09.シートベルト

October 29 [Sun], 2006, 0:21
「たけし!!」

駅を出てすぐ。
後ろからいきなり腕を組んできた女は、にこにこと笑みを浮かべている。
男は足を止め、表情を変えることなく黙ったまま、女を見返した。

「さ、行こうか」
男の態度に構うことなく、にっこりにこにこ。
そう形容できそうな顔をしている女は、腕を組んだまま強引に足を進めだす。
そうしていくらとも進まないうちに、男は、隣の女に向かって口を開いた。

「俺の名前は、俊輔ですが」
「惜しい!」
「いや。全然違う名前ですから」
「性悪男って呼んだ方が良かった?」
「……」

傍目には、仲のよさそうなカップルに見えるかもしれない。
今だけでもいいから、そう見えてくれ、と智は願う。
そう見えてくれなければ、意味がない。

会社で別れた伊藤と、ここで会えると思わなかった。
ーーよかった。
智は、こっそり小さく息を吐いた。

しばらく腕を組んだまま歩いていると、先ほど止んだはずの雨が再び降り始めた。
伊藤が傘を開くと、智は傘からはみ出ないように伊藤のほうに身を寄せた。

「先輩。今日、傘持ってますよね」
「いいじゃん。ちょっと入れて」
「嫌です。狭いし濡れる」
「けち」

そう言いながらも、伊藤も智を傘から追い出そうとはしなかった。
智のするがままに任せる伊藤に、ここは感謝しておく。

「この状況に対する説明が欲しいんですけど」
片手に傘。片腕に智。

「伊藤と交流を深めようと思って」
「白々しい嘘はいいですから、さっさと吐いてください」
いつもの伊藤を真似て、にっこり微笑んでみたが、いまひとつのようだ。
伊藤は眉間に皺を刻み、ため息をひとつ、ついた。

「コーヒー、飲んでいきますか」
2人は近くにあった、大手チェーン店のひとつに入り、コーヒーを頼んだ。
お金を払って、カップを手に席に着くなり、伊藤は智を見据えて口を開いた。

「先輩って、確か、この駅じゃないですよね」
「たまには違う駅を利用してみようかと思って」
「雨の日に、ですか」
今日は朝から雨が降ったり止んだりを繰り返す、そんな日だった。

「たまには違う駅を利用してみようかと思って」
他に言い訳が見つからなかったので、同じことを繰り返して、ついでに笑ってみせる。
智は何とか、この場をごまかそうと試みた。

「……言いたくないなら、いいですけど」
伊藤はそう言うと黙って、コーヒーに口をつけた。
無事、伊藤の追及をかわしたと安心した智は、今度はこっそり、出入り口付近と店内に視線を巡らせる。

店内の片隅に、ある人物の顔を見つけた智は、思わず体が強張った。

それとほぼ同時に。
乱暴にカップを置く音がした。

びっくりした智が伊藤を見ると、伊藤は何事もなかったかのような顔をして智を見返す。
「ところで先輩。」
そして、いつものように、にっこりと笑った。

「先ほどからずっと、ついて来てる人がいるんですが。お知り合いですか?」

思わず、顔が強張った。
ーーいいって言ったくせに。
油断してたので、思いっきり表情に出てしまっただろう。
伊藤は笑ったままだが、そこに誤魔化しきれない何かを感じた智は、しぶしぶ口を開いた。

「……知り合いっていうか。同じ駅を、同じくらいの時間帯に利用してる人で。最近、ちょっと……」
「付きまとわれてる、と?」
「……かも。でも、いつも撒いてるから自宅と会社は、ばれてないと思う」
「いつからですか?」
「……昨日?一昨日?……ごめん、嘘です。伊藤、目が怖いよ?」
「で?」
「……この間、伊藤が……出張したとき、くらいから、かな…」

