その185 少女の決断 

December 09 [Sun], 2018, 10:30
少女の決断

ルカの福音書1:26-38

1:26 ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。
1:27 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。
1:28 御使いは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
1:29 しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
1:30 すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。
1:31 ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。
1:32 その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
1:33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」
1:34 そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」
1:35 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。
1:36 ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。
1:37 神にとって不可能なことは一つもありません。」
1:38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。

小さな少女マリヤの決断が世界を変えました。
マリヤによる決断は・・・

1、 主に仕える決断
「わたしは主のはしためです。」自分は小さな、取るに足らない娘です。しかし主に仕えます。そのような決断によって、神様の御子がこの世に生まれるというご計画が動き出しました。神様は必ず人を通して、ご自身のご計画を推進されようとします。それも、人々から認められるような、能力のある人ではなく、誰も気にもかけないような小さな人を選ばれ、その人を通して、ご自身のご計画を全うされようとされるのです。

主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。  2歴16:9

このクリスマスの物語が小さな少女の決断から始まったように、私たちも今決断が求められています。自分を無にして、「主よ、あなたに仕えたいのです」と決断をするのであれば、私たちの人生を通して、大きな神の御業が起こることでしょう。神様に仕える決断をしましょう。

2、 自分を変える決断
マリヤは「お言葉どおりこの身になりますように」と答えることによって、自分が今までと変わってしまうということを恐れませんでした。人が変わるためにはその人の外側ではなく、心の内側から変わらなければなりません。

誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しくつくられた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、全てが新しくなりました Uコリ5:17

人は自分の力では決して変わることはできません。聖霊の力によらなければ、人は新しく生まれ変わることはできないのです。この聖霊に委ねて、自分を変える決断をしていきましょう。

3、 世界を変える決断
「神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」
私たちは自分が幸せになるためだけではなく、周りの人々に良い影響を与えるために救われたのです。神様はあなたを通してこの世界に光が広がることを願っておられるのです。救い主を待ち望んでいるのは、なにも2千年前のユダヤの人々だけではありません。今、現在の日本にも数多くいるのです。

私たちクリスチャンが主に従い、主に用いられたいと決断するならば、私たちの周りの世界が動き出すはずです。

主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。ルカT:45

今年一年で皆さんはどんな決断ができたでしょうか。またどんな決断ができなかったでしょうか。小さな女性の決断が、やがて全世界の祝福のスタートとなりました。私たちもほんの小さなことであっても神様のために何かをする、自分の力でするのではなく、神様の言葉が自分に働くように、委ね切っていくという決断をしていきましょう。

今週の暗証聖句
「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」 ルカ1:45

その184 クリスマスの前触れ-神は見放さない 

December 02 [Sun], 2018, 13:29
「クリスマスの前触れー神は見放さない」 

ルカ1章5−25節

1:5 ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。
1:6 ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行っていた。
1:7 エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていた。
1:8 さて、ザカリヤは、自分の組が当番で、神の御前に祭司の務めをしていたが、
1:9 祭司職の習慣によって、くじを引いたところ、主の神殿に入って香をたくことになった。
1:10 彼が香をたく間、大ぜいの民はみな、外で祈っていた。
1:11 ところが、主の使いが彼に現れて、香壇の右に立った。
1:12 これを見たザカリヤは不安を覚え、恐怖に襲われたが、
1:13 御使いは彼に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。
1:14 その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。
1:15 彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、
1:16 そしてイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます。
1:17 彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」
1:18 そこで、ザカリヤは御使いに言った。「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。」
1:19 御使いは答えて言った。「私は神の御前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この喜びのおとずれを伝えるように遣わされているのです。
1:20 ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。」
1:21 人々はザカリヤを待っていたが、神殿であまり暇取るので不思議に思った。
1:22 やがて彼は出て来たが、人々に話すことができなかった。それで、彼は神殿で幻を見たのだとわかった。ザカリヤは、彼らに合図を続けるだけで、口がきけないままであった。
1:23 やがて、務めの期間が終わったので、彼は自分の家に帰った。
1:24 その後、妻エリサベツはみごもり、五か月の間引きこもって、こう言った。
1:25 「主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました。」

 神様はいきなり御子を誕生させたのではなく、イエスの到来と働きのための道備へを用意しておられました。それがバプテスマのヨハネの誕生です。彼の誕生には「わたしは決して見放さない」と言う神様からのメッセージが込められています。

1、 神は忠実な者を見放さない。

1:6 ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行っていた。

ローマ帝国に支配され、ヘロデというユダヤ人ではない暴虐な王がいたイスラエルは希望のないところでした。当時のエルサレムには、2万人の祭司がいましたが、祭司であっても、ひどく堕落していた人がたくさんいたのです。そのような中で、「神の御前に正しく」生きていた2人は、神様にとっても特別な存在でした。この2人に神は救い主誕生の前触れとなる「希望」を与えられたのです。
悪い時代にあっても、神様はご自身に忠実な者を決して見放すことはありません。神様を信じ、忠実に仕えるならば、希望が与えられます。

