その177 人生のパラダイムシフトB 

September 16 [Sun], 2018, 10:27
「人生のパラダイムシフトB」

士師記6:11-16
6:11 さて【主】の使いが来て、アビエゼル人ヨアシュに属するオフラにある樫の木の下にすわった。このとき、ヨアシュの子ギデオンはミデヤン人からのがれて、酒ぶねの中で小麦を打っていた。
6:12 【主】の使いが彼に現れて言った。「勇士よ。【主】があなたといっしょにおられる。」
6:13 ギデオンはその御使いに言った。「ああ、主よ。もし【主】が私たちといっしょにおられるなら、なぜこれらのことがみな、私たちに起こったのでしょうか。私たちの先祖たちが、『【主】は私たちをエジプトから上らせたではないか』と言って、私たちに話したあの驚くべきみわざはみな、どこにありますか。今、【主】は私たちを捨てて、ミデヤン人の手に渡されました。」
6:14 すると、【主】は彼に向かって仰せられた。「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」
6:15 ギデオンは言った。「ああ、主よ。私にどのようにしてイスラエルを救うことができましょう。ご存じのように、私の分団はマナセのうちで最も弱く、私は父の家で一番若いのです。」
6:16 【主】はギデオンに仰せられた。「わたしはあなたといっしょにいる。だからあなたはひとりを打ち殺すようにミデヤン人を打ち殺そう。」

私たちが変えるべき三つ目のパラダイムは「自分は持っていない」です。多くの人が「お金があれば…、家があれば…でも私は持っていない…」と言う考えに捉われています。もう一つは「私は強くなければならない」です。聖書は明らかにこの間違ったレンズを取り外しなさいと命令しているのです。

1、神様の視点で自分をみる。
聖書が私たちに教えていることは、神様は私たちと違う視点で、私たちを見ておられるということです。ギデオンは「自分には人々が一目置くような血統がない。人の上に立てるような経験もないし、年齢でもない。自分は何も持っていない」と主張しました。しかし神様は敵を恐れて、穴の中にいるようなちっぽけな若者、ギデオンを「勇士」と呼ばれたのです。
私たちが自分の目で自分を見る姿と、神様が私たちを見る目は全く違うのです。私たちは自分を見ていつも「自分はあれを持っていない。これを持っていない。あれがあれば、これがあれば。」そのような思いに駆られる存在です。しかし神様は私たちを全く違ったように見ておられ、私たちに近づき、「あなたは勇士だ」と宣言することのできるお方なのです。神様に豊かに用いられるクリスチャン生活を送るために、まず自分自身に注目し過ぎることをやめて、ありのままを愛してくださる神様に目を向けましょう。自分は持っていない、という欠乏感ではなくて、自分は主にあって豊かにされていることを覚えましょう。

2、神様は人間の弱さに働かれる。
ギデオンが「一体この現状は何でしょうか。どうしてこんなことになっているのですか。私たちはあなたに捨てられてミデヤン人の手に渡されています」と言ったその言葉に対して、天使は「今あなたが言ったその力で、行きなさい」と言われました。
 私たち人間は強さを求めます。人から弱いやつと思われるよりも、強いと認められたいという意識が働きます。しかし一方で、人は皆弱さを持っています。大切なことは、私たちがこの弱さをどのように捉えるかということです。見かけだけ取り繕って、強がる人を神様は助けることをなさいません。むしろ自分の弱さを認め、「自分にはできない、でも神様にはできる」と信じる人に、偉大な力を与えられるのです。
神様は人間の弱さを強さに変えてくださるのです。ギデオンの弱さはその低いセルフイメージと自信のなさにありましたが、主は彼を勇士と呼び、そして文字通り勇士へと変えてくださいました。
今自分の弱さを嘆いておられる方はその弱さが、強さに変えられるのです。自分の力に頼らずに、神の力に100%頼る人こそ真の勇士です。自分の強さを誇る、自分の力に頼る、という世の中のパラダイムから解放されて、自分の弱さを誇り、神の力に頼るというパラダイムを持ちましょう。私たちが「足りない、足りない」「自分は弱い、弱い」と嘆くことをやめて、偉大な主に信頼して一歩を踏み出す時に、私たちの周りの世界が変わっていくことを信じましょう。自分が聖霊によって変えられていくならば、自分の周りにも変化が起ることを期待しましょう。

