その106 宴会に呼ばれたら…

May 28 [Sat], 2016, 19:41
「宴会に呼ばれたら…」 イエスのたとえ24
マタイの福音書22:1−14

22:1 イエスはもう一度たとえをもって彼らに話された。
22:2 「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。
22:3 王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。
22:4 それで、もう一度、次のように言いつけて、別のしもべたちを遣わした。『お客に招いておいた人たちにこう言いなさい。「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。」』
22:5 ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、
22:6 そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。
22:7 王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。
22:8 そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。
22:9 だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』
22:10 それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。
22:11 ところで、王が客を見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。
22:12 そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。
22:13 そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ』と言った。
22:14 招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」

 イエスがこのたとえを教えられたのは、十字架に架けられた金曜日の直前の火曜日と言われています。21章の農園を貸して旅に出かけた主人のたとえに続いて語られた話であり、祭司長や長老たちに向かって語られたたとえです。イエスが教える天の御国に入るために、私たちはどうしたら良いのでしょうか?

1、神の招待に応える。
 ここに登場する王とは父なる神であり、結婚する王子とは子なるキリストのことです。理由をつけて招待を拒否するのは、このたとえを話している律法学者や長老たちをはじめとするイスラエルの民たちです。そして大通りにいて宴会に招かれた人々とはユダヤ人以外のいわゆる異邦人と考えることができます。
 イエスは繰り返して、天の御国、すなわち神が人々を招こうとされているところは、宴会のようなところだと教えています。放蕩息子の話でも、父親が息子が帰ってきたのを喜び、宴会を設ける場面があります。ここには失われた人間が帰ってくる神様ご自身の喜びが表されています。そして私たち人間と、その喜びを分かち合いたいと願っておられる神様の愛があるのです。この神の呼びかけ、招きにただ応えるだけで、私たちは神と永遠に過ごすことができるのです。
 しかしこの招きに喜んで応えられない人がいます。「畑」や「商売」を理由にして招きを拒否してしまう人です。自分を人生の中心に置き、神に従うことを拒絶する傲慢が人間にはあります。イエスは「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」と教えられました。人生の優先順位を間違わなければ、神は必要なものをすべて与え、永遠の御国へと連れて行ってくださいます。この神の招きに応えるものとなりましょう。
 
2、キリストを信じる。
 通りにいて、突然の招きを受けた人々が続々と宴席にやってきました。神は何の区別もつけず、世界中のすべての人を招いておられます。ところがそこに礼服を着ないで座っている者がいました。当時は招いた側が礼服を配っていました。招待された人はただそれを着さえすれば良かったのです。しかし彼は意図的にそれを拒絶したのです。「礼服を着る」とは「キリストを着る」すなわちキリストを信じるということです。「主イエス・キリストを着なさい。ローマ13:14」。今私たちは、キリストを信じるだけで救われる時代に生きています。
 神の招きに応答し、キリストを信じる者が神の御国に入ることが許されます。神は条件を高くして、人間が入れないようにしているのではありません。むしろ、御子イエスを人として地上に送り、十字架で苦しませ、死なせ、葬らせ、人間の重荷を一切取り除いてくださっているのです。あとはただ、この無条件の神の愛を信じて受け取るだけです。神は喜んで、私たちが帰ってくるのを待っていてくださいます。キリストを着て、神のところに帰りましょう。

今週の暗証聖句
バプテスマを受けてキリストをその身に着く者とされたあなた方は皆、キリストをその身に着たのです。
ガラテヤ3:27

その105 私は聖霊を信じる

May 21 [Sat], 2016, 15:21
私は聖霊を信じる 

ヨハネ16:7-15
16:7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。
16:8 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。
16:9 罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。
16:10 また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。
16:11 さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。
16:12 わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。
16:13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
16:14 御霊はわたしの栄光を現します。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。
16:15 父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。

「我は聖霊を信ず」(使徒信条)

1、聖霊は神である。
キリストは十字架に架られる前から、復活の後に至るまで、繰り返し、ご自身が天に帰られた後に、聖霊という神が助け主として来られるという予告を弟子たちにしました。ペンテコステの日は、聖霊が弟子たちの上に降り、世界最初の教会が誕生した記念日です。父なる神、子なる神、キリスト。そしてこの聖霊なる神が、それぞれの位格を持ちながらも、一人の神として存在しておられるというのがキリスト教の中心的教えです。聖霊なる神は、知性を持たれ、感情を持たれる人格的な神様です。この聖霊に喜ばれる教会。聖霊が訪れてくださる教会。聖霊が満ちてくださる教会。聖霊が働いてくださる教会であることが私たちの願いです。
イエス様が約束されたもう1人の助け主を信じて、認めて、求めるべきです。聖霊という神を信じましょう。

