その194 本当の自分を取り戻す 

April 21 [Sun], 2019, 21:02
「本当の自分を取り戻す」

ローマ人への手紙6章5節

6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

本当の自分を取り戻すことなしに、人間は幸福になることはできません。そしてキリストの「復活」なくして本当の自分を取り戻すことはできないということをお話したいと思います。

1、あなたは神に愛されている。
 あなたは自分のことが好きですか?実は自分を受け入れることができず、苦しんでいる人が多くいます。知らず知らずのうちに自分で基準を作り、「自分には能力がない」「自分には魅力がない」「自分は良い人間ではない」と思い込んでしまいます。そして究極的には「誰も自分を愛してくれない。愛される資格はない」と思い込んでいるのです。

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。            イザヤ書43:4

しかし私たちに命を与えてくださった神が、「あなたには価値がある。大事な存在だ。愛しているよ」と言ってくださっていることに気付かなくてはなりません。その証拠が世界中の教会にある十字架なのです。大切な御子イエスを十字架につけるほど、神は私たちを愛しておられるのです。

2、すべての苦しみに原因がある。
 キリスト教は「性悪説」でしょうか?教会では「人間はみな罪人」と教えるのでそう考えている人が多いでしょう。しかし創世記にこのような記述があります。

神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。   創世記1:31

最初の人間の状態は善であり、すべての面において完璧だったのです。神が初めから老いたり、病気になったり、死んだりする存在を創るでしょうか?人間は年取ることもなく、病気になることもなく、死ぬこともなく、永遠に神とともに生きるために創られたのです。

しかし罪がこの世界に入いました。この罪が人間のあらゆる苦しみの原因です。悪いことをするということではなく、神から離れている状態が罪です。神との絆が断ち切られてしまったために、人間は肉体的には、老、病、死から逃れられない存在となりました。そして精神的には常に「欠乏感」に悩むものとなったのです。

3、キリストの命を自分の命とする。
 人間が神に元々創られたときの状態に戻ること、すなわち神と親しい関係であった「本当の自分を取り戻す」以外に解決はないのです。しかし切れてしまった神との愛の絆をどうやったら回復できるのでしょうか?人間の努力や行いでは不可能です。私たちの中に、私たちの身代わりとなって十字架のうえで死んでくださり、よみがえられたキリストの霊に、入っていただくしかありません。
 私たちがキリストを信じ、口で告白して祈るとき、復活されたキリストの霊が入ってくださるのです。そして途切れていた神との絆が回復し、神の子としての身分を取り戻すことができるのです。
確かに復活は凄いことです。天国で永遠に生きることは特別なことです。しかし一方で見方を変えるなら、元々創られた本来の状態に戻るという言い方もできます。その初穂がキリストであり、私たちも続々とその後に続くことができるということです。本当の自分を取り戻すとは、神様に愛されているという本来の状態に戻ることです。もう欠乏感に苦しむことはありません。また、この地上での肉体が衰え、滅びても、来たる世では、年取ることも、病気になることも、死ぬこともない、永遠の肉体が与えられるのです。

今週の暗証聖句
罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
ローマ人への手紙6:23

その193 飢え乾き、祈り、求めよ 

March 17 [Sun], 2019, 10:30
「飢え乾き、祈り、求めよ」

マタイの福音書7章7−11節
7:7 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
7:8 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
7:9 あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。
7:10 また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。
7:11 してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。

「山上の垂訓」と呼ばれる5章から7章全体で、イエスは驚くべきことを教えられました。一言で言うならば、「人間の人生や運命を変えるにはどうしたら良いか」ということです。今でも「自分の人生を変えたい」、「自分の運命を変えたい」と望んでいる人は多くいることでしょう。しかし実際には何をしたら良いのか分からない人がほとんどです。イエスがここで教えられたことはズバリ「ものの見方、考え方を変えろ!」ということでした。それが人生を変える鍵です。そのためにどうしたら良いのかが、7章で教えられています。

1、 飢え乾きを持とう。
キリスト教信仰は「神の選び」からはじまります。アブラハムを選ばれたのは神です。しかし神は同時に選ばれた民たちに「選ぶ」ことを命じておられます。
私は、 いのちと死、 祝福とのろいを、 あなたの前に置く。 あなたはいのちを選びなさい。申命記30:19
本当に良いもの、本当に必要なもの、本当に欲しいものを求める態度が必要です。私たちは飢え渇きを持たなければなりません。そしてその飢え乾きの心を持って祈らなければならないのです。