今週の暗証聖句
私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。 ピリピ4:19

その176 人生のパラダイムシフトA 

September 02 [Sun], 2018, 10:30
「人生のパラダイムシフトA」

ルカ10:38-42
10:38 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
10:39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
10:40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
10:41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

私たちが変えるべき二つ目のパラダイムは「他の人が自分の期待したとおりに動いてくれない」という考え方です。この問題は私たちの生活の中で、至るところに現れるものではないかと思います。「子供が思ったように育ってくれない」「夫が思ったとおりに自分にしてくれない」など、私たちの苦しみの原因となることが多いのではないでしょうか。

1、問題は自分の心にある。
イエス様はここで、マルタに劇的なパラダイムシフトを迫ります。「あなたが問題と思っていることはマリヤの問題ではありません。これはあなた自身の問題です。あなたの心が今多くのことに奪われて、思い煩っているのです。」「他の人が期待したとおりに動いてくれない」という問題を「自分の心の問題」へと見方を変えるように言われたのです。このストーリーは決して一生懸命接待をしていたマルタは良くない、あるいは劣った人で、一生懸命イエス様の話を聞いていたマリヤは良い、あるいは優れている人と教えているのではありません。イエス様が問題にされたのは「あなたの心は今どこにあるのか」ということです。マルタも自分の責任を果たそうと一生懸命に頑張っていた。でも不安や心配、怒り、憤りに心を占められると、せっかくのがんばりが報われないことになりやすいものです。そんな気持ちになったら、とにかく私のもとに来なさい、私の言うことを聞きなさい、それを何よりも一番にしなさい、といわれたのでした。

2、緊急のことより重要なこと。
私たちの行動を強く促すものは大きく分けて2種類に分けられます。緊急のことか、重要なことか。勿論緊急で重要なことをするのが1番良いのでしょうが、残念ながら私たち現代人は重要なことではなくて、緊急のことに追いまくられて生きているというのが実情ではないでしょうか。もっと悪いことは、自分の人生にとって重要なことは何かさえ分からないことです。
あなたを今動かしているのは緊急のことでしょうか。重要なことでしょうか。あなたの心を支配しているのはマルタのような緊急事項でしょうか、それともマリヤのように重要事項でしょうか。私たちクリスチャンの特権は人生の重要なことに焦点を当てた生き方ができるということです。イエス様が心の中心におられるなら、私たちは何があっても動じることはありません。

3、他の人のために。
イエス様がその後マルタに教えられたことは、「人が何を必要としているのか考えてみなさい」ということでした。「マリヤは良いほうを選んだ。それを取り上げてはいけません。」イエス様の教えは「この人が何もしてくれない。」という心から「この人に何が必要なのだろうか」という発想にチェンジしてみなさい、ということです。相手を自分の思ったとおりに動かそうと思っているうちは、間違ったシグナルが出て、物事は良い方向には進みません。でもこの人に必要なものは何だろうというレンズで物事を見るようになった時に、正しい、相手を生かすシグナルが出るようになり、物事が変わり始めるのです。

今週の暗証聖句
私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。           ロマ15:2

その175 人生のパラダイムシフト 

August 26 [Sun], 2018, 17:49
「人生のパラダイムシフト」

ヨハネの福音書3:1-15
3:1 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。
3:2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」
3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
3:4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」
3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。
3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
3:8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」
3:9 ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」
3:10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。
3:11 まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。
3:12 あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。
3:13 だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。
3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

 多くの人が幸せになることを願い、「仕事がうまくいけば」、「希望する学校に入れたら」、「結婚したら」、「お金がたくさん儲かったら」幸せになれる、と思い込んでいます。確かにそういうことが実現したら、一時的には幸福感を感じるかもしれませんが、それがずっと続くということはありません。また以前のように不満を感じ、不安を感じ、「もっと何か別のものを手に入れなければならない」と思い込んでしまいます。私たちは同じものを見ていても、違うものに見えるような、物の見方、考え方を変えない限り、本当の意味での幸福感を味わうことはできないのです。

