その157 信仰の実、妥協の実

January 21 [Sun], 2018, 10:30
信仰の実、妥協の実 

創世記21:1-19

21:1 【主】は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに【主】はサラになさった。
21:2 サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。
21:3 アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。
21:4 そしてアブラハムは、神が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を施した。
21:5 アブラハムは、その子イサクが生まれたときは百歳であった。
21:6 サラは言った。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」
21:7 また彼女は言った。「だれがアブラハムに、『サラが子どもに乳を飲ませる』と告げたでしょう。ところが私は、あの年寄りに子を産みました。」
21:8 その子は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した。
21:9 そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクをからかっているのを見た。
21:10 それでアブラハムに言った。「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。」
21:11 このことは、自分の子に関することなので、アブラハムは、非常に悩んだ。
21:12 すると、神はアブラハムに仰せられた。「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。
21:13 しかしはしための子も、わたしは一つの国民としよう。彼もあなたの子だから。」
21:14 翌朝早く、アブラハムは、パンと水の皮袋を取ってハガルに与え、それを彼女の肩に載せ、その子とともに彼女を送り出した。それで彼女はベエル・シェバの荒野をさまよい歩いた。
21:15 皮袋の水が尽きたとき、彼女はその子を一本の灌木の下に投げ出し、
21:16 自分は、矢の届くほど離れた向こうに行ってすわった。それは彼女が「私は子どもの死ぬのを見たくない」と思ったからである。それで、離れてすわったのである。そうして彼女は声をあげて泣いた。
21:17 神は少年の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで、言った。「ハガルよ。どうしたのか。恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。
21:18 行ってあの少年を起こし、彼を力づけなさい。わたしはあの子を大いなる国民とするからだ。」
21:19 神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで行って皮袋に水を満たし、少年に飲ませた。
21:20 神が少年とともにおられたので、彼は成長し、荒野に住んで、弓を射る者となった。


1、具体的なもの(こと)を信じる。
信仰はただ私たちを救う力があるだけではなく、この地上で私たちが神の栄光を表すために行使する偉大な力があります。それはいうなれば創造の信仰です。無から有を生み出す信仰です。

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。ヘブル11:6

この信仰とは、ただ天国に行けるという信仰ではなく、私の神は偉大な神だという信仰です。人間にはできないことも神にはできるという信仰です。同じ信仰を持つのならば、大きな信仰、神に喜ばれる信仰を持とうではありませんか。アブラハムは75歳のときに、子どもができるという具体的なことを信じました。そしてその実が結ばれました。私たちも具体的なことを信じて、それが実現することを見ていきましょう。

2、忍耐を持つ。
アブラハムは75歳で約束を受けて、その信仰が実を結んだのは100歳の時でした。実に25年間約束を待ち続けたのです。状況は少しずつよくなっていたのでしょうか。その反対です。もっと早く息子が生まれていれば、何の問題もなかったようなことが次々と起こりました。そのような中で、彼はじっと忍耐し、待ち続けたのです。
聖書にはそのほかにも、忍耐を強いられた多くの信仰者が登場します。中には自分が生きているときには成就しないで、死んだあとに、実現したというものもあります。彼らは忍耐を持って、地上の生涯を生き続けたのです。
私たちも、具体的なことを信じ始めたら、それを持ち続ける忍耐が必要です。私たちの考えるベストのタイミングと、神様のタイミングは違うものです。そして神様のタイミングのほうが、正しく、適切なのです。

3、実を結ぶ一連の行程は、自分の成長の過程であることを覚える。
信仰の実は、ある日何もないところから生み出されるのではなく、自分自身の成長に従って結ばれていくのです。生えたばかりの細い枝は、大きな実を実らせることはできません。枝が実の重さに耐えられないからです。同じように、大きな信仰の実を結びたいのであれば、枝である私たち自身が、太い枝にならなければならないのです。
私はぶどうの木。あなたがたは枝です。わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。ヨハネ15:5
私たちは日々を大切に過ごさなければなりません。日曜の朝だけではなく、毎日の生活の中にイエス様を迎え入れて、日々成長していくことができるように望んでいきましょう。

信仰の妥協は災いを招く

あなたにとってのイサクとは何でしょうか。イシュマエルとは何でしょうか。信仰を選び取ったときに素晴らしい祝福があることを信じてこれからも信仰生活を続けていきましょう。

