19.ひさまくら 前編

June 03 [Sun], 2007, 12:48
「おはよっ」
「おはようございます」

後ろからかけられた声に振り返ると、コーヒーを手にした2人の先輩が立っていた。
「お、おはようございますっ!」

この会社に勤め始めてそろそろ2ヶ月になる、今日この頃。
幸いそんなに多くはなかった、同僚の顔と名前は、すぐに一致させることが出来た。

上司はみんな一癖あるけれど、尊敬できる人たちばかり。
仕事は思った以上に大変だけど、やりがいがある。


けれど。
問題がないわけでは、――ない。



「朝早いんだね」
松岡さんがにっこり微笑むと、辺りに花が咲いたように華やかになる。
「いえ、そんなっ!」
思わず赤くなってしまった顔を隠すように、僕は慌てて、その上さり気なく視線を逸らした。

ほんわか和んでいた所に、冷ややかな伊藤さんの声が入ってくる。
「毎朝、先輩が遅いだけです」
「なんだとおぅ?聞き捨てならねえことを!無遅刻・無欠勤記録を更新中の…」

――何ですか、そのしゃべり方…。
誰もが突っ込みたくなるハズのところを伊藤さんは、軽くスルーした。

「バイク通勤なんですか」
伊藤さんは松岡さんの話を遮るように。
僕の隣にとめてあるバイクに、話の矛先を向けた。

「はい。小回りが利くので」
「便利そうだよね。いいな〜、あたしもバイクにしようかな」
伊藤さんに流されたことを気にすることもなく。
松岡さんは興味津々といった様子で、バイクに視線を向ける。

――僕のバイクが松岡さんの興味を惹くなんて、ちょっと嬉しい。

「ま、松岡さんは、電車通勤なんですか?」
何とか会話を弾ませようと、素朴な質問をしてみた。
「ん〜、本来はね」

満員電車辛くありませんか、とありきたりな言葉を返そうとしたとき。
僕の隣に立っていた伊藤さんを示して、松岡さんは言葉を続けた。


「最近は伊藤に車を出してもらってるの。バイクか〜…、ちょっと考えちゃうな」


――――え゛え゛。やっぱり、そんな仲なんですか、お二人・・・!

どこかで、『やっぱり』と思いつつも。
まだ決定的なところを掴んだわけではない、と僕は自分を落ち着かせた。

――ほら、家が近所なのかもしれないし?何か、事情があるのかもしれない。

何とか内心の動揺を落ち着かせた僕は、松岡さんと伊藤さんと並んで、会社へ向かう。

「仕事は慣れた?」
目の前でにっこり微笑む松岡さんは、うちの会社のホープだ。
彼女に憧れる人は少なくない。
僕自身、松岡さんの作品を見て、この会社に入りたいと思ったんだ。

初めて松岡さんに会ったときは、驚いた。
本当に綺麗な人で。
その繊細な雰囲気に、作品の緻密さを垣間見たような気がした。

次に、仕事をしている松岡さんをみたとき。
もっと驚いた。
怠けているわけではないけれど。

伊藤さんに脅されて…促されて仕事にとりかかったり。
ぼ〜っとしているかと思えば、予想もしなかったところから案を持ち出してくる。

そして、少しずつ少しずつ。
松岡さんを知るようになって。
あの大胆な発想や繊細な構図の原点を、少しだけ。

ほんの少しだけ、窺い知ることが出来たような気がする。


――僕は、この憧れの人と同じ会社で机を並べている。


「毎日を過ごすのが、やっとです」
苦笑いを返すと、松岡さんは満面の笑みで肩をすくめた。
「あたしもだよ」

――ああ、やっぱり天使の・・・。

松岡さんは、悪巧みを持ちかけるように僅かにこちらへ体を寄せた。
思いがけず松岡さんと少しだけ近づくことが出来た僕は、一瞬で体温が上がった。

そして悪戯っ子のような笑いを口元に浮かべた松岡さんは、僕の耳元で囁いた。

「――身近に、凶悪な仕事のオニがいるからね」


――……伊藤さんですね。

言葉に出さずとも、わかってしまう自分が悲しい。
癒されたと思った次の瞬間、ブリザードが心の中を駆け抜けた。

松岡さんのアシスタントとして、仕事中、常に側にいる伊藤さん。
会社では、松岡さんの作品に、というより。
松岡さんが仕事をするのに無くてはならない存在だと、誰もが認めている。

――だから。

視線を上げると、伊藤さんはこちらを気にかけることなく、歩みを進めていた。
その手には、いつものコーヒー。

僕のことなど、問題外と思っているのだろうか。
いや。
実際、松岡さんの眼中にもないだろうけど。



――だから、当面の僕の目標は伊藤さんのような、頼れる男になることだ。


一歩も二歩も先を行く、伊藤さんに追いついて。
松岡さんと肩を並べて歩ける人間に。

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