その98 キリストの復活

March 26 [Sat], 2016, 14:28
キリストの復活 

ヨハネ20:19-23

20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20:20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20:21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
20:22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」

よみがえられたイエス様が日曜日の夕方に弟子たちの前に姿をあらわす最初のシーンです。ここでイエス様はとても大切な幾つかの言葉を弟子たちに語りかけられました。
この言葉からキリストの復活が彼ら弟子たちにとって、そして今を生きる私たちにとってどのような意味があるのか、ご一緒に見ていきましょう。

キリストの復活は...

1、平安(安心)を与えるためであった。
19節 「平安があなたがたにあるように。」
21節  「平安があなたがたにあるように。」
これが弟子たちに対するイエス様の第一声であり、しかも2回繰り返されています。とても重要なことだったのだと分かりますし、しかもこの平安には色々な意味が含まれているようです。
今日はそのうち3つを見てみましょう。

キリストの復活によって与えられる平安は
@ 過去の過ちを取り消してくれる
弟子たちはホッとしたに違いありません。彼らは皆イエス様を見捨てて逃げ出してしまったのです。しかしイエス様はそのことを怒られず、かえって安心しろと言ってくださいました。
私たちも同様の罪人であったにもかかわらず、イエス様は私たちの人生に訪れてくださって、「安心しろ」と言ってくださっています。過去の過ち、失敗、罪、恥、汚れはすべてイエス様が十字架の上で流された血潮によって洗い流されました。

A 今を生きる恐れを取り除いてくれる。
19節 弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあった
弟子たちは恐れていました。自分たちの先生が死刑になりました。自分たちも反逆者の仲間として捕まるかもしれません。
そんな弟子たちのところに、イエス様は来てくださり「安心しろ」と言われました。
私たちにも、様々な恐れがあります。しかし復活した主が、一緒にいてくださることを知るときに、恐れは吹き飛びます。

B   未来の恐れを消してくれる
20節 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
イエス様は手とわき腹の釘とやりのあとを見せることによって、ご自分が死んだ者であることを示されました。この瞬間、弟子たちは彼らもイエスを信じて、イエスとともに生きるのであれば、同じ復活の命をいただけることを確信したのです。
人はその生涯でどんなに素晴らしいものを手に入れたとしても、それを死後の世界に持っていくことはできません。どんなに長生きしても100年生きられる人はまれです。
復活したイエス様を信じるのならば、私たちも永遠の命が約束されるのです。

2、使命を与えるためであった。
21節 「平安があるように。 父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わします。」
よみがえられたイエス様は弟子たちに生きる使命を与えられました。私たちも同じように、遣わされています。
使命をまっとうするために、聖霊のみたしを求めていきましょう。

今週の暗証聖句
イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。
わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。  ヨハネ11:25

その97 選び取る

March 19 [Sat], 2016, 15:17
選び取る 
ルカ23:13-24

23:13 ピラトは祭司長たちと指導者たちと民衆とを呼び集め、
23:14 こう言った。「あなたがたは、この人を、民衆を惑わす者として、私のところに連れて来たけれども、私があなたがたの前で取り調べたところ、あなたがたが訴えているような罪は別に何も見つかりません。
23:15 ヘロデとても同じです。彼は私たちにこの人を送り返しました。見なさい。この人は、死罪に当たることは、何一つしていません。
23:16 だから私は、懲らしめたうえで、釈放します。」
23:18 しかし彼らは、声をそろえて叫んだ。「この人を除け。バラバを釈放しろ。」
23:19 バラバとは、都に起こった暴動と人殺しのかどで、牢に入っていた者である。
23:20 ピラトは、イエスを釈放しようと思って、彼らに、もう一度呼びかけた。
23:21 しかし、彼らは叫び続けて、「十字架だ。十字架につけろ」と言った。
23:22 しかしピラトは三度目に彼らにこう言った。「あの人がどんな悪いことをしたというのか。あの人には、死に当たる罪は、何も見つかりません。だから私は、懲らしめたうえで、釈放します。」
23:23 ところが、彼らはあくまで主張し続け、十字架につけるよう大声で要求した。そしてついにその声が勝った。
23:24 ピラトは、彼らの要求どおりにすることを宣告した。

「使徒信条」には3人の名前が記されていますが、そのうちの一人はユダヤの総督としてローマ帝国に任命されていたポンテオ・ピラトです。言うまでもなく、イエス・キリストが十字架で処刑されることに際して、最終的な権限を持っていた人です。彼の名がこの信仰告白に記されている訳、そして彼の姿が私たちに教えていることは何でしょうか?

