その175 人生のパラダイムシフト

August 26 [Sun], 2018, 17:49
「人生のパラダイムシフト」

ヨハネの福音書3:1-15
3:1 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。
3:2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」
3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
3:4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」
3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。
3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
3:8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」
3:9 ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」
3:10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。
3:11 まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。
3:12 あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。
3:13 だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。
3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

 多くの人が幸せになることを願い、「仕事がうまくいけば」、「希望する学校に入れたら」、「結婚したら」、「お金がたくさん儲かったら」幸せになれる、と思い込んでいます。確かにそういうことが実現したら、一時的には幸福感を感じるかもしれませんが、それがずっと続くということはありません。また以前のように不満を感じ、不安を感じ、「もっと何か別のものを手に入れなければならない」と思い込んでしまいます。私たちは同じものを見ていても、違うものに見えるような、物の見方、考え方を変えない限り、本当の意味での幸福感を味わうことはできないのです。

1、人は生まれ変わることができる。
キリストがニコデモに教えたのは、「人は生まれ変わることができる」という新しいパラダイム(人生観・価値観)でした。聖書はすべての人間の苦しみの原因は造り主である神様から離れている、人間の罪であると教えています。本来は神様のもとで、神様とともに生きるために創造された人間が、神様から離れ、自分勝手に生きている。これが罪です。神様から離れると要するに神様のことが分からなくなり、かたくなな心で傲慢になって、何が本当に大切なのか見えなくなります。このニコデモのように地上の人生観、価値観でしか物事を見ることができなくなってしまうのです。
しかしイエス様はそのような人間の限界、苦しみを打ち破るためにこの世界に来てくださいました。人間がもう一度新しく生まれ変わることができるためです。罪を持ったアダムとエバの子孫は罪の世界に生まれて、罪の中で死ななければならなかったのですが、イエス様は人間がもう一度生まれ変わって、神様の世界に入ることができるようにしてくださったのです。「人間はどうせ年をとって死んでいくんだ」という人生観から、「人間は生まれ変わることができる」という人生観、視点に変わった時に、私たち人間は見るものすべてが変わります。

2、キリストを信じることによって。
ではイエス様はどのようにして私たち人間を生まれ変わらせてくださるのでしょうか。14節にそのヒントが書かれています。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子(つまり私、イエス)も上げられなければなりません。」この意味は「罪の罰を受けて、苦しんで死ぬ以外にない人々がそれを仰ぎ見て助かるように、私も十字架に上げられるのだ」という預言です。死ぬことは人生の終わりなのではなく、永遠のスタートなのです。神様はイエス・キリストをこの世に送ることによって、あの十字架を仰ぎ見る人々が永遠の命を持つことができるようにしてくださったのです。同じ人生でも、自分に起る様々な出来事を永遠のいのちがあるという視点で見るのか、それとも人間は死んだら終わりだという視点で見るのか、見え方が大きく違ってくることでしょう。あなたは今永遠のために何を準備しているのでしょうか。
私たちが生まれ変わるために神様が何をしてくださったのか思い出しましょう。まだイエス様を信じていない方は、イエス・キリストを信じるならば、新しく生まれ変わることができることをどうか知ってください。

今週の暗証聖句
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。ヨハネ3:16

その174 羊飼いなる主

August 19 [Sun], 2018, 13:10
「羊飼いなる主」

詩篇23:1-6
23:1 【主】は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
23:4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
23:5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
23:6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、【主】の家に住まいましょう。

1、信仰によって神と絆を持つ。
この詩の冒頭でダビデは「主は私の羊飼い」と告白しています。ダビデが神をどのように見ていたのか、神とどのような関係を持っていたのかが分かる一言です。ダビデは羊飼いの役割や羊の性質をよく知っていました。その上で彼は自分と神の関係は、羊と羊飼いであると告白したのです。
私たちは神をどのようにイメージし、どのような関係を持っているのかを考えさせられます。あなたは今、神とどのような関係を持っているでしょうか。「神は私の羊飼いなのだ」という信頼を持ち続けているかを考えましょう。
どうしたら私たちは「神の羊」となることができるのでしょうか。「信仰」によってのみです。キリストの十字架と復活を信じる信仰によって、「主は私の羊飼い」という関係を持つことができるのです。
 今自らを振り返ってみましょう。主はあなたの羊飼いでしょうか。

2、信仰によって神に信頼を置く。
ダビデはその後「私は、乏しいことがありません」と告白しています。その後を見ると4節の「死の陰の谷を歩くことがあっても」とか5節の「私の敵の前で」という言葉が出てきます。つまり全てが順調ではなく、苦しい時、危ない時、上手く行かないときもあるということですね。それでも「私は神を信頼しているのだ」と言っているわけです。また6節を読めば明らかなように、この告白は決して現状だけを見て言っているのではありません。「まことに、 私のいのちの日の限り、 いつくしみと恵みとが、 私を追って来るでしょう。 私は、 いつまでも、 【主】の家に住まいましょう」と、まだ目で見ていない未来をも含めて、神への完全な信頼を告白しているのです。
イエス・キリストは「羊のためにいのちを捨てる」と言われました。命がけで私たちを護り、私たちを助けてくださる神なのです。
「救われる。クリスチャンになる」ということは「生きてても大丈夫。死んでも大丈夫になる」ということです。信仰によって神との個人的絆を持つ者は神に完全に信頼を置くことができます。毎日「あなたを信頼していますから私は大丈夫です」と告白できる生活をしていきましょう。

3、信仰によって神に導かれる。
羊が羊飼いを喜ばせるために出来ることは何もありません。完全に依存して生きるしかありません。唯一できることは羊飼いの導きに従うことだけです。たとえ目の前に苦しみや困難が見えたとしても、神を信頼して導きに従うのです。私たちは祈りと御言葉と聖霊充満によって、私たちは神の声を聞き取り、従う力も与えられます。
配慮と護りと祝福を持って導いてくださる神を信頼していきましょう。
私たちは、いつも主から声を掛けられ、どこに向かって歩いたらよいか、その導きを与えられ、永遠の命という約束を持ち、御手の中でしっかりと守られ、あなたは私が命をかけるほどに、高価な価値のある存在なのだと言っていただける存在です。このクリスチャンの素晴らしい恵みと特権があることを思い出し、今週も新しい心で、主に近づいていきましょう。

今週の暗証聖句
わたしは、 良い牧者です。 良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。 ヨハネ10:11