1、人は生まれ変わることができる。
キリストがニコデモに教えたのは、「人は生まれ変わることができる」という新しいパラダイム(人生観・価値観)でした。聖書はすべての人間の苦しみの原因は造り主である神様から離れている、人間の罪であると教えています。本来は神様のもとで、神様とともに生きるために創造された人間が、神様から離れ、自分勝手に生きている。これが罪です。神様から離れると要するに神様のことが分からなくなり、かたくなな心で傲慢になって、何が本当に大切なのか見えなくなります。このニコデモのように地上の人生観、価値観でしか物事を見ることができなくなってしまうのです。
しかしイエス様はそのような人間の限界、苦しみを打ち破るためにこの世界に来てくださいました。人間がもう一度新しく生まれ変わることができるためです。罪を持ったアダムとエバの子孫は罪の世界に生まれて、罪の中で死ななければならなかったのですが、イエス様は人間がもう一度生まれ変わって、神様の世界に入ることができるようにしてくださったのです。「人間はどうせ年をとって死んでいくんだ」という人生観から、「人間は生まれ変わることができる」という人生観、視点に変わった時に、私たち人間は見るものすべてが変わります。

2、キリストを信じることによって。
ではイエス様はどのようにして私たち人間を生まれ変わらせてくださるのでしょうか。14節にそのヒントが書かれています。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子(つまり私、イエス)も上げられなければなりません。」この意味は「罪の罰を受けて、苦しんで死ぬ以外にない人々がそれを仰ぎ見て助かるように、私も十字架に上げられるのだ」という預言です。死ぬことは人生の終わりなのではなく、永遠のスタートなのです。神様はイエス・キリストをこの世に送ることによって、あの十字架を仰ぎ見る人々が永遠の命を持つことができるようにしてくださったのです。同じ人生でも、自分に起る様々な出来事を永遠のいのちがあるという視点で見るのか、それとも人間は死んだら終わりだという視点で見るのか、見え方が大きく違ってくることでしょう。あなたは今永遠のために何を準備しているのでしょうか。
私たちが生まれ変わるために神様が何をしてくださったのか思い出しましょう。まだイエス様を信じていない方は、イエス・キリストを信じるならば、新しく生まれ変わることができることをどうか知ってください。

今週の暗証聖句
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。ヨハネ3:16

その174 羊飼いなる主 

August 19 [Sun], 2018, 13:10
「羊飼いなる主」

詩篇23:1-6
23:1 【主】は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
23:4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
23:5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
23:6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、【主】の家に住まいましょう。

1、信仰によって神と絆を持つ。
この詩の冒頭でダビデは「主は私の羊飼い」と告白しています。ダビデが神をどのように見ていたのか、神とどのような関係を持っていたのかが分かる一言です。ダビデは羊飼いの役割や羊の性質をよく知っていました。その上で彼は自分と神の関係は、羊と羊飼いであると告白したのです。
私たちは神をどのようにイメージし、どのような関係を持っているのかを考えさせられます。あなたは今、神とどのような関係を持っているでしょうか。「神は私の羊飼いなのだ」という信頼を持ち続けているかを考えましょう。
どうしたら私たちは「神の羊」となることができるのでしょうか。「信仰」によってのみです。キリストの十字架と復活を信じる信仰によって、「主は私の羊飼い」という関係を持つことができるのです。
 今自らを振り返ってみましょう。主はあなたの羊飼いでしょうか。