@ 神との強い関係に飢え乾く。
イエス様は、「神様はお父さんのような方、良い方で良いことをしてくださる方」だと教えられました。しかし本当にそうであるかどうかは体験されなければなりません。「この神様にもっと近づきたい。もっと知りたい。もっと体験したい」という飢え乾きが必要です。

A みことばに飢え乾く。
「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』とあります。神の言葉に飢え乾き、その真理を正しく知ることができるように求めましょう。

2、具体的にに祈ろう。
イエス様が「求めろ、探せ、たたけ」と言われたのは決して抽象的なものを漠然と求めろと言ったわけではありません。何故なら「求めたら与えられる。探したら見つかる。叩いたら開かれる」と教えられているからです。
私たちはどこかで限界を定めて本気で信じていないということはないでしょうか?神様にできないことはありません。具体的なものを求めて祈りましょう。

3、聖霊を求めよう。
ルカは「良いもの」を「聖霊」と書いています。私たちにとって最良のものは聖霊です。聖霊の満たしを求めましょう。
飢え乾きの心を持って主に近づく祈りをしましょう。それが一時的なものではなく継続した行為となるように、生活のなかでクリスチャンとしての良い習慣を身につけていきましょう。そして聖霊の満たしを求めましょう。求めるように教えられる主イエス、与えてくださる父なる神、そして求めるべき聖霊は三位一体の神ご自身です。神に近づき、神とともに生きる生涯を全うしましょう。

今週の暗証聖句
してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。ルカ11:13

その192 教会成長と人間成長の鍵 

March 03 [Sun], 2019, 10:30
「教会成長と人間成長の鍵」
モーセの生涯I

出エジプト記18:1-27

18:13 翌日、モーセは民をさばくためにさばきの座に着いた。民は朝から夕方まで、モーセのところに立っていた。
18:14 モーセのしゅうとは、モーセが民のためにしているすべてのことを見て、こう言った。「あなたが民にしているこのことは、いったい何ですか。なぜあなたひとりだけがさばきの座に着き、民はみな朝から夕方まであなたのところに立っているのですか。」
18:15 モーセはしゅうとに答えた。「民は、神のみこころを求めて、私のところに来るのです。
18:16 彼らに何か事件があると、私のところに来ます。私は双方の間をさばいて、神のおきてとおしえを知らせるのです。」
18:17 するとモーセのしゅうとは言った。「あなたのしていることは良くありません。
18:18 あなたも、あなたといっしょにいるこの民も、きっと疲れ果ててしまいます。このことはあなたには重すぎますから、あなたはひとりでそれをすることはできません。
18:19 さあ、私の言うことを聞いてください。私はあなたに助言をしましょう。どうか神があなたとともにおられるように。あなたは民に代わって神の前にいて、事件を神のところに持って行きなさい。
18:20 あなたは彼らにおきてとおしえとを与えて、彼らの歩むべき道と、なすべきわざを彼らに知らせなさい。
18:21 あなたはまた、民全体の中から、神を恐れる、力のある人々、不正の利を憎む誠実な人々を見つけ出し、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として、民の上に立てなければなりません。
18:22 いつもは彼らが民をさばくのです。大きい事件はすべてあなたのところに持って来、小さい事件はみな、彼らがさばかなければなりません。あなたの重荷を軽くしなさい。彼らはあなたとともに重荷をになうのです。
18:23 もしあなたがこのことを行えば、──神があなたに命じられるのですが──あなたはもちこたえることができ、この民もみな、平安のうちに自分のところに帰ることができましょう。」
18:24 モーセはしゅうとの言うことを聞き入れ、すべて言われたとおりにした。

この18章には、戦いのシーンも出てきませんし、何か大きな事件があったというようなことも書かれていません。しかし、モーセのしゅうとのイテロの助言が、旅を続けるこの後のモーセやイスラエルの人々に、とても大きな影響を与えました。この物語は、教会にとっても大切な原則のようなものが描かれています。

1、 教会にはリーダーを助けるリーダーが必要である
 モーセは当初全てのことを一人でやっていました。それは明らかにオーバーワークで、モーセの能力、体力をはるかに超える仕事でした。イテロはそんな彼を見て、このままではモーセだけではなく、このイスラエルの民全体にとっても悪いことになると思いました。イテロは、イスラエルの民たちの中にも、立派に善悪の判断ができるリーダーたちがいるではないかとアドヴァイスしたのでした。

