その191 いのちの光

February 17 [Sun], 2019, 10:36
「いのちの光」

マルコによる福音書7章14−23節
7:14 イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟るようになりなさい。
7:15 外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」
7:17 イエスが群衆を離れて、家に入られると、弟子たちは、このたとえについて尋ねた。
7:18 イエスは言われた。「あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人に入って来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか。
7:19 そのような物は、人の心には、入らないで、腹に入り、そして、かわやに出されてしまうのです。」イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。
7:20 また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。
7:21 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、
7:22 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、
7:23 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」

 私たちは宗教や言葉、文化が違っても、正しさの基準というものを、人それぞれ持っていると思います。そして正しいことをして、神様から認められて、死後に報いを受けたい、そう思って生きている人がほとんどではないでしょうか。問題は自分の正しさの基準が明確に本当の神の基準となっているかどうかです。
イエス・キリストがここで教えられていることは、真の神が私たちに明確に求めておられる基準です。

1、人は行いによっては救われない。
 ユダヤ人たちは、食事の前に手やからだを洗うことなど、色々な言い伝えとしきたりを持ち、口に入るものに気を付けることによって「汚れる」ことから身を守ろうとしていました。彼らは行いに気を付けてさえいれば、「汚れる」ことなく、神に受け入れられ、救われると考えていたのです。
 このように行い、他人の目に写るうわべさえ気を付けていれば、上手くいくのではないかと考えている人はきっと多いと思います。「真面目にしていれば」、とか「人に迷惑を架けなければ」とか、決められたことをきちっと守り、他人の目に「あの人は真面目だ。良い人だ」と思われる人になれば、神様も正しいと認めてくれて、天国にも行けるだろうと考えるわけです。果たしてそうでしょうか。

2、人の心のなかに悪いものがある。
 しかしイエス・キリストは人の口に入るものが人を汚すのではないと教えられました。行動の規則さえ守っていれば良いというのではないと言うのです。うわべを取り繕うことよりも、心のなかの悪い思いが人を「汚し」、自分を神から遠ざけると教えられました。結局、心のなかの思いが言葉と態度と行為に出てくるのですから、その思いが「汚れて」いる限り、神の前に受け入れられることはないのです。どんなに表面を取り繕っても、心の底に溜まった泥がなくなることはないのです。ではどうしたら良いのでしょうか。

3、解決はイエス・キリストにしかない。
 私たちのうちで誰一人、自分の力で心のなかの汚い思いをなくすことができる者はいません。神は私たちがどんなに外側を取り繕い、自分を奇麗に見せようとしても、その心のなかは悪い、汚れた思いがあることを知っておられるのです。どうしたら良いのでしょうか。   
 この問題を解決するには「罪のない人」が人間を代表して、神の怒りを受け、犠牲として捧げられなければなりませんでした。でもそのような人は存在しません。人間は皆罪があり、心が汚れているのです。神はご自分の御子イエス・キリストを人としてこの地に送ってくださいました。そして十字架の上で苦しんで死なせ、3日目によみがえらせることによって、このお方を「信じるだけで」神との関係を回復し、救われるという道を切り開いてくださったのです。キリストを信じるとは光を心のなかに迎え入れるということです。光が入れば闇は消え、存在することができないのです。
 皆さんの心に今、いのちの光があるでしょうか。「私の心には光がありません。闇に覆われています。穢れでいっぱいです」という方がおられるなら、その人はキリストを心にお迎えください。「私の心にお入りください」と祈るだけで良いのです。

今週の暗証聖句
イエスはまた彼らに語って言われた。 「わたしは、 世の光です。 わたしに従う者は、 決してやみの中を歩むことがなく、 いのちの光を持つのです。 」               ヨハネ8:12

その190 夫と妻の一丁目一番地

February 10 [Sun], 2019, 20:33
「夫と妻の一丁目一番地」

創世記2章8節
2:18 神である【主】は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」

 バレンタインデーは皇帝に結婚を禁じられていた兵士たちの結婚式を行い、処刑された聖バレンティヌスを記念することが始まりと言われています。今では「夫婦の日」として覚えられているところが世界中にあります。

1、一人では生きられない。
天地創造の際、最初の人間アダムを見て神様は言われました。

創世記2:18 神である【主】は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」

そしてエバという名の女性を妻として与えたと書かれています。結婚という制度は人間ではなく神によって定められたことを教えています。このときから人は一人では生きられない存在となりました。一緒に人生を歩いてくれるパートナーを必要とするのです。聖書は一貫して、夫婦関係の大切さを教えています。この神様の定められた秩序を土台とするときに、家庭がおさまり、社会が安定し、人々の心が平安になるのです。夫婦生活の祝福を願うことは、神様の御心です。

2、男女は互いに補い合う。
創造のときから、男性と女性は違うように創られました。男性には男性にしかできないことが、女性には女性にしかできないことがあるのです。それはお互いがお互いを必要とし、互いに補い合うようにするためです。
創世記2:24 それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。
互いの弱さ、出来ないことを責め合うのではなく、「相手の出来ないことを自分がカバーしよう、自分が出来ないことを相手に助けてもらおう。」こうやって夫婦は一体となるのです。