2、 神は祈る者を見放さない。
祭司たちは組ごとに、順番に、神殿で奉仕をすることになっていて、2年毎に1週間の周期でその機会がおとずれました。神殿の奉仕の担当はくじで決められていました。香壇の奉仕をしていたザカリヤに御使いが表れます。

1:13 「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。」

ザカリヤとエリサベツには子がありませんでした。長年祈っていたのでしょう。神様は御使いを通して、子どもが与えられるという、彼らの長年の願いが実現することを宣言されました。
 クリスマスの前触れには、神は祈って求める者を決して見放さないと言うメッセージが込められています。この一年、どれほど祈ってきたでしょうか。叶えられた祈りがある一方で、叶えられていない祈りがあるかもしれません。でも諦めてはいけません。神は必ず祈りを聞いてくださいます。

3、 神は人間を見放さない。
 クリスマスは、全人類に対する「神は決して人を見放さない」と言うメッセージです。世界がますます混乱し、暗闇が増し、希望を見出せなくなる中で、神様は私たちに希望を与えてくださっています。それが主キリストによる救いです。神様はヨハネが生まれる前から、彼の生涯に明確な使命を与えておられました。神様は私たちの人生にも、計画を備えておられます。このクリスマスのシーズンそのことを覚え、感謝しましょう。そして最後まで希望を持ち続けましょう。

今週の暗証聖句
この人はあかしのために来た。 光についてあかしするためであり、 すべての人が彼によって信じるためである。彼は光ではなかった。 ただ光についてあかしするために来たのである。ヨハネ1:7-8

その183 神の霊によって 

November 18 [Sun], 2018, 10:30
「神の霊によって」

ゼカリヤ書4:6
『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の【主】は仰せられる。

第二神殿の工事が色々な妨害にあって15年間中断させられました。そのような時に登場して人々を励まして、神殿完成に導いたのが、このゼカリヤという預言者でした。ですからこの御言葉は、直接的な意味で言うと「中断されている神殿再建を果たすのは、あなたたち人間の権力によるのではないよ。わたしの霊、神の霊によってできる」という意味なのです。

1、神の霊によってすべてが始まる。 
神殿の再建は神の霊によって始められました。でもそれだけではありません。すべてのことが神の霊によって始まりました。天地創造も、人間の創造も、キリストの誕生も、教会の誕生も、すべて神の霊によって始められたのです。
この日本で福音宣教を始められたのも聖霊です。今年再開拓40年となったこのめぐみ教会を始められたのも、神様の霊なのです。人から始まるのではありません。神の霊によって突き動かされた人によって福音が語られ、教会の働きが始まるのです。神の霊なしには何も生まれないし、始まらないのです。神は今この日本の諸教会にも、そして私たちクリスチャン一人ひとりの中にも、何かを始めようとしておられると信じましょう。私たちが、「聖霊様、どうかこの教会に、そして私のうちに、ご自身の業を始めてください」、と祈るのであれば、必ず神の霊が何かを始められるに違いありません。すべてを始められる神の霊を求めましょう。

2、神の霊はわたしたちと共におられる。
工事が中断し、途方に暮れている民たちに預言者は神が共におられるということを思い出させました。彼らはきっと状況の厳しさに挫けて、諦めていたのでしょう。しかしゼカリヤは「神が始めた働きから、神が離れるわけがない。私たちには神が共におられるのだ」と励ましたのです。
聖書は私たちがイエス様を信じたときから、神の霊が私たちのうちに入ってくださって、住んでくださるのだと証言しています。私たちは、神の霊といつもともにいることができます。自分にはできないことがあったとしても、神様にできないことはありません。ずっと一緒にいてくださる聖霊を頼りましょう。生涯を通して聖霊を呼び求め、聖霊に頼り、聖霊に導かれて歩むことを求めましょう。

3、神の霊が完成する。
神が始められた業ならば、それがどんなに人間の目には不可能なことであったとしても、神が完成してくださいます。あの神殿工事がストップしていたように、しばらく立ち止まって、動かないことがあったかもしれません。停滞して、にっちもさっちもいかなくて、途方に暮れていたことがあったかもしれません。でも聖霊が成し遂げてくださいます。
私たちの人生も、私たちの救いによって始まった信仰生活も、始められたのは神の霊ですから、必ず主の霊が完成させてくださいます。神がこれから私たち1人ひとりの人生に始められることを期待しましょう。神様が始められることは、最後まで神様が一緒にいてくださり、そして神様が責任を持って成し遂げてくださいます。