 実は初代教会にも同じような問題が起こりました。使徒の働きの6章には、教会が成長していくなかで、様々な問題が起こるようになったと書かれています。12人の使徒と呼ばれたリーダーたちは、メンバーの中から適当な人を選んで、これらの問題処理に当たらせることにしました。教会はまさに、教職者とともに重荷をになう人たちが必要なのです。聖書は明確に、一人の人間ができることは限られていて、私たちが一人で何でもするよりもむしろ、お互いに足りないところを補い合って、助け合って、キリストのみからだである教会を皆で建てあげあうことの大切さを教えています。どうかこれからの信仰生活の目標として、牧師とともに重荷をになう信仰者となることを目指してください。

2、謙遜は無限の祝福をもたらす。
 私たちはここでモーセという人がどれほど謙遜な人であったか、そしてその謙遜さが、モーセの人生と、イスラエルの民全体にどれほど大きな祝福をもたらしたかを見ることができます。モーセはイテロの忠告を聞いて「あなたは私たちと何の関係があるんですか。あなたはしょせんミデアン人、私たちはイスラエル人です。これは私たちのやり方なのだからほっておいてください」とか「あなたは確かに、私の義理の父です。しかし失礼ですが、私は神様ご自身から選ばれ、この民のために立てられているリーダーなのです。私が一番偉いのです。私は神様以外の人間の言葉を聴いて、それに従うわけにはいきません」などと返事をしていたらどうなったでしょうか。やがてモーセは精神的ストレスでまいってしまい、健康を壊し、民全体にも様々な社会的混乱が起こり、大変なことになっていたに違いありません。しかしモーセは喜んで人の忠告を聴き、それを実践する素直さ、謙虚さを持っていたのです。そしてそれがモーセの生活とイスラエル全体に大きな祝福をもたらしました。

 私たちもこのモーセを見本とし、謙遜というものがどれほど尊い品性であるかを悟らなくてはなりません。謙遜になって人の話を聴くということが、どれほど大きな神様の祝福をもたらし、また自分だけでなく、周りの人たちにも良い影響を与えることができるかを実感しましょう。日々神様に祈り、「主よ、私を砕いて、謙遜になって、色々な人に仕える人になることができるようにしてください」と、求めていくクリスチャンになろうではありませんか。

今週の暗証聖句
人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。
箴言 18:12

その191 いのちの光 

February 17 [Sun], 2019, 10:36
「いのちの光」

マルコによる福音書7章14−23節
7:14 イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟るようになりなさい。
7:15 外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」
7:17 イエスが群衆を離れて、家に入られると、弟子たちは、このたとえについて尋ねた。
7:18 イエスは言われた。「あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人に入って来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか。
7:19 そのような物は、人の心には、入らないで、腹に入り、そして、かわやに出されてしまうのです。」イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。
7:20 また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。
7:21 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、
7:22 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、
7:23 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」

 私たちは宗教や言葉、文化が違っても、正しさの基準というものを、人それぞれ持っていると思います。そして正しいことをして、神様から認められて、死後に報いを受けたい、そう思って生きている人がほとんどではないでしょうか。問題は自分の正しさの基準が明確に本当の神の基準となっているかどうかです。
イエス・キリストがここで教えられていることは、真の神が私たちに明確に求めておられる基準です。

1、人は行いによっては救われない。
 ユダヤ人たちは、食事の前に手やからだを洗うことなど、色々な言い伝えとしきたりを持ち、口に入るものに気を付けることによって「汚れる」ことから身を守ろうとしていました。彼らは行いに気を付けてさえいれば、「汚れる」ことなく、神に受け入れられ、救われると考えていたのです。
 このように行い、他人の目に写るうわべさえ気を付けていれば、上手くいくのではないかと考えている人はきっと多いと思います。「真面目にしていれば」、とか「人に迷惑を架けなければ」とか、決められたことをきちっと守り、他人の目に「あの人は真面目だ。良い人だ」と思われる人になれば、神様も正しいと認めてくれて、天国にも行けるだろうと考えるわけです。果たしてそうでしょうか。

2、人の心のなかに悪いものがある。
 しかしイエス・キリストは人の口に入るものが人を汚すのではないと教えられました。行動の規則さえ守っていれば良いというのではないと言うのです。うわべを取り繕うことよりも、心のなかの悪い思いが人を「汚し」、自分を神から遠ざけると教えられました。結局、心のなかの思いが言葉と態度と行為に出てくるのですから、その思いが「汚れて」いる限り、神の前に受け入れられることはないのです。どんなに表面を取り繕っても、心の底に溜まった泥がなくなることはないのです。ではどうしたら良いのでしょうか。