3、夫婦を結ぶ帯は愛。
夫婦を一つとし続ける鍵は愛です。愛とは「相手を赦し続ける力」です。

1コリント13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。

「自分」だけを前面に押し出し、相手に一方的に従わせようとする関係は決して神様が望まれる正しいものとは言えません。夫婦関係においても同じことです。互いに自分の弱さ、相手の弱さを認め合いながら、一つになろうとするために、愛の力を求めましょう。

4、パートナーは神に与えられた。
「どうしたら離婚することができますか?」という質問に対するイエス様の答えは「夫婦は神様が結び合わせたものだ。だから引き離してはならない」ということでした。2人の出会いや交際に至る経緯、その他色々なことの背後に、神様が働いてくださり、夫婦となるように結び合わせてくださったのだと信じることがまさに夫婦関係の原点です。
結婚式で神様と証人の前で誓った約束を、生涯守り続けることが、人生の祝福の土台となります。

今週の暗証聖句
それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。
マタイ19:6

その189 いのちの水と祈り

February 03 [Sun], 2019, 10:30
「命の水と祈り」 モーセの生涯H

出エジプト記17:1-13
17:1 イスラエル人の全会衆は、【主】の命により、シンの荒野から旅立ち、旅を重ねて、レフィディムで宿営した。そこには民の飲む水がなかった。
17:2 それで、民はモーセと争い、「私たちに飲む水を下さい」と言った。モーセは彼らに、「あなたがたはなぜ私と争うのですか。なぜ【主】を試みるのですか」と言った。
17:3 民はその所で水に渇いた。それで民はモーセにつぶやいて言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。」
17:4 そこでモーセは【主】に叫んで言った。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。もう少しで私を石で打ち殺そうとしています。」
17:5 【主】はモーセに仰せられた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを幾人か連れ、あなたがナイルを打ったあの杖を手に取って出て行け。
17:6 さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。
17:7 それで、彼はその所をマサ、またはメリバと名づけた。それは、イスラエル人が争ったからであり、また彼らが、「【主】は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って、【主】を試みたからである。
17:8 さて、アマレクが来て、レフィディムでイスラエルと戦った。
17:9 モーセはヨシュアに言った。「私たちのために幾人かを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。あす私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」
17:10 ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。
17:11 モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。
17:12 しかし、モーセの手が重くなった。彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いたので、モーセはその上に腰掛けた。アロンとフルは、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえた。それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであった。
17:13 ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で打ち破った。

17章は大きく二つの部分に分けることができます。一つは水の問題。民たちが水がないと不平不満を言ったので、主はモーセを通して、岩から水を流れ出され、民たちに与えられたというお話と、アマレク人というグループがイスラエルの行く手を塞ぎ、彼らが最初の戦いを経験するというお話です。

1、私たちは命の水を必要としている。
新約聖書のなかで、パウロはここを通して、イスラエルたちが飲んだのは御霊の飲み物で、その岩とはキリストであると表現しています(1コリント10章)。勿論これは直接的なことではなく、霊的な意味でしょうが、それは単なる水ではなく、神様からの霊的な命の水であったということです。

ここで教えられることは、私たちクリスチャンには霊的に飢え渇く時があるということです。私たちのうちに内住しておられるキリストの霊、つまり聖霊の満たしを求めるということが大切なのです。聖霊に満たされることによって始めて、私たちは人間のあらゆる欲望から解放され、毎日毎日を神様とともに生きているということを実感することができます。このイスラエルの民のように、飢え乾きを覚え、弱さを覚え、絶望しそうになったときには、岩なるキリスト・イエスの、霊の糧を求めていきましょう。そうすれば、ともにおられるお方が、必ずそれに答え、私たちを満たし、必要なものもすべて与えられるということを信じていきましょう。

2、心を合わせて祈る。
この戦いは、イスラエルにとっては初めての経験でした。エジプトで奴隷だった彼らは、軍隊で訓練を受けたこともなかったでしょうし、だいたい十分な武器も持っていなかったと思います。その人たちが、他の民族と戦争をしたのですから大変なことです。モーセはヨシュアと他に幾人かを選び、戦いに送り出したと書かれていますが、聖書が焦点としているところは、戦いそのものではありませんでした。モーセが手をあげている時はイスラエルが優勢になり、モーセが手をおろすとアマレクが優勢になったこと。そしてアロンとフルという人たちがモーセの手をささえたので、最終的にイスラエルが勝ったと記述しています。ヨシュアの戦いぶりではなく、モーセたちの祈りぶりに焦点が当てられているのです。

このモーセを教会の指導者、つまり牧師と見てみましょう。牧師は教会員たちが様々な戦いを強いられているのを見て、祈り、とりなしています。しかしモーセが一人で祈り続けることができなかったように、牧師も一人では祈り続けることができないのです。私たちは「祈りの手をあげる」と言いますが、牧師が祈りの手をあげ続けるためには、ここに出てくるアロンやフルのような助け手、牧師を助け、共に祈り、一緒に戦う助け手が必要であることがここにはっきりと示されているのです。牧師と心を一つにし、手を支えてくださる人が多ければ多いほど、私たちの教会はより堅固な教会として、成長していくでしょう。祈りの手をおろさない教会として前進していきましょう。

今週の暗証聖句
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」  ヨハネ7:37