2、信仰によって神に信頼を置く。
ダビデはその後「私は、乏しいことがありません」と告白しています。その後を見ると4節の「死の陰の谷を歩くことがあっても」とか5節の「私の敵の前で」という言葉が出てきます。つまり全てが順調ではなく、苦しい時、危ない時、上手く行かないときもあるということですね。それでも「私は神を信頼しているのだ」と言っているわけです。また6節を読めば明らかなように、この告白は決して現状だけを見て言っているのではありません。「まことに、 私のいのちの日の限り、 いつくしみと恵みとが、 私を追って来るでしょう。 私は、 いつまでも、 【主】の家に住まいましょう」と、まだ目で見ていない未来をも含めて、神への完全な信頼を告白しているのです。
イエス・キリストは「羊のためにいのちを捨てる」と言われました。命がけで私たちを護り、私たちを助けてくださる神なのです。
「救われる。クリスチャンになる」ということは「生きてても大丈夫。死んでも大丈夫になる」ということです。信仰によって神との個人的絆を持つ者は神に完全に信頼を置くことができます。毎日「あなたを信頼していますから私は大丈夫です」と告白できる生活をしていきましょう。

3、信仰によって神に導かれる。
羊が羊飼いを喜ばせるために出来ることは何もありません。完全に依存して生きるしかありません。唯一できることは羊飼いの導きに従うことだけです。たとえ目の前に苦しみや困難が見えたとしても、神を信頼して導きに従うのです。私たちは祈りと御言葉と聖霊充満によって、私たちは神の声を聞き取り、従う力も与えられます。
配慮と護りと祝福を持って導いてくださる神を信頼していきましょう。
私たちは、いつも主から声を掛けられ、どこに向かって歩いたらよいか、その導きを与えられ、永遠の命という約束を持ち、御手の中でしっかりと守られ、あなたは私が命をかけるほどに、高価な価値のある存在なのだと言っていただける存在です。このクリスチャンの素晴らしい恵みと特権があることを思い出し、今週も新しい心で、主に近づいていきましょう。

今週の暗証聖句
わたしは、 良い牧者です。 良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。 ヨハネ10:11

その173 約束を守る神 モーセC 

July 22 [Sun], 2018, 10:30
約束を守る神 モーセの生涯C
 
出エジプト6:1-8


6:1 それで【主】はモーセに仰せられた。「わたしがパロにしようとしていることは、今にあなたにわかる。すなわち強い手で、彼は彼らを出て行かせる。強い手で、彼はその国から彼らを追い出してしまう。」
6:2 神はモーセに告げて仰せられた。「わたしは【主】である。
6:3 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現れたが、【主】という名では、わたしを彼らに知らせなかった。
6:4 またわたしは、カナンの地、すなわち彼らがとどまった在住の地を彼らに与えるという契約を彼らに立てた。
6:5 今わたしは、エジプトが奴隷としているイスラエル人の嘆きを聞いて、わたしの契約を思い起こした。
6:6 それゆえ、イスラエル人に言え。わたしは【主】である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出し、労役から救い出す。伸ばした腕と大いなるさばきとによってあなたがたを贖う。
6:7 わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、【主】であり、あなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出す者であることを知るようになる。
6:8 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地に、あなたがたを連れて行き、それをあなたがたの所有として与える。わたしは【主】である。」    

 神様からの召しを受けたモーセは神様の言われたとおり、兄のアロンとともに、エジプトの王の前に出ます。しかし結果は散々でした。王からはきっぱりと拒絶され、そればかりか、イスラエルの民たちの労働は、かえって過酷なものとなってしまいました。「お前のせいでこんなに苦しくなった」と、仲間からも恨まれる始末です。そのようななかでモーセは5章の最後で「どうしてこうなってしまったのですか」と神様に訴えます。その祈りに対する神様の答がこの6章の冒頭の言葉です。

1、答えてくださる神さま。
1節 わたしがパロにしようとしていることは、今にあなたにわかる。すなわち強い手で、彼は彼らを出て行かせる。強い手で、彼はその国から彼らを追い出してしまう。