ふっと笑みを深くした伊藤は、静かに口を開いた。




「あんた馬鹿だろ」




暴言!!暴言だぞ!?伊藤!!
伊藤の笑顔がいつになく怖いので、智は心の中で叫ぶ。

伊藤は口を閉じると、コーヒーを口にした。
智も黙って、コーヒーに口をつける。
ちょっとだけ熱かったが、飲めない熱さではなかった。

一切口をきかないまま、やがて2人はコーヒーを飲み干した。
それでもなお、伊藤が黙っているので、智も空になったカップを手で弄びながら黙っていた。

店内のざわめきが、どこか遠い。
外に目をやると、まだ雨は降り続いていた。

やがて空気が動いた気配がして、視線をあげると伊藤が立ち上がっていた。
「送ります」
「……お願いシマス」
ここは素直に伊藤の申し出に甘えることにする。
だいぶ近くなので、1度車を取りに、伊藤の家に寄ることになった。

店を出て、傘を出そうとカバンに手をやった智は、左腕を軽く引っ張られて引き寄せられた。
顔を挙げると、先に傘をさしたらしい伊藤がにっこり微笑んだ。

そして伊藤は更に、密着させるように引き寄せると、智の肩に手を伸ばした。
「……!」
「行きましょうか」

にっこり笑った伊藤は、智の肩を抱いたまま。
そして二人は、共に足を踏み出した。



「どうぞ」
「どうも……」
助手席のドアを開いて傘をかざす伊藤に礼を言って、智は車に乗り込んだ。
ドアを閉めると、伊藤は運転席のほうへ回る。

ふと顔を挙げると、電柱の影にあの男が立っている。
――まだ、ついてきてる。
憂鬱な気持ちが押し寄せてきて、智は眉をひそめた。
いつまで続くのか、この先を考えると、思わずため息がでてしまう。

運転席のドアが閉まる音で、智は我に返った。
運転席に乗り込んできた伊藤は、閉じた傘を後部座席の足元に落とす。
「シートベルトも締めたし。これで衝撃への準備は完璧!」
慌てて表情を取り繕うと、それを見た伊藤が小さく口端を上げた。

「ーー準備は完璧?」
「……?うん」

次の瞬間。
頭が真っ白になった。

覆いかぶさるように近寄った伊藤の顔が。
すぐ、間近に。

伊藤の目の中に、目を見張った自分が見えた。

「い、とう…?」

すると、重なるかと思った唇は、ほんのわずかな隙間をあけて止まった。
どちらかが、ほんのわずかに身動きするだけで、唇が重なるだけの距離を開けて。

固まってしまった智に、伊藤が小さく笑った。
それは、智が今まで1度も見たことないものだった。

そしてゆっくり顔をずらし、伊藤は智の首筋に唇を寄せた。

思わず漏れてしまった自分の吐息に、智は赤くなる
「伊藤……!」
咎めるように名前を呼ぶと、首筋にちりっと小さな痛みが走った。
「………!」

それから、ようやく顔をあげた伊藤は、智を見て笑う。
そして伊藤は車外に目を向けた。

「向こうも、馬に蹴られて死にたくはなかったようですね」
言われて車外を見ると、電柱の影にも周囲にもあの男の姿は見えなかった。

ーーよかった。
よかった、ほんとに、と一息つきたい。
しかし、また新たな難題が目の前で悪魔の微笑みを浮かべている。

首筋を片手で押さえた智は、まだ自分が真っ赤だろうという自覚があった。
この顔を伊藤に見られるのも癪なので、窓を向いたまま口を開く。
「最初に彼氏作戦を実行したのはあたしだけど、ここまでする…!?」

「お願いされましたし?」
鍵を回してエンジンをかけた伊藤は、しれっと言い切る。
「それは…!」
思わず振り返った智に、伊藤はにっこりと笑った。

「人選が悪かったですね」

09.シートベルト
お題提供:誰でもトライ20のお題
  • URL:https://yaplog.jp/hibi-hibi/archive/11