その153 神の手の中の人生 モーセA

November 19 [Sun], 2017, 10:30
神の手の中の人生  モーセの生涯A
 出エジプト2:1-25

2:1 さて、レビの家のひとりの人がレビ人の娘をめとった。
2:2 女はみごもって、男の子を産んだが、そのかわいいのを見て、三か月の間その子を隠しておいた。
2:3 しかしもう隠しきれなくなったので、パピルス製のかごを手に入れ、それに瀝青と樹脂とを塗って、その子を中に入れ、ナイルの岸の葦の茂みの中に置いた。
2:4 その子の姉が、その子がどうなるかを知ろうとして、遠く離れて立っていたとき、
2:5 パロの娘が水浴びをしようとナイルに降りて来た。彼女の侍女たちはナイルの川辺を歩いていた。彼女は葦の茂みにかごがあるのを見、はしためをやって、それを取って来させた。
2:6 それをあけると、子どもがいた。なんと、それは男の子で、泣いていた。彼女はその子をあわれに思い、「これはきっとヘブル人の子どもです」と言った。
2:7 そのとき、その子の姉がパロの娘に言った。「あなたに代わって、その子に乳を飲ませるため、私が行って、ヘブル女のうばを呼んでまいりましょうか。」
2:8 パロの娘が「そうしておくれ」と言ったので、おとめは行って、その子の母を呼んで来た。
2:9 パロの娘は彼女に言った。「この子を連れて行き、私に代わって乳を飲ませてください。私があなたの賃金を払いましょう。」それで、その女はその子を引き取って、乳を飲ませた。
2:10 その子が大きくなったとき、女はその子をパロの娘のもとに連れて行った。その子は王女の息子になった。彼女はその子をモーセと名づけた。彼女は、「水の中から、私がこの子を引き出したのです」と言ったからである。
2:11 こうして日がたち、モーセがおとなになったとき、彼は同胞のところへ出て行き、その苦役を見た。そのとき、自分の同胞であるひとりのヘブル人を、あるエジプト人が打っているのを見た。
2:12 あたりを見回し、ほかにだれもいないのを見届けると、彼はそのエジプト人を打ち殺し、これを砂の中に隠した。
2:13 次の日、また外に出てみると、なんと、ふたりのヘブル人が争っているではないか。そこで彼は悪いほうに「なぜ自分の仲間を打つのか」と言った。
2:14 するとその男は、「だれがあなたを私たちのつかさやさばきつかさにしたのか。あなたはエジプト人を殺したように、私も殺そうと言うのか」と言った。そこでモーセは恐れて、きっとあのことが知れたのだと思った。
2:15 パロはこのことを聞いて、モーセを殺そうと捜し求めた。しかし、モーセはパロのところからのがれ、ミデヤンの地に住んだ。

 この章には、モーセの出生の様子と、それから40年後にエジプトを出て、荒野で40年過ごすことになる経緯がいっきに描かれています。大きく分けるとこの章は2つに分けられます。一つはモーセがどういう経緯で40歳になるまでをエジプト王の家族として過ごしたか。二つ目はどうしてそれまでのキャリアを捨てて、荒野で過ごさなければならなかったかです。

1、モーセの生涯はすべて神の手の中にあった
 表面だけを見るならば、彼の生涯は、運命に翻弄されて、自分の思っても見なかった方向に行かざるを得なくなっているように見えます。しかし視点を神様のほうに変えるならば、モーセの生涯は全く違ったものに見えます。例えば神様はパロの娘を通してモーセの命を守られました。もしこれが普通のエジプト人に見つけられたのなら、すぐさま殺されていたことでしょう。言い換えればパロの家族に引き取られることが、モーセにとって最も安全な行き先だったわけです。モーセは当時の世界で最も高い教育を受けることができました。その教育の中には、政治のこと、行政のこと、あるいは軍事のことなどが含まれていたことでしょう。それらの教育一つ一つが、後のモーセの大きな財産になったに違いありません。彼が通ってきたすべての経験が後のモーセを助ける財産になったのです。   
私たち一人一人も、偶然に生まれて、偶然に左右されて、人生をあっちへいったり、こっちへ行ったりしているように思えるかもしれませんが、見方を変えて、神様の視点で自分の人生を振り返り、一つ一つの意味を考えるとき、全く別の人生が見えてくるかもしれません。人間の目に良いことに見えることも、悪いことに見えることも、神様の目から見たら同じ神様のご計画が進んでいることに過ぎないのかもしれません。神様の視点で自分の人生を見て生きましょう。