ここで特に「今にあなたにわかる」という言葉に注目しましょう。実際私たちの人生には分からないこと、理解できないことが多々起こります。「どうしてあんなことになってしまったのだろうか。」「どうしてこんなことが起こってしまったのだろうか。」考えてもすぐには分からないことが、私たちの信仰生活には起こるのです。「今は分からない、でも後で分かるようになる。」このことを信じて受け入れるかどうかが、私たちの信仰生活の分かれ道になるのです。モーセもきっと納得がいかなかったに違いありません。「あなたに言われたとおりにやったのに状況はもっと悪くなりました。主よ、どうしてですか」と。彼の心は失望と不安と疑問だらけだったでしょう。しかし神様はそれに対して「今にあなたに分かる」と答えられたのです。必ずあの頑ななエジプトの王、パロは自分からイスラエルの人々に出て行ってくれと言うときが来ると宣言されたのです。私たちもこの神様を信じて、今たとえ、理解できない苦しみ、試練に遭っていたとしても、神様が今に分からせてくださる。「あああの苦しみにはこういう意味があったのだ。あああの挫折は、このような祝福のためにあったのだ。やはり神様はすべてをご存知で、最善をなしてくださる神さまだった」と後で、分かって納得できる日が来るでしょう。このことを信じて従っていきましょう。

2、約束を守ってくださる神。
6:5 今わたしは、エジプトが奴隷としているイスラエル人の嘆きを聞いて、わたしの契約を思い起こした。
6:8 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地に、あなたがたを連れて行き、それをあなたがたの所有として与える。わたしは【主】である。」

 神様は400年以上も前に交わしたアブラハム、イサク、ヤコブとの約束のことをここに表され、彼らと約束した地に、あなたがたを連れて行くのだと宣言されたのです。アブラハムと約束したのは、もう何百年も昔の話です。何世代も前の話であり、人間の感覚としては無かったことにしてもよいような話だったかもしれません。しかし神様はその約束を覚えておられ、必ずそれを果たすと宣言されたのです。私たち人間は簡単に約束を反故にします。しかし神様は約束を変えることはなさらないし、状況がどうであっても、約束を実現される神様なのです。
この聖書を通して、神様は「世の終わりまで一緒にいる」「罪を赦す」「天国に迎える」「すべてを満たす」など、実に多くのことを私たちクリスチャンに約束してくださっています。そして神様のほうからはその約束を無効にしないと言ってくださっています。私たちのほうがその約束を捨てたり、裏切ったりすることはあっても、神様は約束を守られる神です。そのことを今朝も思い出して、神様の約束を捨てるようなことはしないという誓いを新たにしようではありませんか。

今週の暗証聖句
私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。2テモ2:13

その172 私は信じるF 

July 15 [Sun], 2018, 15:04
私は信じるF 使徒信条シリーズ

ローマ3:22-24
3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

「我は・・・罪の赦し、体のよみがえり、とこしえの命を信ず。 アーメン」

1、私たちの罪は赦された。
ここに罪という言葉が初めてこの信仰告白に出てくるのですが、この罪の問題を抜きにして、キリスト教信仰はありえません。自分のなかにある罪を認めない者は、神を認めないことと同じです。自分が罪人であることを認めない人は、救いが必要であることを知りません。逆に言えば、自分がどうしようもない罪人であるということを知っている人が、神を求め、救いを受取ることができるのです。これが神様が用意してくださっている救いの条件です。
ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。ロマ3:24
自分には何の価値もないのに、自分はあれもした、これもできたという資格さえないのに、すべてを知っておられる神様から、お前は義しいと言ってもらえる方法があるのです。神様がその方法を私たちのために用意してくださったのです。それが御子イエス・キリストを十字架につけるということでした。
この朝も感謝しましょう。罪赦された者として、感謝の歩みをしていきましょう。

2、私たちの体がよみがえる。
ある方は、私たちは死んだら、ずっと霊だけになって、何か意識はあるけど、肉体は持っていない、そんな存在になると思っていますが、聖書が教えているのは、そうではなく、イエス様が再臨されるときに、信じて召された者たちは皆、肉体が与えられる。体をもってよみがえるということであります。これはとても重要で、何故重要かというと、イエス様がよみがえられたときにどうだったかと言う極めて重要な信仰も含まれているからです。イエス様は十字架につけられて三日目に霊だけがよみがえったのでしょうか。弟子たちが見たのは霊の姿だったのでしょうか。いいえ。肉体を持ってです。
イエス様と同じように、私たちも体がよみがえります。素晴らしい望みです。この望みをいただいて、信仰の道を走り抜きましょう。