今週の暗証聖句
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。ヘブル11:6

その156 召された者への約束 モーセB

January 14 [Sun], 2018, 16:42
召された者への約束 

出エジプト4:1-17


4:1 モーセは答えて申し上げた。「ですが、彼らは私を信ぜず、また私の声に耳を傾けないでしょう。『【主】はあなたに現れなかった』と言うでしょうから。」
4:2 【主】は彼に仰せられた。「あなたの手にあるそれは何か。」彼は答えた。「杖です。」
4:3 すると仰せられた。「それを地に投げよ。」彼がそれを地に投げると、杖は蛇になった。モーセはそれから身を引いた。
4:4 【主】はまた、モーセに仰せられた。「手を伸ばして、その尾をつかめ。」彼が手を伸ばしてそれを握ったとき、それは手の中で杖になった。
4:5 「これは、彼らの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、【主】があなたに現れたことを、彼らが信じるためである。」
4:6 【主】はなおまた、彼に仰せられた。「手をふところに入れよ。」彼は手をふところに入れた。そして、出した。なんと、彼の手はツァラアトに冒され、雪のようになっていた。
4:7 また、主は仰せられた。「あなたの手をもう一度ふところに入れよ。」そこで彼はもう一度手をふところに入れた。そして、ふところから出した。なんと、それは再び彼の肉のようになっていた。
4:8 「たとい彼らがあなたを信ぜず、また初めのしるしの声に聞き従わなくても、後のしるしの声は信じるであろう。
4:9 もしも彼らがこの二つのしるしをも信ぜず、あなたの声にも聞き従わないなら、ナイルから水を汲んで、それをかわいた土に注がなければならない。あなたがナイルから汲んだその水は、かわいた土の上で血となる。」
4:10 モーセは【主】に申し上げた。「ああ主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」
4:11 【主】は彼に仰せられた。「だれが人に口をつけたのか。だれが口をきけなくし、耳を聞こえなくし、あるいは、目を開いたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、【主】ではないか。
4:12 さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。」
4:13 すると申し上げた。「ああ主よ。どうかほかの人を遣わしてください。」
4:14 すると、【主】の怒りがモーセに向かって燃え上がり、こう仰せられた。「あなたの兄、レビ人アロンがいるではないか。わたしは彼がよく話すことを知っている。今、彼はあなたに会いに出て来ている。あなたに会えば、心から喜ぼう。
4:15 あなたが彼に語り、その口にことばを置くなら、わたしはあなたの口とともにあり、彼の口とともにあって、あなたがたのなすべきことを教えよう。
4:16 彼があなたに代わって民に語るなら、彼はあなたの口の代わりとなり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。
4:17 あなたはこの杖を手に取り、これでしるしを行わなければならない。」

 モーセは神様の「エジプトへ行ってイスラエルを救え」という命令を恐れて断りました。「彼らは私の言うことを信じないでしょう」。神様はモーセの手のなかにある杖をへびに変えたり、手を病気にしたりすることで、モーセを遣わすのは神様ご自身であることを約束されました。しかしモーセは自信を持てず「私は口が重いのです」と言ってその任務を果たす能力がないと訴えます。神様は「あなたの兄アロンがあなたの代わりに話す」と励まされました。

1、ともににいてくださることを証明される神。
神様は決して、言葉だけで行って来いと命じられる神なのではなく、一緒にいて下さることを明らかにしてくださる方です。それを聖書はしるしと呼んでいます。神様が生きておられること、神様が一緒にいて働いてくださることを、しるしを持って証明してくださる。これが、神様がモーセを遣わされたという確かな証拠でした。神様は私たちの人生の中でも確かなしるしを持って働いてくださるのです。私たちは人生の節目節目で、神様が自分の人生に介入してくださっていることを体験し、「ああ確かに神様は自分をここに導いておられたんだな。ああ確かに神様はこのような私を覚えて、愛して、守ってくださっているのだな」、と確信することができるのです。「あなたの手にあるものは何ですか?他の人から見れば何の変哲もないものかもしれない。価値のないものかもしれない。でも私はそれを通して、私があなたと一緒にいることを現すことができるのですよ」と語りかけてくださっているのです。人よりも多くを持っている必要はありません。人よりも価値のあるものを持っている必要もありません。神様は皆さんの持っているものを通して、ご自身の御業を現すことのできるお方です。この神様だけを見上げて、歩んでいきましょう。