3、解決はイエス・キリストにしかない。
 私たちのうちで誰一人、自分の力で心のなかの汚い思いをなくすことができる者はいません。神は私たちがどんなに外側を取り繕い、自分を奇麗に見せようとしても、その心のなかは悪い、汚れた思いがあることを知っておられるのです。どうしたら良いのでしょうか。   
 この問題を解決するには「罪のない人」が人間を代表して、神の怒りを受け、犠牲として捧げられなければなりませんでした。でもそのような人は存在しません。人間は皆罪があり、心が汚れているのです。神はご自分の御子イエス・キリストを人としてこの地に送ってくださいました。そして十字架の上で苦しんで死なせ、3日目によみがえらせることによって、このお方を「信じるだけで」神との関係を回復し、救われるという道を切り開いてくださったのです。キリストを信じるとは光を心のなかに迎え入れるということです。光が入れば闇は消え、存在することができないのです。
 皆さんの心に今、いのちの光があるでしょうか。「私の心には光がありません。闇に覆われています。穢れでいっぱいです」という方がおられるなら、その人はキリストを心にお迎えください。「私の心にお入りください」と祈るだけで良いのです。

今週の暗証聖句
イエスはまた彼らに語って言われた。 「わたしは、 世の光です。 わたしに従う者は、 決してやみの中を歩むことがなく、 いのちの光を持つのです。 」               ヨハネ8:12

その190 夫と妻の一丁目一番地 

February 10 [Sun], 2019, 20:33
「夫と妻の一丁目一番地」

創世記2章8節
2:18 神である【主】は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」

 バレンタインデーは皇帝に結婚を禁じられていた兵士たちの結婚式を行い、処刑された聖バレンティヌスを記念することが始まりと言われています。今では「夫婦の日」として覚えられているところが世界中にあります。

1、一人では生きられない。
天地創造の際、最初の人間アダムを見て神様は言われました。

創世記2:18 神である【主】は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」

そしてエバという名の女性を妻として与えたと書かれています。結婚という制度は人間ではなく神によって定められたことを教えています。このときから人は一人では生きられない存在となりました。一緒に人生を歩いてくれるパートナーを必要とするのです。聖書は一貫して、夫婦関係の大切さを教えています。この神様の定められた秩序を土台とするときに、家庭がおさまり、社会が安定し、人々の心が平安になるのです。夫婦生活の祝福を願うことは、神様の御心です。

2、男女は互いに補い合う。
創造のときから、男性と女性は違うように創られました。男性には男性にしかできないことが、女性には女性にしかできないことがあるのです。それはお互いがお互いを必要とし、互いに補い合うようにするためです。
創世記2:24 それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。
互いの弱さ、出来ないことを責め合うのではなく、「相手の出来ないことを自分がカバーしよう、自分が出来ないことを相手に助けてもらおう。」こうやって夫婦は一体となるのです。

3、夫婦を結ぶ帯は愛。
夫婦を一つとし続ける鍵は愛です。愛とは「相手を赦し続ける力」です。

1コリント13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。

「自分」だけを前面に押し出し、相手に一方的に従わせようとする関係は決して神様が望まれる正しいものとは言えません。夫婦関係においても同じことです。互いに自分の弱さ、相手の弱さを認め合いながら、一つになろうとするために、愛の力を求めましょう。

4、パートナーは神に与えられた。
「どうしたら離婚することができますか?」という質問に対するイエス様の答えは「夫婦は神様が結び合わせたものだ。だから引き離してはならない」ということでした。2人の出会いや交際に至る経緯、その他色々なことの背後に、神様が働いてくださり、夫婦となるように結び合わせてくださったのだと信じることがまさに夫婦関係の原点です。
結婚式で神様と証人の前で誓った約束を、生涯守り続けることが、人生の祝福の土台となります。