1、キリストの十字架は歴史的な事実。
 「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け・・・」 使徒信条
ローマの歴史にも明確に記録されているピラトの存在はキリスト・イエスの十字架が歴史的な事実であることを証明しています。イエス・キリストが十字架で死なれたという事実は、誰も疑うことのできない歴史的事実として証明されているのです。このことは、全地を創り、支配しておられる神が、人間を救うために、歴史に介入してくださったことを表しています。この朝私たちは、この歴史の中にご自身を表され、私たちに救いの道を切り開いてくださった主を褒め称えましょう。

2、人間の自己保身の姿 = 罪    
ピラトはイエス様が十字架に架けられなければならないような理由を全く見出せませんでした。にも関わらず、彼は最終的にイエス様を十字架刑に処することを許可せざるを得なかったのです。何故でしょうか。それは自己保身、恐れに負けて、自分を守ろうとしたからです。自分の立場、評判、印象、そんなものを守ろうとして、大切な判断ができない、決断できない、そんな落し穴が人生にはあるのだと聖書は警告しています。そして「仕方なかったのだ。他の人が悪いのだ」と自分は間違っていないと正当化しようとします。それが人間の罪です。そのためにキリストが身代わりとなって十字架に架ってくださったことを覚え、感謝しましょう。

3、信仰(イエス・キリスト)を選び取る
人間は皆、ピラトになる可能性を持っています。いや、ピラトを心に抱えているのです。周りの目を恐れて、自分を守ろうとする。自分さえ良ければいいと思う。そして弱い自分を誤魔化して、自分を正当化して強がって生きようとする。そんなずるい、汚い本質を、どんな人も持っているのです。そしてそのような自分に、「お前はどっちをとるのだ。良いものを選び取れ」と十字架は語りかけ、選択を迫っています。
キリストが血を流すほどにあなたを愛された、その愛が満ちている十字架こそが、あなたに本当の命と勝利を約束するものです。
ピラトにはそれが分からなかった。いや分かっていたのだけれども、結局は人を恐れて、真理よりも自分を愛して、大切な判断を誤ってしまいました。それは人間の本質的な弱さなのかもしれません。しかしその弱さを認めて、「神様。ごめんなさい」という時に、人間は本当の意味で、自由になることができるのです。
自分のなかに、ピラトの姿を見、そしてなお、私たちには妥協できないものがあること、永遠の命という何にも変えがたい、守るべきものがあることを覚えましょう。

今週の暗証聖句
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。1コリ1:18

その96 アウトがセーフ

March 12 [Sat], 2016, 11:15
「アウトがセーフ」
ルカの福音書14:7−11

14:7 招かれた人々が上座を選んでいる様子に気づいておられたイエスは、彼らにたとえを話された。
14:8 「婚礼の披露宴に招かれたときには、上座にすわってはいけません。あなたより身分の高い人が、招かれているかもしれないし、
14:9 あなたやその人を招いた人が来て、『この人に席を譲ってください』とあなたに言うなら、そのときあなたは恥をかいて、末席に着かなければならないでしょう。
14:10 招かれるようなことがあって、行ったなら、末席に着きなさい。そうしたら、あなたを招いた人が来て、『どうぞもっと上席にお進みください』と言うでしょう。そのときは、満座の中で面目を施すことになります。
14:11 なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

 イエスは宴席で上座に座りたがる人たちを見て、招かれたら末席に座るようにと教えられます。招いた主人に上座から下座に移動するよう言われ、恥ずかしい思いをするかもしれないからです。また最初から下座に座れば、皆の前で上座に移動するように頼まれ皆の前で面目を施すことになるかもしれません。
 このたとえは、単なる倫理・道徳の話ではないし、いわゆる処世術でもありません。人間の生きざま、そして究極的には救われる道が教えられているのです。

 イエスが教える真の謙遜を学びましょう。

1、自分を他人とを比べない。
 救われる道とは大きく二つに分けられます。一つはこの地上での生活において本当の意味で自由になれること。もう一つはあの世、天国に行けることです。まずこの世で自由になるためには、自分と人を比べることをやめなければなりません。宴会で上座を好むとは、人と自分を比べて自分を上に置いて誇る態度です。私たちは実際に行動に表さなくても、心のなかで同じことをして、人と自分を比べて優越感を持ったり、あるいは逆に劣等感を持ったりすることもあるでしょう。私たち一人ひとりをユニークに創られた神様は、その両方ともお嫌いになります。何故ならそれは神様の主権にも反抗する傲慢な態度だからです。そして同時に、人間が自分自身をも縛り付ける、苦しみの道だからです。このような生き方を方向転換しなければ、人はこの地上での平安を見いだせず、神様にも受け入れられません。
 
2、神に評価をお任せする。
招いた客を上座に座らせたり、下座に座らせたりする主人とは誰を指しているでしょうか。そうです。神様です。神様だけが人を正当に評価してくださいます。私たち人間は人との比較だけで自分を評価し、少しでも自分を大きく見せ、高いところに立とうとします。また人の目を恐れてしまい、不自由に生きる人もいます。しかしそれは自分を苦しめることにしかなりません。
すべてをご存知の神様に委ねましょう。私たちが真に恐れなければならないのは神様の目です。

3、謙遜が鍵。
 自分で自分は大丈夫だと思ったらアウト。自分には資格がないと思ったらセーフになるというのがキリスト教信仰です。鍵となるのは神様の前における謙り、謙遜です。「自分は小さな者だ。神様の前に立つのにふさわしくない者だ」と思って、末席に座っているような人が神様から声をかけられ前に出るように言われるのです。
真の謙遜を示してくださったのがイエスです。彼は御子であるのに、その位を捨てて、人となってくださいました。そして十字架の道まで歩まれたのです。このキリストの示された道をどこまでも歩むのがキリスト者の道です。
 心のなかの小さな比べ合いをやめ、自由になりましょう。そして神様の大きな愛と恵みを受け取っていきましょう。

今週の暗証聖句
何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。 
 ピリピ2:3