2、モーセは砕かれる体験が必要だった。
 モーセは自分の力で同胞のへブル人を助けようとしました。ところが、彼は喜んで受け入れられるどころか、同じ同胞のへブル人に拒絶されてしまうのです。このことはモーセのプライド、自信、人生観を砕きました。彼は行き場もなくなり、王の目を恐れて荒野へと逃げ出していったのです。彼にとっては悲惨な体験だったでしょうが、後で振り返るならば、これもモーセの人格を磨く上で大切なレッスンだったと言えます。この後40年かかるわけですが、モーセは次に自分の民の元へ帰るときには、神様にしか頼ることができないという謙遜な人格者へと変えられていたわけです。
 聖書を見ますと、神様は人を用いる時、まず必ずその人を砕きます。イエスの弟子たちも、パウロも皆一度は粉々に砕かれ、その後に神様に用いられる器へと成長しました。
このモーセやパウロや弟子たちの砕かれた体験から、私たちの人生を考えてみましょう。人は飛躍しようとするとき、必ず自分自身の弱さと向き合わなければならなくなるのです。神様のために偉大な働きをしたいのであれば、神様から受ける偉大な試練を、自分がステップアップする良いチャンスと考えて、従っていきましょう。神様は必ず、すべてのことを良きに変えてくださると信じましょう。

今週の暗証聖句
人の歩みは主によって定められる。人間はどうして自分の道を理解できようか。箴言20:24

その152 イエスの望み

November 12 [Sun], 2017, 10:30
イエスの望み

ヨハネの福音書11章20−44節

11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行った。マリヤは家ですわっていた。
11:21 マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
11:22 今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」
11:23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
11:24 マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」
11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
11:26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
11:27 彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」
11:28 こう言ってから、帰って行って、姉妹マリヤを呼び、「先生が見えています。あなたを呼んでおられます」とそっと言った。
11:29 マリヤはそれを聞くと、すぐ立ち上がって、イエスのところに行った。
11:30 さてイエスは、まだ村に入らないで、マルタが出迎えた場所におられた。
11:31 マリヤとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、マリヤが墓に泣きに行くのだろうと思い、彼女について行った。
11:32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
11:33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
11:34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」
11:35 イエスは涙を流された。
11:36 そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」
11:37 しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか」と言う者もいた。
11:38 そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。
11:39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」
11:40 イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
11:41 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。
11:42 わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」
11:43 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
11:44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」

 イエスがこの地上でなさった数多くの奇跡は、人を驚かせるために起こしたのでもないし、ましてや人気者になりたかったからでもありません。このしるしを見た者、聞いた者にして欲しいことがあったのです。

イエスの望みとは何か?  私たちが信じること

イエスの望みは
1、私たちが、イエス・キリストは真のいのちであると信じること
 イエス様はここで、私は命を持っていると言ったのではなく、私が命だと言われます。この地上のわたしたちは皆、限定された命を持ち、その寿命の範囲で、限定された生き方をする以外にありません。聖書はなぜならそれは、私たち人間には神様から離れ、神様に逆らう罪という性質があるからだと教えています。肉体の死よりももっと恐ろしいのは、永遠に神様から失われるという霊の死です。この霊の命、真の命を人は何としても得なければならないのだと聖書は教えているのです。イエス・キリストは、神の子でありながら、人間としてこの地に来られ、ご自身を信じる者には、惜しむことなく、真の命を分け与えようとされているのです。よみがえりの主、命の主、イエス・キリストを信じるならば、世界中のどんな人も、死んでも生きる。生きていて信じるならば、死ぬことがない。これがイエス・キリストがこの地上に来られた目的であり、このことを信じることが、私たちに対する彼の望みなのです。