今週の暗証聖句
それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。
マタイ19:6

その189 いのちの水と祈り 

February 03 [Sun], 2019, 10:30
「命の水と祈り」 モーセの生涯H

出エジプト記17:1-13
17:1 イスラエル人の全会衆は、【主】の命により、シンの荒野から旅立ち、旅を重ねて、レフィディムで宿営した。そこには民の飲む水がなかった。
17:2 それで、民はモーセと争い、「私たちに飲む水を下さい」と言った。モーセは彼らに、「あなたがたはなぜ私と争うのですか。なぜ【主】を試みるのですか」と言った。
17:3 民はその所で水に渇いた。それで民はモーセにつぶやいて言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。」
17:4 そこでモーセは【主】に叫んで言った。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。もう少しで私を石で打ち殺そうとしています。」
17:5 【主】はモーセに仰せられた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを幾人か連れ、あなたがナイルを打ったあの杖を手に取って出て行け。
17:6 さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。
17:7 それで、彼はその所をマサ、またはメリバと名づけた。それは、イスラエル人が争ったからであり、また彼らが、「【主】は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って、【主】を試みたからである。
17:8 さて、アマレクが来て、レフィディムでイスラエルと戦った。
17:9 モーセはヨシュアに言った。「私たちのために幾人かを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。あす私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」
17:10 ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。
17:11 モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。
17:12 しかし、モーセの手が重くなった。彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いたので、モーセはその上に腰掛けた。アロンとフルは、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえた。それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであった。
17:13 ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で打ち破った。

17章は大きく二つの部分に分けることができます。一つは水の問題。民たちが水がないと不平不満を言ったので、主はモーセを通して、岩から水を流れ出され、民たちに与えられたというお話と、アマレク人というグループがイスラエルの行く手を塞ぎ、彼らが最初の戦いを経験するというお話です。

1、私たちは命の水を必要としている。
新約聖書のなかで、パウロはここを通して、イスラエルたちが飲んだのは御霊の飲み物で、その岩とはキリストであると表現しています(1コリント10章)。勿論これは直接的なことではなく、霊的な意味でしょうが、それは単なる水ではなく、神様からの霊的な命の水であったということです。

ここで教えられることは、私たちクリスチャンには霊的に飢え渇く時があるということです。私たちのうちに内住しておられるキリストの霊、つまり聖霊の満たしを求めるということが大切なのです。聖霊に満たされることによって始めて、私たちは人間のあらゆる欲望から解放され、毎日毎日を神様とともに生きているということを実感することができます。このイスラエルの民のように、飢え乾きを覚え、弱さを覚え、絶望しそうになったときには、岩なるキリスト・イエスの、霊の糧を求めていきましょう。そうすれば、ともにおられるお方が、必ずそれに答え、私たちを満たし、必要なものもすべて与えられるということを信じていきましょう。

2、心を合わせて祈る。
この戦いは、イスラエルにとっては初めての経験でした。エジプトで奴隷だった彼らは、軍隊で訓練を受けたこともなかったでしょうし、だいたい十分な武器も持っていなかったと思います。その人たちが、他の民族と戦争をしたのですから大変なことです。モーセはヨシュアと他に幾人かを選び、戦いに送り出したと書かれていますが、聖書が焦点としているところは、戦いそのものではありませんでした。モーセが手をあげている時はイスラエルが優勢になり、モーセが手をおろすとアマレクが優勢になったこと。そしてアロンとフルという人たちがモーセの手をささえたので、最終的にイスラエルが勝ったと記述しています。ヨシュアの戦いぶりではなく、モーセたちの祈りぶりに焦点が当てられているのです。

このモーセを教会の指導者、つまり牧師と見てみましょう。牧師は教会員たちが様々な戦いを強いられているのを見て、祈り、とりなしています。しかしモーセが一人で祈り続けることができなかったように、牧師も一人では祈り続けることができないのです。私たちは「祈りの手をあげる」と言いますが、牧師が祈りの手をあげ続けるためには、ここに出てくるアロンやフルのような助け手、牧師を助け、共に祈り、一緒に戦う助け手が必要であることがここにはっきりと示されているのです。牧師と心を一つにし、手を支えてくださる人が多ければ多いほど、私たちの教会はより堅固な教会として、成長していくでしょう。祈りの手をおろさない教会として前進していきましょう。

