た言葉は取り戻せない。

ーーヤバイ。
普段は存在感の薄い、心臓の音がやけに煩い。

こちらを振り返った智が、にっこり満面の笑みを浮かべた瞬間。
柄にもなく、心拍数が上がった。




「ううん、全然」




――――――

「あたしの中で、ウエディングドレスは見るものであって着るものじゃないのよねっ。綺麗な花嫁さんを見るのは大好きなんだけど、自分で着たら見られないじゃない?」

「…………………………………………………」

この人物が。
致命的に。
この方面に。
鈍い、という事を。

ーー忘れていた。




思わず、天を仰いで呟く。
――無駄に上がった、心拍数の動力を今すぐ返せ。


「ん?何?どうした、伊藤?」
「……さっさと仕事戻りましょう」
「ん?どうしたの?伊藤?何故、突然?お〜い?」
突然、早足になった伊藤に小走りで追いついた智は、不思議そうにこちらを見る。

微塵も心当たりなどない、そういう顔をしている智に。
ふつふつと沸き起こるこの感情は、八つ当たりと呼ばれるものだろうか。
「さっさと仕事してくださいネ」
「いやいや、それは……。あたしにはあたしのペースがあってね、」
どうにもならないものなのよ、と妙に納得した口調で智は、頷く。



弱みを見せない、意地っ張りな人だと思ったのは、――あの頃。

押し殺された小さな声に。
ただ黙って立ち去るしかなかった、あの日。

出会ったあの頃からは考えられない、こうして肩を並べて歩く日々。
彼女と飲む、コーヒーとビール、そして……。


――前哨戦は、まだ始まったばかり。

「――先輩のペースに付き合うのも、今だけですから」


「……これ以上、ペースを上げろ、と…?」
恐る恐るこちらを窺う智に、伊藤はにっこりと満面の笑みを浮かべた。


「――覚悟してくださいね」


20.届かない手紙

「コーヒーとビールそして…」
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