3、私たちは永遠のいのちを持つ。
幾多の英雄たちが、捜し求めて止むことのなかった永遠のいのち。それを私たちクリスチャンが受取っているのです。

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
ローマ6:23

永遠のいのち。天国。私たちにはこの望みがあります。どんなに長生きしても、死んだらその先どうなって、どこに行くのか知らないならば、楽しみも半減するのではないでしょうか。半減どころではないかもしれません。でも、「いつ死んでも天国がある」。そう思って生きて生ける人は何と幸いでしょうか。

最後の言葉、アーメンは。ヘブル語で信じます。という意味です。信仰を告白した後、信仰者はもう一度、「今告白したことすべてを信じます」と告白するのです。
私たちも最後にアーメンと言って終わりましょう。

今週の暗証聖句
ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。ロマ3:24

その171 私は信じるE 

July 08 [Sun], 2018, 3:09
私は信じるE 使徒信条シリーズ

マタイ16:15-19
16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16:16 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
16:17 するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。
16:18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。
16:19 わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」

「我は・・・聖なる公同の教会、聖徒の交わり・・・を信ず」

1、クリスチャンは所属するために救われた。
イエス・キリストを救い主と信じるクリスチャンは、それで完成されるのではなく、教会というものに所属するために救われているのです。言い方を変えれば、私たちはただイエス・キリストを信じるというだけでなく、所属するように召されています。
何故神様は、この地に教会を用意されたのでしょうか。
それは、私たちは1人では生きていくことができないからです。そして私たちクリスチャンに、兄弟姉妹と呼びあうことのできる神の家族を与えてくださったのです。

こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。
エペソ2:19

神様は私たちに信仰によって、新しい命を与えてくださっただけでなく、育ててくれる霊の親、一緒に育ってゆく兄弟、姉妹、そしていつかは自分が育てるべき霊の子どもたちをも与えてくださいます。それが神の家族としての教会です。
さらに教会に所属することはイエス様の働きをすることになります。
あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。1コリント12:27
イエス様の働きをなすために、教会を信じ、教会に所属し、教会を愛し、教会に仕えましょう。そうすることによって、私たちは本当の生き甲斐、喜び、生きる目的を見出すことができます。

2、クリスチャンの交わりに神の力が現される。
クリスチャンというのは、黙って教会に来て、黙って礼拝を捧げて、そして誰とも話さずに教会を後にしていれば良いというのではなくて、言い換えれば、自分1人が神様と繋がっていれば良いということではなくて、周りにいて、一緒にキリストを信じるクリスチャンとの繋がりも同じように大切なのですよということのようです。
クリスチャンの交わりには、確実にイエス様が臨在されるということです。これはイエス様の約束です。
ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。マタイ18:20
2人以上の信者が集まるところには、必ずイエス様が一緒にいてくださいます。私たちはまずこの偉大な約束を信じなければなりません。
次にクリスチャンの交わりのなかで、私たちは霊的に成長します。
最後に聖徒の交わりは伝道となります。本来クリスチャン同士が集まるところには、人が引き付けられるものです。
私たちが互いに交わりを持ち、この世の愛ではなく、聖書が教える愛によって、愛し合う姿を見せるのであれば、世界の人は「ああ彼らこそ神を知っている。イエス・キリストを信じるクリスチャンだ」と認めるのです。多くの人が引き付けられる教会となりましょう。

今週の暗証聖句
もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。ヨハネ13:35

その170 本当の勝利 

June 17 [Sun], 2018, 10:35
「本当の勝利」

ルカ19:1-10
19:1 それからイエスは、エリコに入って、町をお通りになった。
19:2 ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
19:3 彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。
19:4 それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。
19:5 イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
19:6 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。
19:7 これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。
19:8 ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」
19:9 イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
19:10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

誰もが、自分が生きている意味、意義を知りたい。人に受け入れられ、感謝されるような人生を送りたいと願っています。しかし実際は、世界中の多くの人たちが、満たされない思いで毎日を過ごしています。皆の根本的な問題は生活の表面の問題ではなく、「誰も自分を理解してくれない」という孤独から来ています。