今週の暗証聖句
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」  ヨハネ7:37

その188 信仰者の落とし穴と特権 

January 20 [Sun], 2019, 10:30
「信仰者の落とし穴と特権」 モーセの生涯G

出エジプト記16:1-8
16:1 ついで、イスラエル人の全会衆は、エリムから旅立ち、エジプトの地を出て、第二の月の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野に入った。
16:2 そのとき、イスラエル人の全会衆は、この荒野でモーセとアロンにつぶやいた。
16:3 イスラエル人は彼らに言った。「エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは【主】の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。」
16:4 【主】はモーセに仰せられた。「見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを、試みるためである。
16:5 六日目に、彼らが持って来た物を整える場合、日ごとに集める分の二倍とする。」
16:6 それでモーセとアロンは、すべてのイスラエル人に言った。「夕方には、あなたがたは、【主】がエジプトの地からあなたがたを連れ出されたことを知り、
16:7 朝には、【主】の栄光を見る。【主】に対するあなたがたのつぶやきを主が聞かれたのです。あなたがたが、この私たちにつぶやくとは、いったい私たちは何なのだろう。」
16:8 モーセはまた言った。「夕方には、【主】があなたがたに食べる肉を与え、朝には満ち足りるほどパンを与えてくださるのは、あなたがたが主に対してつぶやく、そのつぶやきを【主】が聞かれたからです。いったい私たちは何なのだろうか。あなたがたのつぶやきは、この私たちに対してではなく、【主】に対してなのです。」

エジプトを無事に脱出したイスラエルの民たちは、すぐにモーセたちにつぶやく、要するに不平不満を言い始めます。ついこの間まで奴隷だった人たち、過酷な労働を課せられていて、助けを求めていたこの民たちが、「エジプトの奴隷生活のほうがよかった。あの時神に命をとられていたほうがよかった」、と言うのです。

1、信仰者の落とし穴は恵みと感謝を忘れること。
このイスラエルの民たちはエジプトで過酷な労働を課せられていました。数が増えすぎて、王たちに警戒されるようになったからです。ですからしばらく我慢したら生活が楽になるという可能性はゼロでした。エジプトの高官たちは、このイスラエルが完全に屈服して、脅威でなくなるぐらい数が減るまで、苦しめ続けたに違いないのです。つまりイスラエル人は絶望の中にいて、助かる望みのない状態に置かれていたのです。それがモーセを通して神様によって救われました。きっと彼らは心の底から感動し、喜んだに違いありません。

しかしほんの少しの間に、そんな感動は吹き飛んでいました。目の前の荒野を見て、そしてエジプトから運んできた食料がなくなると、「どこで水を飲むのだ、どこで食料を手に入れるのだ。」そう考えて恐ろしくなってきました。そして、「奴隷だったエジプト時代には肉が食べられ、パンが食べられたのに」、と不毛な、意味のないことを口にし始めるのです。

これがクリスチャンの落し穴です。自分が罪の奴隷だったことを忘れ、永遠の死に定められていたことを忘れ、目の前にあるものを恐れ、つぶやくようになるのです。クリスチャンが恵みと感謝を忘れたら終わりです。この後この民たちは大きな報いを受けることになります。私たちはいつもキリストの十字架を見上げて、感謝して生きるものとなりましょう。

2、信仰者の特権は必要が満たされること。
神様はマナを毎朝降らせてイスラエルの民たちを養いました。多く集めても、少なく集めても結果は同じ、自分の食べる分だけでした。ここで覚えておきたいことは、必要なものを、必要な分だけだということです。ここを踏まえていないと、クリスチャンの特権を勘違いしてしまうことになります。

私たちはクリスチャンとして、この日々養ってくださる神様をどれほど信頼しているでしょうか。荒野で行く先が見えなくなった時、人間は今持っているものに目を向けて、大変だ、大変だ、どうしようと慌てます。しかし神様は私たちを覚えて、養ってくださるのです。これがクリスチャンの特権です。私たちがイエス・キリストを信じて、神様の子供となったその瞬間から、私たちは神様に養われるという特権を持つことになりました。罪の奴隷から解放してくださった神様が責任を持って、新しい御国にたどり着くまで、毎日養って連れていってくださると約束しておられるのです。この原則を信じて生きていくとき、私たちは主が今も生きて、働いておられることを体験することができます。この新しい一年が、振り返ったときに、「何も足りないものがなかった。神様がすべての必要を、必要な分だけ満たしてくださった」と、証することができるように、主を信頼して前進していきましょう。