2、聖霊は私たちに内住される。
内住とは読んで字のごとく、うちに住んでくださる。生きてくださるということです。私たちがイエス様を信じて、告白した瞬間。イエス様の霊である聖霊が、私たちのうちに住んでくださるのです。
あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。1コリ3:16
聖霊は私たちの中にあっていつも一緒に歩んでくださるのです。私たちが一人ぼっちのように感じる時にも、決して離れず、見捨てることはありません。悪魔は何とかして私たちを騙し、私たちが神から離れ、見捨てられた存在であると思い込ませようとします。しかしどうか忘れないでください。
神の霊は今も私たちのうちにいてくださるのです。

3、聖霊は私たちに力を与える。
神様は私たちが弱い生き物であることをよくご存知です。ですから聖霊なる神は、私たちに力を与えてくださるのです。具体的にどのような力でしょうか。
@ 神を知る力 
A 祈る力
B 証の力

大切なことは、聖霊を求めて祈ることです。

「クリスチャンではあるけれど・・・」喜びが感じられない。自由が感じられない。何よりも私の信仰には力がない。そのような方は特にご一緒に祈りましょう。イエス様が約束してくださった、生ける水の川が心の奥底からあふれ出るような体験を求めようではありませんか。そうするならば、私たちの内側から、喜びが溢れ、感謝が溢れ、自由とされ、そしてどんなに大きな苦しみがやってきたのとしても、力強い信仰生活をおくることができるようになります。聖霊を求めましょう。注ぎを受けましょう。満たしを願って祈りましょう。

今週の暗証聖句
とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。   ルカ11:13

その104 私たちの信じる神は

May 07 [Sat], 2016, 20:57
「私たちの信じる神は」

使徒の働き17:22-34

17:22 そこでパウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。
17:23 私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。
17:24 この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。
17:25 また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。
17:26 神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。
17:27 これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。
17:28 私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である』と言ったとおりです。
17:29 そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。
17:30 神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。
17:31 なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」
17:32 死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは、「このことについては、またいつか聞くことにしよう」と言った。
17:33 こうして、パウロは彼らの中から出て行った。
17:34 しかし、彼につき従って信仰に入った人たちもいた。それは、アレオパゴスの裁判官デオヌシオ、ダマリスという女、その他の人々であった。

 世界には数えきれないほどの「宗教」があります。キリスト教が生まれた当時にもありました。ここではパウロがギリシャのアテネで説教した言葉をもとに、キリスト教の神概念の特徴を考えてみましょう。

私たちの信じる神は…

1、永遠を思う心を与えられた神。
神はまた、人の心に永遠を与えられた。伝道者の書3:11
地球上のあらゆる生物のなかで、永遠という概念を理解し、死後の世界を想像することができるのは人間だけです。何故でしょうか?その答の一つとなるのがこの聖書の言葉です。人間が猿から進化する過程でできるようになったわけではなく、神が人に与えられたから持っているのです。

2、すべてを創られた神。
17:24 この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主です…。
人が神を創ったのでしょうか?それとも神が人を創ったのでしょうか?その答は明らかです。神がすべての先におられ、すべてのものをお創りになられました。神が創ったもの(太陽、月、星、山など)を神とすることはできません。もし人が神を想像し、創ったのであれば、人のために神を利用しようという思いが出てくるでしょう。しかし神のために自分が存在していると気付くと人生の色々な道がまっすぐに見えるようになるのです。

3、いのちの源なる神。
17:25神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。
「神が存在しようが、しまいが自分には関係ない」と考えるのは間違いです。何故なら神は私たちのいのちの源だからです。神の存在、そして神の創造物なくして、私たちは生きることができません。ですから私たちは自然の恵みに感謝すると同時に、自然そのものをお創りになった神に感謝するべきなのです。

4、私たちと関わりを持ちたいと願われる神。
17:27 これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。
神様は私たちから遠く離れているのではなく、私たちに関心を持ち、もともとあった関係を取り戻したいと願っておられます。何故ならそれが人間がこの宇宙に創造された目的だったからです。

5、イエス・キリストを与えられた神。
17:31 なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」
私たちの信じる神は、私たちを救うためにキリストを与えてくださった神です。私たち人間が神に近づくためにはどうしても私たち自身のうちにある罪の解決が必要です。そしてそのためにはキリストの十字架がどうしても必要だったのです。彼の生涯と復活こそが、神が私たち人間を愛しておられる証拠です。扉が閉められた後では遅すぎます。神の招きのある今、信じる者となりましょう。

今週の暗証聖句
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。         1コリント1:18