08.泣きムシ

October 22 [Sun], 2006, 0:56
「何なの、その顔は?」

苦虫を噛み潰したような顔をして固まっている智に、加奈子は眉をひそめた。
さっきから視線を右にやったまま、智は、カップを口にする寸前で止まっている。
不審に思った加奈子は智に倣って右を見て、納得した。

「智。そろそろ視線を外さないと」
それでも反応はなし。

「伊藤君に気づかれるわよ」

その次の瞬間、智が頭を抱えるようにしてテーブルに突っ伏した。
智が手にしていたカップからテーブルに、コーヒーがこぼれる。

「言うの遅いよ、加奈子…!」
慌てる智の声は、向こうに聞こえないように配慮をしているのか、あくまで小声だ。
加奈子はにやにやと笑う。

「気づかれたかな?」
「大丈夫でしょ」
智はそろそろと、顔を挙げて向こうの様子を窺う。

「……彼女かな?」
「智の知らない子なの?」
「知らない」

加奈子はもう一度、視線を右にやった。

植木とテーブルをひとつ、そして通路を挟んだ向こう側。
少し植木のかげになってるが、ここから、窓際に座る一組の男女が見える。

そこに、見知った伊藤君が見知らぬ女性と向かい合って座っていた。
横顔しか見えないが、化粧も、微笑むその様子も、可愛らしい女性だ。
背中にふわりと流した茶色の髪。
微かに頬が赤味かかっているのは、たぶん化粧のせいではないだろう。

伊藤君の方は…、視線を移しかけて止めた。
智が軽く服を引いたからだ。

「コーヒー冷えるよ」
何もなかったかのような顔をして、ケーキに手をかける智に加奈子は呆れる。
先ほどカップからこぼれたコーヒーも、いつの間にかふき取られていた。

「気にならないの?」
「しっかり確認済み。明日、伊藤をからかう良いネタができた」

智はにんまり笑って見せるが、明らかに無理がある。
――明らかに無理をしている。

チーズケーキを頬張り、おいしい〜と感想を漏らしているが、きっとその味も分かっていないだろう。
尋常じゃないペースでケーキが減っていくのを眺めながら、加奈子も自分のコーヒーに口をつける。

「ほんとに意地っ張りなんだから」
「え?」
思わずもれた言葉に、智が聞き返してきたが、なんでもないと首を振った。
ため息をついて、もう一度あちらに視線を向けた加奈子は――席を立ち上がった。

「加奈子?」
「ちょっとトイレ」
不思議気に見上げてきた智に笑ってそう言うと、加奈子はさっさと席を後にする。

これは貸しにしておこう。



1人残された智は、なくなってしまったケーキの皿に視線を移した。
ーー絶対、あちらに視線はやらない。
そう思えば思うほど、あちらのことが気になってしまう。

伊藤の彼女には、今まで何人か会ったことがある。
一度、橋渡し役まで買って出たこともある。
それを今さら、何だというのだ。

ぼーっとしてると、ちょうど店内を回っていた店員に、コーヒーのお代わりを尋ねられた。
すっかり底をついていたので、礼を言って注いでもらう。

智は、入れてもらったばっかりのコーヒーをぼんやりと見つめた。
いつから、あの女性と付き合っていたんだろうか。
全然気づかなかった。

それならそれで一言、言ってくれてもいいのに。
ため息をひとつついて、智はコーヒーを口にした。

「あちっ…!」

猫舌だと十分分かっているはずなのに、ついうっかり湯気の立つ熱いコーヒーを口にしてしまった。
舌がひりひりする。

もう一度ため息をついて、カップを両手で包んだまま。
智は瞬きを繰り返した。
視界がぼやける。

――あ、やばい。



「何泣いてんですか?」


聞きなれた声に顔をあげると、眉間に縦皺を刻んだ伊藤が立っていた。
上を向いた拍子に、また一滴、涙が頬を伝う。

ぼんやりしたまま智は口を開く。
「…コーヒーが」

瞬きをした拍子に、また新たな涙が頬を伝ったのがわかった。
伊藤は黙ったまま、続きを促す。
「…熱かった」
「……」

我に返った智は、カバンからハンカチを取り出して、涙をふきとった。
呆れた顔をしている伊藤はそのまま、加奈子が座っていた席に腰をおろした。
何だか伊藤の顔を見ることができなくて、智は何気ない振りを装いつつ、視線をそらしたまま口を開いた。

「……何?」
「向こうから先輩達が見えたので、ちょっと挨拶しに来たんですよ」
「…そ」

気詰まりを感じ、智は視線の先にあるカップのふちを、意味なく手でぬぐう。
伊藤は、まだここから立ち去る様子を見せない。

「……」
「……」
しばらく沈黙が続き、我慢できなくなった智は、思い切って顔をあげた。

「彼女待ってるよ?いいの?」
「彼女じゃありませんよ」
何言ってるんですか、と返す伊藤は、再び呆れたような顔をしている。
「違うの?」
「大学のゼミで同期だっただけです」

伊藤に倣って右側に視線をやると、先ほどいなかった二人の男性と一人の女性が合流している。

「なんだ…。デートじゃなかったのか…」
「これから居酒屋に流れるので、その前に先輩に挨拶をと思って来たんですけど…」
伊藤は一度言葉を切った。

「まさか、泣いてるとは」

にっこり微笑んで吐かれた言葉に、智はぱくぱくと口を開く。

「それは、…」
「コーヒーが熱かったんですよね?」
テーブルに行儀悪く肘をつき、にっこりと微笑む伊藤は、完全に面白がっている。
何とか言い返さねばと頭を働かせようとするが、上手い言葉が出てこない。

向こうから伊藤を呼ぶ声が聞こえてきて、伊藤は席を立った。
「では、また明日」
にっこり微笑んで立ち去る伊藤の背中に、智は性悪男と叫び、悪態をついた。

心の中で。


頃合を充分見計らって戻った加奈子が店員の声に出口を見ると、数人と共に店を後にする伊藤君の後姿がちらりと見えた。
あの女性が伊藤君をどう思っているかは別として、やはりデートではなかったらしい。

伊藤君のことだから、智の誤解もしっかり解いたのだろう。
口元に小さく笑みを浮かべた加奈子は、ため息をつく。
そして、席に戻った加奈子は、智の顔を見て眉間をひそめた。

「公共の場でしていい顔じゃないわよ」

08.泣きムシ
お題提供:誰でもトライ20のお題
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