1、手っ取り早く勝つ方法=お金?
ザアカイは取税人のかしらで金持ちでした。彼の集める税金は、ユダヤの為ではなく、ローマ帝国のものでした。だから同胞に嫌われて当然です。どうしてわざわざこんな人に嫌われる職業を選んだのでしょうか?もしかしたら「お金を稼いで人を見返してやりたい、認められたい」という気持ちがそうさせたのかもしれません。彼は望みどおりに、だんだん金持ちになっていきました。だけどだれ一人として彼に暖かい言葉をかけてくれる人はいませんでした。お金を貯めても、いや金持ちになればなるほど、彼は孤独になっていきました。
私たちも同じです。望んだようになれば、幸せが手に入るかというとそうではありません。どれほど多くの財産があっても、大きな家があっても、高い地位を得ても、心のなかに人に対する憎しみや妬みがあるならば、その人は本当の意味で幸せを実感することはできません。

2、素直になれるとき=キリストとの出会い
そんなザアカイの街に、イエスという人が来るといううわさが広まりました。彼はイエスを一目見たいと思い、木に登りました。しかしイエスはまっすぐに彼のところに来て、「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今晩あなたのところに泊まるから」と言うのです。ザアカイにとっては今まで一度も聞いたこともないような暖かい言葉でした。何故なら彼に今まで一度でも急いできなさいなどと言ってくれる人はいなかったのですから。ザアカイはイェス様に「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します」と言いました。失われていた心の穴が、神の子イエス・キリストによって埋まり、もう自分を外側から取り繕う必要がなくなったのです。
私たちもキリストに出会うなら、もう自分を強く見せたり、大きく見せたりする必要はありません。ありのままの姿で、素直になることができるのです。これが本当の幸せです。

3、本当の勝利=キリストと一緒に生きる。 
ザアカイは完全に方向転換しました。こういうことを「悔い改め」と言います。何も言われないのに「不正な分は償います。四倍にして返します」と言っています。今まで自分を守るのに必死だったのに、もうその必要がなくなりました。ザアカイはこの時初めて本当の人生の勝利とはなにかを知ることができました。人生の勝利とは、人より多くのものを持つことではなくて、人より高いところに立つことではなくて、ただ、イェス・キリストに出合い、この方を人生の主として、人生の友として、一緒に歩いてゆくことなのだということです。
本当の生甲斐、本当の生きる喜び、本当の人生の勝利を得たいのなら、このイェス様に出会って下さい。

今週の暗証聖句
「あなたがたはこの世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」 
 ヨハネ16:33

その169 私は信じるD 

June 10 [Sun], 2018, 16:34
私は信じるD 

ヨハネ16:7-15
16:7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。
16:8 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。
16:9 罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。
16:10 また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。
16:11 さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。
16:12 わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。
16:13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
16:14 御霊はわたしの栄光を現します。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。
16:15 父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。

「我は聖霊を信ず」

1、聖霊は神である。
キリスト教には、三位一体という言葉があります。この使徒信条でも順番に出てきますが、父なる神、子なる神、キリスト。そしてこの聖霊なる神が、それぞれの位格を持ちながらも、一人の神として存在しておられるという教理です。キリスト教の中心的教えであり、この三位一体の神を信じるかどうかが、正統信仰と異端を区別する基準の一つとなっています。聖霊なる神は、知性を持たれ、感情を持たれる人格的な神様です。
私はこの教会が何よりも、この聖霊に喜ばれる教会。聖霊が訪れてくださる教会。聖霊が満ちてくださる教会。聖霊が働いてくださる教会であって欲しいと願っています。もうそれが私のたった一つと言ってもよい願いです。
イエス様が約束されたもう1人の助け主を信じて、認めて、求めるべきです。聖霊という神を信じましょう。

