その71 幸いの鍵

June 27 [Sat], 2015, 21:52
幸いの鍵 

使徒20:35
このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」

パウロは自分の最後の言葉として、エペソの弟子たちに『受けるよりも与えるほうが幸いである』というイエスの言葉を覚えておくように言い残しました。世の中では、人より多く持ったものが幸せ。人よりもたくさん手に入れたものが勝ちで、幸福。そのような価値観で生きている人が多いでしょう。得か損かをいつも考え。手に入れたら得。失ったら損と思うのが一般の感覚ではないでしょうか。ところがイエス様は、そのような価値観と全く正反対のことを言われたわけです。手に入れることよりも、与えるほうが実は幸せなのだと教えられたわけです。どうして与えるのでしょうか。

1、イエス様がさきに与えてくださったから。
イエス様はまずご自分が与える生き方を示してくださいました。それも究極的に、ご自分の命を与えてくださったのです。
人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。ヨハネ15:13
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。ヨハネ3:16
十字架は、究極的な与えることのシンボルです。私たちが幸いになるためのシンボルです。この十字架を抜きにして、私たちは与える生き方をすることはできません。与える人になるためには、常にこの十字架を見上げていかなければなりません。十字架を見上げ、感謝を捧げましょう。

2、自分の幸福と周りの幸福はつながっているから
多くの人の勘違い、そして不幸の原因は、自分が幸福になれば、他の人が不幸になり、自分が不幸になることは、他の人が幸福になることだと思い込んでいることです。そうではありません。自分の幸福と周りの幸福は密接につながっているのです。
それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。マタイ7:12
周りの人を幸福にすることは、自分を幸福にすることです。与えることは不幸への道ではなく、幸福への道です。私たちは発想を変えて、周りに与え、幸せにすることによって、幸せへの道を歩みましょう。

3、神様からの祝福を受けることになるから
これは目に見えない霊的な世界の鍵です。私たちが人を愛し、人に分け与え、人を祝福するようにすると、神様がちゃんと見ておられ、それに豊かな報いを与えてくださいます。大きな祝福となってかえってきます。だから、与えなさい。受けるよりも、与えるほうが幸いなんですよと、イエス様は教えられたのです。そしてパウロも最後の遺言として、弟子たちにこの命令を託したのです。
神に捧げ、人に与えることによって、永遠に尽きることのない祝福を受け取りましょう。

今週の暗証聖句
与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。
ルカ6:38

その70 何故私は進化論を信じないのか

June 21 [Sun], 2015, 16:22
これで納得!!!救いの一本道シリーズ 特別篇 
「何故私は進化論を信じないのか」 

創世記1章1節
初めに、神が天と地を創造した。

多くの人が常識(だろう)と考えている「進化論」は創造主なる神を信じる信仰心と真っ向から対立するように思われているかもしれません。「この科学万能の時代に目に見えない神を信じるなんてばかばかしい」と。科学者でもなく、専門知識が豊富なわけでもない一人の信仰者の視点から、何故進化論をそのまま受け入れることができず、創造主を信じることを選ぶのかを考えてみましょう。

1、 進化論も仮説である。
多くの人が「当たり前、疑う余地もない」と思っている進化論ですが、厳密に言うとまだ論争の余地のある仮説のようです。以前日本テレビの「News Zero」の火曜キャスターをされていた竹内薫さんが「99.9%は仮説」という本のなかで、アメリカでも「進化論だけを学校で教えるべきか、対立する説(創造論)もあると教えるべきか」論争があると書いておられます。ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英さんとノーベル生理学・医学賞を受賞した山中伸弥さんの対談(「大発見」の思考法)のなかでも「なぜか日本人は、人間はみんな猿から進化したと信じていますが、証明はされていない」とおっしゃられています。

2、 進化論は生命の起源は説明してない。
進化論では下等生物から人間に至る過程は説明しているかもしれませんが、最初の生命そのものがどこから、どのように地球上に存在するようになったかについては説明していません。これについては自然発生説、化学進化説などそれこそ山のように仮説がありますが、何一つ確定されていません。もともとの始まりが分からないのに進化論だけを信じて創造主としての神の存在を否定することができるのでしょうか。