2、私たちが行動すること
 イエス様がラザロの墓の前で言ったことは、驚くべき言葉でした。「その(墓の入り口にある)石を取り除けなさい。39節」と言うのです。ここでイエス様はマルタやマリヤに具体的なチャレンジをしています。「私を本当に信じるのなら、行動しなさい」ということです。もし、ここで、彼女たちがそれを拒み、何のアクションも起こさなければ、これから起こる偉大な御業を体験することはできませんでした。彼らの人生には何も起こらなかったでしょう。しかし墓の石を取り除けるという具体的な行動を起こした後で、彼らは大きな御業を見、大きな喜びを得ることができたのです。
 イエス様は今朝も、私たち一人一人に、「その石を取り除けなさい」と語りかけておられるのではないでしょうか。その石とは、問題、疑い、躊躇、神様より世を愛する心かもしれません。それを取り除けなさいと言っておられるのであります。その石を取り除けるのはイエス様の仕事ではない。私たち人間が決断するべき行動なのだとイエス様は教えておられるのです。信じるのなら、行動を起こす。従おうとすることを邪魔する誘惑や、問題をかなぐり捨てて、石を動かし、後は、イエス様に解決してもらおうではありませんか。イエス様は私たち一人一人の決断と行動を待っておられるのです。

今週の暗証聖句
もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。ヨハネ11:40

その151 主の祈りE

November 05 [Sun], 2017, 10:30
主の祈りE

「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」

この祈りのテーマを一言で言うならば、「苦しみのとき、私たちは何ができるか?」です。人は、生きていれば必ず試練を味わいます。自分の力では、どうすることもできないことが多いのが、私たちの人生であり、社会です。でもそのために、主は祈りを教えてくださいました。

苦しみのとき、試練のとき…
1、私たちは祈ることができる。
苦しみや痛みは、望ましいものには見えませんが、しかしそれらは、私たちを祈りに向かわせます。試練を通して私たちは鍛えられ、ただ神様だけに、解決があることを信じる信仰が養われるのです。
苦しみより怖いものは、神様が見えなくなること、神様が信じられなくなることです。ですから時には、苦しみとは違う方法で、神様を見えなくするもの、神様を信じさせなくするような試練がやってくることがあります。それは快楽かもしれません。お金かもしれません。人の誉める言葉かもしれません。それらの一見良いものに見える誘惑にも注意する必要があります。
苦しみや誘惑のなかで、私たちは「主よ、救ってください。守ってください」と祈ることができます。この祈りの力を信じて、今日も明日も歩んでまいりましょう。

2、必ず助けだされることを信じる。
イエス様はただの気休めや慰めのために、この祈りを教えてくださったわけではありません。この祈りには力があり、祈るならば、必ずや天におられる父が聞いてくださり、地上に御心を行ってくださるのだと、確証を与えておられるのです。
誰でもたまには弱気になります。しかし神様は、決して耐えることのできないような試練を与えることはないのです。どんな苦しみの中でも、神様はあなたを覚え、あなたを愛し、あなたを助けようとされているのです。この祈りには、人間の不可能を可能に変える、神の力が満ちています。試練から助け出してくださる神を信じて歩みましょう。

「国と力とさかえとは限りなくなんじのものなればなり アーメン」
3、神様のために生きている。
「天におられる私たちの父よ」で始まるこの主の祈りは、「すべては神様、あなたのものです」という告白で終わっています。私たちのために神がおられるのではなく、神様のために私たちは生かされています。神様に従い、神様の栄光を表し、神様に感謝を捧げるときにこそ、私たちが生きている意味と目的が明らかになります。私たちを新しくし、本当の生きがいというものを与えてくださる神様にすべての栄光があるように。これが赦された私たちの心からの願いです。この主の祈りによって、これからも力強い信仰生活を歩んでまいりましょう。

今週の暗証聖句
あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。                          1コリント10:13