2、必要なものを与えてくださる神。
 モーセはなかなか承知しませんでした。「他の人を遣わしてください。」神様はそれでもあきらめずに、「アロンというモーセの兄を遣わすから、彼に代わりに語ってもらいなさい」と言われたのです。神様が人を選ぶ基準というのは、人間のように容姿や、能力ではないのです。そして例え能力が劣っている部分があったとしても、神様は必要なものはすべて与えてくださるのです。 
私たちも、人の目から見るならば、欠けたところだらけの弱い人間かもしれません。とても神様のお役に立つような能力はないように見えるかもしれません。しかし、神様の目から見るならば、能力だとか、年齢などは関係ないことがこの聖書を見れば分かります。大切なのは神様から召されているかどうかです。もし足りないものがあるのなら、神様が与えてくださいます。お金が足りないならお金を与えてくださいます。能力がないのなら、その能力を神様が与えてくださいます。一人では何もできないなら、神様がふさわしい助け手を与えてくださるのです。神様が望んでおられることは、私たちが恐れないで、逃げないで、「神様、ここにおります。あなたが望まれるのでしたら、どうか私を用いてください。どうか私を遣わしてください。」という素直に反応することのできる信仰なのです。神様が私たちに必要なものをすべて与えられると信じて、ますます熱心に、神様の業に励んでいきましょう。

今週の暗証聖句
【主】はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。 U歴代 16:9

その155 責任をとってくださる神

January 07 [Sun], 2018, 16:45
責任をとってくださる神

主は、この四十年の間あなたとともにおられ、あなたは、何一つ欠けたものはなかった。 
申命記2章7節                   

今年一年、教会で掲げられる標語です。私たちは4月に創立(再開拓)40周年を迎えます。ここまで導かれた歩みを振り返り感謝しつつ、神様がこれからどのように導いてくださるか期待してまいりましょう。
 40年におよぶ荒野での生活が間もなく終わり、民たちは新しい指導者ヨシュアの下で、ヨルダン川を渡り、約束の地に入ろうとしています。モーセはそれまでの40年間を振り返り、神様が責任を持って護ってくださったことを思い出すように命じています。

1、あわれみ深いから。
 エジプトから救い出されたイスラエルの民たちでしたが、決して良い人々ではありませんでした。何度も神様に逆らい、悲しませ、怒らせたのです。そもそも40年も荒野で生活しなければならなかったことこそがその証拠です。しかし神様は、彼らを決して見捨てることはしませんでした。約束の地に連れてゆくというご自身の約束を最後まで果たし、民たちの生活のすべての必要を満たしてくださったのでした。それはすべて神様があわれみ深い神だからです。
 私たちの信仰生活の歩みも、決してすべてに渡って非の打ちどころがないということはないでしょう。時には失敗し、神様を悲しませてしまうかもしれません。しかし神様は憐れみに富んだお方なのです。この一年も、この憐れみ深い、恵みに満ちた神様を信じていきましょう。

2、頼っているから。
 荒野で何度も神様を悲しませた民たちでしたが、同時に彼らにとって、神様以外に頼ることができない状況であったことも事実です。彼らは毎日の生活を天から降るマナに頼り、昼は雲の柱、夜は火の柱によって護られ、導かれていたのです。神様は、ご自身を頼り従う者たちを絶対に見捨てることはなさらず、責任をとってくださるのです。
 私たちも、神様を信頼し、神様に頼るならば、決してダメになることはありません。神様はご自身を頼る者を失望させることはなさいません。この一年も神様を信頼していきましょう。

3、使命があるから。
 神様はアブラハムを選び、その子孫であるイスラエルを護られましたが、それは決してイスラエルだけを幸せにするためではありません。イスラエルを通して全人類にご自身との回復(救い)をもたらそうとされたのです。イスラエルには使命があったのです。使命があったからこそ、ときには厳しく戒める必要がありました。
 私たちも、救われているのは自分たちだけが天国に入り込むためではありません。多くの人に福音を伝えるという使命があります。私たちはこの40年間、この使命に立ってきたからこそ、神様はこの教会を護り、何一つ欠けたものはなかったと言える状況にしてくださいました。これからもこの使命に生きる教会、そして信仰者として歩みましょう。

今週の暗証聖句
全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。マルコ16:15