3、創造主は生命の価値を教えてくれる。
創造主なる神を信じるということは結局のところ生命の価値をどのように捉えるかということとつながるのではないでしょうか。偶然によって生まれ、淘汰のなかで生き残ったものだけが生きる価値を持つのではなく、神が命を与え、生かしてくださると分かったときに、人は本当の意味で自分を受け入れ、愛し、他者の命をも大切なものとして考えることができるのではないでしょうか。聖書は明確に神が私たちを愛し、命を与えてくださったと教えています。

4、創造主は人生の価値を教えてくれる。
そして人は神からのかけがえのない命を与っていると分かったときに、初めてこの人生に意味があることを理解することができます。神を信じていても、良いことだけはなく、辛いこと、悲しいこと、苦しいこともあるでしょう。しかし神を信じて生きるときに、すべてのことに意味があり、すべてを越えて、導いてくださる神を知ることができるのです。
創造主である神を信じることは決して無謀なことでも、危険なことでもありません。一度しかない人生をうるおいのある、価値あるものとすること(それに気づくこと)です。
あなたも心の目線を変えて、あなたを愛している神を見上げてみませんか。

今週の暗証聖句
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。イザヤ43:4

その69 変化を恐れない

June 06 [Sat], 2015, 18:07
「変化を恐れない」イエスのたとえQ 
マタイの福音書9:14-17

9:14 するとまた、ヨハネの弟子たちが、イエスのところに来てこう言った。「私たちとパリサイ人は断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」
9:15 イエスは彼らに言われた。「花婿につき添う友だちは、花婿がいっしょにいる間は、どうして悲しんだりできましょう。しかし、花婿が取り去られる時が来ます。そのときには断食します。
9:16 だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんな継ぎ切れは着物を引き破って、破れがもっとひどくなるからです。
9:17 また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」

「真新しい布で古い着物の継ぎをする」「新しいぶどう酒を古い革袋に入れる」という二つのたとえが語られますが、ここでイエスが教えていることは、「古いものと新しいものは共存できない」ということです。キリストがこの世界にもたらされたものは何でしょうか。そしてそれを受け取るために、私たちは何をしなければならないのでしょうか。

1、人は思い込みに縛られる。
 「なぜ、先生のお弟子さんたちは、私たちやパリサイ人のようには断食しないのですか。」イエスとその弟子たちの姿が、当時の宗教的慣習とあまりにもかけ離れていたために、彼らは率直にイエスに尋ねたのでしょう。イエスは神の御子であるご自身の到来は、もはや今までの古い思い込みや生き方では受け止められないと教えます。宗教家たちは目の前に神を見ながら、自分たちが「こうあるべきだ」と思い込んでいるものに縛られていたために、本当の喜びを得ることができなかったのです。
 人は知らず知らずのうちに「こうでなくてはならない」「こうあるべきだ」という固定概念に縛られています。自分だけでなく他人も同じようであるべきだと思い、それがさらに自分を縛り付けます。新しい人生が用意されていても、その古い思い込みによって受け取れないということがあるのです。

2、キリストは私たちにいのちを与える。
 キリストは死んだ行いの概念や宗教的しきたりを新しくするために来られたのではありません。私たち人間が創造主である神と向き合い、受け入れられるための新しいいのちを与えるために来られたのです。このいのちをいただくときに、人は古い自分と離れ、新しい人生を生きるようになります。そうすると今まで大事だと思っていたものが大事だと感じなくなり、失いたくないと思っていたものが、無駄なものであったことに気付くことがあります。
 キリストとの出会いは今も私たちに本当のいのちを与えます。

3、キリストのいのちを保つために、私たちは変えられ続けなければならない。
 イエスは「新しいぶどう酒を貯蔵するには、新しい皮袋を使います。 そうすれば両方とも、もつのです。」と言われました。古い思考パターンや古い生き方のままで、キリストのいのちを保ち続けることはできません。キリストのいのちを持ち続けたいと願う者は、自分が「変わること」、いや「変えられる」ことを恐れず、むしろ日々「変えられ続ける」ことを求めていきます。キリスト信仰とは宗教的概念を学ぶことではなく、神との関係を築いてゆくことだからです。
 私たちは聖書を読むこと、祈ること、そして聖霊に満たされることを通して、生活の隅々まで働かれる神の御業を認め、御心を知ることができるようになります。日々キリストの喜びを抱きつつ、本当のいのちによって歩んでいきましょう。

今週の暗証聖句
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
2コリント5:17