今週の暗証聖句
空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。マタイ6:26

その187 行き止まり 

January 13 [Sun], 2019, 17:06
「行き止まり」 モーセの生涯F

出エジプト記14:8-14
14:8 【主】がエジプトの王パロの心をかたくなにされたので、パロはイスラエル人を追跡した。しかしイスラエル人は臆することなく出て行った。
14:9 それでエジプトは彼らを追跡した。パロの戦車の馬も、騎兵も、軍勢も、ことごとく、バアル・ツェフォンの手前、ピ・ハヒロテで、海辺に宿営している彼らに追いついた。
14:10 パロは近づいていた。それで、イスラエル人が目を上げて見ると、なんと、エジプト人が彼らのあとに迫っているではないか。イスラエル人は非常に恐れて、【主】に向かって叫んだ。
14:11 そしてモーセに言った。「エジプトには墓がないので、あなたは私たちを連れて来て、この荒野で、死なせるのですか。私たちをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということを私たちにしてくれたのです。
14:12 私たちがエジプトであなたに言ったことは、こうではありませんでしたか。『私たちのことはかまわないで、私たちをエジプトに仕えさせてください。』事実、エジプトに仕えるほうがこの荒野で死ぬよりも私たちには良かったのです。」
14:13 それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる【主】の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。
14:14 【主】があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」

いよいよイスラエルたちは、エジプトから完全に離れ、出発しようとします。しかし、何と主は、イスラエルの民たちを行き止まりと言えるような海辺へと導かれたのでした。

1、主は私たちを「行き止まり」に導かれることがある。 
イスラエルの人々は過越しの夜を通して完全な解放を受けることができました。奴隷ではなく、神の約束の民としての新しい一歩を歩みだしたのです。ところがどうでしょうか。彼らが導かれたのは行き止まりの海辺でした。しかも後ろからはエジプトの軍隊。彼らの恐怖、そして不満はよく分かります。
私たちもイエス様の十字架の血潮によって清められ、救われました。それはまさに奇跡であり、恵みです。しかしどうでしょうか。その後すぐ私たちは天国に行けるのでしょうか。いいえ違います。救われた後も、それまでと同じようにこの世で生きるのです。そして時には行き止まりに見えるところに導かれることがあります。「前を見ても、後ろを見ても、どこにも行くところがない。自分はもうおしまいだ。どうして神様はこんなところに自分を連れてきたのだろうか。」そのように思える、人生の八方塞を、体験することがあるかもしれないのです。

ここで覚えたいのは、信仰生活は決して平坦ではないし、すぐに成長して、目的地に入れるような楽なものではないということです。神様は私たちを愛し、そして愛されるがゆえに、教育、訓練を施されます。それが時には荒野を通らせ、海の岸辺に立たせ、後ろから敵に迫らせるような場面になるようなこともあるということです。その時私たちは、すべては神様の御手の中にあり、すべての解決が神様にあることを信じなくてはなりません。

2、神様が私たちを助ける。
14:13 それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる【主】の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。
14:14 【主】があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」

私たち信仰者は時には行き止まりと見えるような場所に放り出され、前は大きな壁、後ろからは巨大な敵が迫ってきているような状況に陥ることがあるかもしれません。しかし主が、私たちのために戦われるのだと聖書は教えています。人間の目には不可能に見える状態、人間の目には八方塞で逃げることもできないような状況の中で、主が立ち上がられ、主が闘われ、主が勝利を収められる。これが聖書が繰り返し私たちに与えている約束です。

私たちに勝利を見させてくださる主に感謝を捧げましょう。私たちを苦しい状況から助け出してくださる主に感謝とまことを捧げましょう。私たち自身が優れているからではなく、私たち自身に力があるからではなく、主に全ての主権があり、あらゆる状況の中で、主が私たちを導かれ、訓練され、成長を促し、そして勝利を見させてくださるのです。このことを感謝して、主の勝利を高らかに宣言しようではありませんか。

今週の暗証聖句
「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」ロマ 9:33

その186 恵みの上に恵みを 

January 06 [Sun], 2019, 11:26
恵みの上に恵みを

ヨハネ1:14-18
1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
1:15 ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことです。」
1:16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。
1:17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。
私たちはみな、 この方の満ち満ちた豊かさの中から、 恵みの上にさらに恵みを受けたのである。

今年一年、私たちはこの御言葉を掲げて参ります。
ヨハネはキリストがどのような方で、私たちにとってどのような存在なのかを明らかにしています。

1、私たちはキリストの命を持っている。
 世にあるもの全てを創造されたキリストが、私たち人間のために、「ことば」としてこの地上に生まれてくださいました。命は全てこの方にあり、この方から生まれます。そして私たちはこの方と個人的関係(絆)を持つことができます。