2、聖霊は私たちに内住される。
内住とは読んで字のごとく、うちに住んでくださる。生きてくださるということです。私たちがイエス様を信じて、告白した瞬間。イエス様の霊である聖霊が、私たちのうちに住んでくださるのです。
あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。1コリ3:16
聖霊はあなたの中にあっていつも一緒にあなたと歩んでくださるのです。あなたが一人ぼっちのように感じる時にも、決してあなたから離れない。あなたを見捨てない。繰り返しますが、悪魔は何とかして私たちを騙し、私たちが神から離れ、見捨てられた存在であると思い込ませようとします。しかしどうか忘れないでください。
神の霊は今もあなたのうちにいます。

3、聖霊は私たちに力を与える。
神様は私たちが弱い生き物であることをよくご存知です。ですから聖霊なる神は、私たちに力を与えてくださるのです。具体的にどのような力でしょうか。
@ 神を知る力 
A 祈る力
B 証する力
大切なことは、聖霊を求めて祈ることです。
「クリスチャンではあるけれど・・・」喜びが感じられない。自由が感じられない。何よりも私の信仰には力がない。そのような方は特にご一緒に祈りましょう。イエス様が約束してくださった、生ける水の川が心の奥底からあふれ出るような体験を求めようではありませんか。そうするならば、私たちの内側から、喜びが溢れ、感謝が溢れ、自由とされ、そしてどんなに大きな苦しみがやってきたのとしても、力強い信仰生活をおくることができるようになります。聖霊を求めましょう。注ぎを受けましょう。満たしを願って祈りましょう。

今週の暗証聖句
とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。
ルカ11:13

その168 私は信じるC 

June 03 [Sun], 2018, 16:31
私は信じるC 

使徒1:9-11
1:9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。
1:10 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。
1:11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」
「主は・・・三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて、生ける者と死にたる者とを審きたまわん。」

1、キリストの復活は私たちに勝利を約束している。
勝利というと、私たちは何を思い浮かべるでしょうか。試合に勝つ。受験に勝つ。出世競争に勝つ。人それぞれ、色々な人生の勝利があることでしょう。しかし聖書が言っている勝利とは、ずばり、罪とその結果である死に対する勝利です。
最初の人アダムの不従順によって、罪というものが人類に入り込みました。その罪と死に対して、神様は御子イエス・キリストを通して、私たちに勝利を与えてくださったのです。
聖書は明確に、イエス・キリストが死の力を打ち破って、よみがえったのは、ご自身だけではなく、彼を信じる者すべてが、よみがえりの命を持つためであると証言しています。キリストを信じる者は、かならず永遠の命を持つのです。

2、キリストは私たちのためにとりなしておられる。
聖書によると、イエス・キリストは復活された後40日間弟子たちと過ごされ、数々のことを教え、多くの人の見ている前で天に昇られました。
では、今イエス様は神様の右の席で何をされているのでしょうか。それがとりなしです。人間の側に立ってくださり、義なる神様に対して、人間の赦しを願い、人間のために祈り、人間を愛を持って見てくださっている、それがイエス・キリストです。
この人生を、私たちをいつも見てくださり、心配してくださり、守ってくださるイエス様と一緒に歩んでいきましょう。

3、キリストは私たちに希望を与えた。
よみがえられ、天に昇られ、神の右の座に座っておられるイエス様は、やがて再び、この地に帰ってくださる。これを再臨と言います。キリスト教の歴史観、世界観はまさに、始まりがあるのなら、終わりがある。始まりを作ったのが神様ならば、その終わりを定められるのも神様であるという信仰から成り立っています。またどうして世界に悪があるのか。理不尽なことが起こるのかという悩みに対して、例え今それが赦されているとしても、神様は必ず最後の最後に、清算してくださる。悪い者も良い者も、死んでしまった者も、生きている者も、皆裁きの座に立たされ、その行いに従って裁かれる時が来るというのが、教会の歴史観、世界観です。その裁きをなされる方がイエス・キリストです。
これが私たちの希望です。私たちの信仰が必ず報われるときがきます。イエス・キリストの復活と再臨は、ここにいるすべての人のためにあります。彼を信じるなら、素晴らしい人生が待っています。


今週の暗証聖句
けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。ピリピ3:20