03.圏外

October 02 [Mon], 2006, 8:39
「あ、切れた」

 お気楽な伊藤の声が聞こえたとき、智は思わず自分の耳を疑った。

「嘘だよね」
「圏外みたいっすね」
「もうちょっと頑張れ!!伊藤!!」
「無茶言わないでくださいよ」

 伊藤は、手にしていた携帯を背広にしまった。
 自分の携帯をオフィスに忘れてきた智は、唯一の望みが絶たれたことを知った。
 テーブルに額をつくと、智は、己の愚かさと世間の変わり身の早さを罵る。

「そんな地を這うような声で、唸らないでください」
 智が顔を上げると、不審げにこちらを見る店員と目が合った。
 伊藤は笑いながら、注文をとりにきた店員に、コーヒーを二つ注文する。

「何でこの店を指定してきたんだ、あの先方は……!」
「さあ。静かで落ち着いた雰囲気だからですかね」

 地下に広がる、隠れ家的なお店。
 店員の態度は悪くないし、確かに雰囲気も落ち着いている。

「そして、コーヒーもおいしい。」
 運ばれてきたコーヒーを口に運んだ伊藤は、にっこりとしか形容できない笑みを浮かべた。
 香りに誘われて、ふらふらと智はカップに手を伸ばした。

 コーヒーを口に含むと、少しだけ気分が落ち着く。

 ほう、とため息を漏らした智は、テーブルの上に肘をつく。
 無言になった智に構わず、伊藤はテーブルの脇に置かれた、この店自慢のメニューを見ている。

「あのさあ」
「何でしょう」

「あたしって、運の悪い人間だと思う?」
 琥珀色の液体は、まだカップにたっぷり残っている。
 コーヒーを口にして、喉を潤した智は、また口を開いた。

「肝心なところで、圏外になるんて」
「株価の変動をチェックできないくらいで、落ち込まないでくださいよ」
 伊藤の口元が歪んだ。ぎりぎりのラインで、笑うのを堪えているらしい。

「いつも。肝心なところでタイミングを逃して。いつの間にか、圏外になっちゃうんだよね」

 カップを見つめたまま、ポツリポツリと呟く。
 少しだけ、沈黙が返ってきた。

 こんなときに、こんなことを話すつもりはなかったのだ。
 ただ昨日のビールの泡のようには消えなかった、もやもやした気分が憂鬱だった。


「ここを出れば、圏外を抜けますよ」


 顔を上げれば、伊藤はいつもと同じように笑っていた。
「ちょっと待てば、株価の変動もチェックできますって」 
 自分の意図していた事を掴み取っただろう伊藤は、そのことについては何も、言及しなかった。

「そ、だね」
 コーヒーに口をつけようと、智はカップを持ち上げる
 すると、急に伊藤は立ち上がり、智の隣に移動した。
 伊藤はコーヒーを一口、口にした後、不審げ見やる智に気づき、視線だけを前方に向ける。

「先方さん」

 見ると、店の入り口で、カウンターに声をかけている二人組みを確認できた。
「30分ほど遅れるって伝言があったのに、随分早いね」
 二人が立ち上がると、向こうもこちらに気づいたようだ。
 近寄ってくる取引先の二人を目の前にして、智は先ほどまで頭を占めていたことを追い出した。


 外に出ると、午後の日差し眩しく、思わず目を細める。
 取引先との話は、予想以上に手ごたえがあった。

「先輩。電波立ちましたよ」
 携帯を手渡してくれた伊藤に、智は笑った。

「向こうを出たら、ほんとに圏外抜けたね」
「ちょっとは、見直しました?」
 おどけて言った智に、同じように伊藤は返してくる。

「地下抜けたんだから、当たり前でしょうが」
 伊藤を軽くあしらいながら、智は、手渡された携帯を操作する。
 やがて、周囲の雑音を避けるため、脇に寄った智を、伊藤はため息をついて、見送った。


「圏外か」


03.圏外
お題提供:誰でもトライ20のお題
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