12 しかし、 この方を受け入れた人々、 すなわち、 その名を信じた人々には、 神の子どもとされる特権をお与えになった。

キリストを信じるということは、すなわち、この方にある無限の命を、自分のものとすることです。それは単に心臓が動いているとか、肺で呼吸しているというものではありません。神様が持つ根源的な命と力を持つということです。この命は私たち人間がこの地上でなそうとする全ての領域において、無限の可能性を与えるものです。

 今年私たちは、このキリストの命を持つ者として歩んで参りましょう。私たちは、仕事、勉強、健康、人間関係など、色々なところで、課題を与えられています。困難のときもあるでしょう。しかし、キリストの命に与る者は大丈夫です。しっかりとキリストにつながり、無限の命を体験する一年としましょう。

2、私たちはさらに恵みを受けることができる。
 恵みとは、受ける資格もない者が、神様から無条件に好意を受け取ることです。私たちは、何の資格も能力もないのに、一方的に神様に愛され、赦され、命をいただきました。「恵みの上にさらに恵み」という言葉は、私たちがキリストの命を自分のものとし続けるならば、既に受けている恵みに留まることなく、さらに新しい恵みを体験することができることを教えています。

 今年も私たちは、キリストの命によって生かされている恵みを土台として生きましょう。人間の目から見てどんなに豊かに見えたとしても、キリストの命を持たない者は、やがては枯れて、消えてゆく存在にすぎません。しかしキリストの命を保つ者は、どんなに小さく、貧しく見えたとしても、内側から溢れ出る命の力によって、どんな状況の中でも神様の栄光を見ることができるのです。一人一人がキリストとしっかりつながり、この方から一方的に流れる命によって、恵みの上にさらに恵みを受ける年となりますように。

今週の暗証聖句
まことに、 私のいのちの日の限り、 いつくしみと恵みとが、 私を追って来るでしょう。 私は、 いつまでも、 【主】の家に住まいましょう。詩篇23:6

その185 少女の決断 

December 09 [Sun], 2018, 10:30
少女の決断

ルカの福音書1:26-38

1:26 ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。
1:27 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。
1:28 御使いは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
1:29 しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
1:30 すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。
1:31 ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。
1:32 その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
1:33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」
1:34 そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」
1:35 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。
1:36 ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。
1:37 神にとって不可能なことは一つもありません。」
1:38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。

小さな少女マリヤの決断が世界を変えました。
マリヤによる決断は・・・

1、 主に仕える決断
「わたしは主のはしためです。」自分は小さな、取るに足らない娘です。しかし主に仕えます。そのような決断によって、神様の御子がこの世に生まれるというご計画が動き出しました。神様は必ず人を通して、ご自身のご計画を推進されようとします。それも、人々から認められるような、能力のある人ではなく、誰も気にもかけないような小さな人を選ばれ、その人を通して、ご自身のご計画を全うされようとされるのです。

主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。  2歴16:9

このクリスマスの物語が小さな少女の決断から始まったように、私たちも今決断が求められています。自分を無にして、「主よ、あなたに仕えたいのです」と決断をするのであれば、私たちの人生を通して、大きな神の御業が起こることでしょう。神様に仕える決断をしましょう。

2、 自分を変える決断
マリヤは「お言葉どおりこの身になりますように」と答えることによって、自分が今までと変わってしまうということを恐れませんでした。人が変わるためにはその人の外側ではなく、心の内側から変わらなければなりません。

誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しくつくられた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、全てが新しくなりました Uコリ5:17

人は自分の力では決して変わることはできません。聖霊の力によらなければ、人は新しく生まれ変わることはできないのです。この聖霊に委ねて、自分を変える決断をしていきましょう。

3、 世界を変える決断
「神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」
私たちは自分が幸せになるためだけではなく、周りの人々に良い影響を与えるために救われたのです。神様はあなたを通してこの世界に光が広がることを願っておられるのです。救い主を待ち望んでいるのは、なにも2千年前のユダヤの人々だけではありません。今、現在の日本にも数多くいるのです。

私たちクリスチャンが主に従い、主に用いられたいと決断するならば、私たちの周りの世界が動き出すはずです。

主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。ルカT:45

今年一年で皆さんはどんな決断ができたでしょうか。またどんな決断ができなかったでしょうか。小さな女性の決断が、やがて全世界の祝福のスタートとなりました。私たちもほんの小さなことであっても神様のために何かをする、自分の力でするのではなく、神様の言葉が自分に働くように、委ね切っていくという決断をしていきましょう。

今週の暗証聖句
「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」 ルカ1:45