01.しぼんだ風船

October 01 [Sun], 2006, 18:19
「明日」

 何ともなしに吐き出された言葉に、智は思わず振り向いてしまった。
 佐々木は何事も無かったかのように、箸でコンビニの弁当を突いている。

「明日?」
 智の声に、佐々木は顔を上げた。
「明日、朝5時前の便」
 そう言って、笑う。

「ずいぶん、急だね」
 口の中がやけに乾く。手にしたコーヒーを口に含んで、智はまたパソコンに向き直った。
「まあね」
 気のない返事を返す佐々木に背を向けたまま、智は数字を打ち込んでいく。

 佐々木が異動する話は、聞いていたし、この間開かれた盛大な送別会にも顔をだした。
 けれど、再来週に迫る年度末まで、こちらにいると、勝手に思っていたのだ。
 年度末の忙しさを避けて開かれた、lと思っていた送別会は、彼の都合に合わせたものだったらしい。

 いわゆる栄転といわれる類のものだから、喜んで送り出すべきなんだろう。

「荷物はもう、準備できた?」
 口に出した瞬間彼の答えを予想できて、内心、自分の愚かさを罵う。
「じゃなきゃ、今頃ここにいないよ」
 予想通りの、気のない返事と共に、彼が小さく笑ったのがわかった。

 就業時間は、もうとっくの昔に過ぎている。
 今、この部屋にいるのは、明日までの締め切りを抱える智と佐々木だけだった。

 たぶん、もう少ししたら、後輩の伊藤が夜食を持ってきてくれる。

 タバコを買いに行くついでだと、軽く引き受けてくれた彼は、どこまで行っているのだろか。
 時計とデスクに置いた携帯を見比べながら、意味ありげに笑った伊藤の顔を思い出す。

 早く帰ってきて欲しい。
 そう思わずにいられないのは、佐々木と二人きりのこの状況に、気詰まりを感じてしまうからだ。


「あの夜のことだけど」


 いつもとなんら変わらない声で吐き出された言葉に、智は思わず手を止めた。
 もうどれぐらい前になるだろうか。

 自分の酒量限界を知る前のことだ。
 前日の誰かの送別会で、ぐてんぐてんに酔った二人は。
 次の日、同じ部屋の、同じベッドの上で、朝を迎えたのだ。

 顔を見合わせた同期の二人は声を発しようとして、口を開けかけ、そのままガンガンとする頭を抱えうなった。
 人生で一番酷い、二日酔いだった。

 酔ったときの記憶がなくなっていれば、マシだっただろうか。

 それは、今となっては分からない。
 二人とも、明確な昨夜の記憶を、持っていたのだから。

 乱雑に脱ぎ捨てられた衣服を、そろそろと拾い上げた気分を、今でも覚えている。
 祭りの後に道端に転がった、しぼんだ風船を見たかのような。

 そんな居た堪れなさだった。

 翌日に、智は長期出張が控えていたので、二人にゆっくり話す時間などなかった。
 そうして話題に上る機会を逸したまま、月日が流れ、
 この件を話題にすることはお互い、しなかったのだ。

「ごめんな」
「あたしこそ、ごめん」
 ちょっとだけ後ろを振り向くと、箸を止めてこちらを見ていた佐々木と目があった。

「何で松岡が謝るんだよ」
 前も思ったんだけど。佐々木は、そう言って小さく笑う。
「強引に部屋に押し入ったの、あたしだし」
「そうだっけ?」
「そうだよ」
 視線を見合わせると、何だか笑えて来た。

 今になって、佐々木がこの話題を持ち出してきた理由は、わかっている。
 明日、彼はここを発つのだ。

 時計に目をやった佐々木は、軽く眉間を顰めた。
 デスクに広げた弁当をゴミ箱に片付けると、佐々木はカバンを持って立ち上げる。

「時間?」
 二人で居ると気まずかったのに。
 佐々木が立ち去るそぶりを見せただけで声をかけてしまうなんて、お笑いだ。
「そろそろ、な」
「そっか。頑張ってね」
 彼は小さく笑って、頷いた。


 そうして、佐々木はオフィスを出て行った。


 佐々木を見送った智は、パソコンに向き直ると、再び数字を打ち込み始めた。
 どのくらい時間がたったのか、喉に渇きを覚えて、コーヒーを口に含んだ。
「先輩」

 振り返ると、複雑な表情をした伊藤が立っていた。
「遠くまで行ってた?佐々木、もう行っちゃったよ」
 顔をゆがめたまま、伊藤は手にしていた袋を突き出した。

「今日は、付き合いますよ」
「今日は無理だな。締め切りあるし」
「それ終わったら、付き合います」

 気を利かせて二人きりにしてくれたらしい、伊藤は、きっとまだ知らないのだろう。
 いや、もしかして知っていて、区切りをつける機会をくれたのだろうか。

「大丈夫。意外と、平気みたい」
 心配げに繰り返す伊藤に、智は笑ってみせた。


「婚約おめでとうとは、言えなかったけどね」


01.しぼんだ風船
お題提供:誰でもトライ20のお題
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