今週の暗証聖句
わたしはあなたに命じたではないか。 強くあれ。 雄々しくあれ。 恐れてはならない。 おののいてはならない。 あなたの神、 【主】が、 あなたの行く所どこにでも、 あなたとともにあるからである。 」ヨシュア記1章9節

その182 「過越し」の意味 モーセの生涯E 

November 11 [Sun], 2018, 10:30
「過越しの意味」 モーセの生涯E

出エジプト記12:21-27
12:21 そこで、モーセはイスラエルの長老たちをみな呼び寄せて言った。「あなたがたの家族のために羊を、ためらうことなく、取り、過越のいけにえとしてほふりなさい。
12:22 ヒソプの一束を取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血をかもいと二本の門柱につけなさい。朝まで、だれも家の戸口から外に出てはならない。
12:23 【主】がエジプトを打つために行き巡られ、かもいと二本の門柱にある血をご覧になれば、【主】はその戸口を過ぎ越され、滅ぼす者があなたがたの家に入って、打つことがないようにされる。
12:24 あなたがたはこのことを、あなたとあなたの子孫のためのおきてとして、永遠に守りなさい。
12:25 また、【主】が約束どおりに与えてくださる地に入るとき、あなたがたはこの儀式を守りなさい。
12:26 あなたがたの子どもたちが『この儀式はどういう意味ですか』と言ったとき、
12:27 あなたがたはこう答えなさい。『それは【主】への過越のいけにえだ。主がエジプトを打ったとき、主はエジプトにいたイスラエル人の家を過ぎ越され、私たちの家々を救ってくださったのだ。』」すると民はひざまずいて、礼拝した。

1、小羊の血はキリストの十字架のモデル。 
このかもいと門柱に塗られた小羊の血はイスラエルの民にとってはわざわいから免れ、解放されるということを意味していました。モーセの命令通りに、一歳のきずのない雄の小羊を殺し、その血を塗った家は、主が「通り過ぎ」られました。つまり神様の罰を逃れることができたのです。そしてその後彼らを待っていたのは解放でした。彼らはついに、奴隷のくびきから抜け出し、約束の地へと向う旅を始めることができたのです。神様はこの出来事を決して忘れることのないように、儀式とし、年に一度記念して祝いなさいと命じられました。「あなただけではなく、あなたの子孫にも覚えさせなさい」と言うのです。何故でしょうか。それは将来、神の子イエス・キリストが、全人類のための過越しの小羊となるということを理解させるためでした。
イエスは、これらの話をすべて終えると、弟子たちに言われた。あなたがたの知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。人の子は十字架につけられるために引き渡されます。マタイ26:1-2
イエスは、自らが、過越しの小羊として、十字架で血を流され、それが、罪の赦しと解放となることを知っておられたのです。小羊の血が家に塗られているのが目印になったように、私たちの心にイエス・キリストを信じる信仰があるのならば、イエスが十字架で流された血潮によって、私たちも裁かれません。これは、何千年も前から、神様が定められた人類の解放のご計画だったのです。

2、環境ではなく身分が変わる。
この「過越し」によって、イスラエルの民はエジプトを出ることができました。このことが教える意味は何でしょうか。彼らは奴隷でした。過酷な労働を強いられていました。将来に希望を持てませんでした。出エジプトはその苦役から解放されたことを意味します。しかし決して奴隷としての環境がなくなったというだけの意味ではありません。彼らは、エジプトの奴隷から「神の民」へと身分が変えられたのです。(厳密に言えばそのことに気づいたのです)。
 私たち現代に生きる者も、したいと思っていることが出来ず、したくないと思っていることをして、苦しんでいるのだとしたら、ある意味それは「奴隷」の状態です。住んでる場所や仕事を変えたとしても、根本的な苦しみから解放されなければ、人は幸せになることはできません。しかしキリストを信じる者は「神の子」とされます。この世での身分が全く変えられるのです。それは環境や状況に左右されません。どこにいて、何をしていたとしても、神の愛と護りがいつも一緒にあるということなのです。
今朝私たちは、単純に、イエス・キリストの血潮によってあがなわれていることを感謝しましょう。神様の御子の血潮は力強く、もう死の恐怖に怯えることはありません。神様に覚えられ、私たちに待っているのは永遠の命であり、永遠の解放です。そのことを感謝しましょう。

今週の暗証聖句
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。ヨハネ1:12

その181 不正の富で友をつくる 

October 28 [Sun], 2018, 10:33
「不正の富で友をつくる」  イエスのたとえ35

ルカの福音書16:1-9
16:1 イエスは、弟子たちにも、こういう話をされた。「ある金持ちにひとりの管理人がいた。この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された。
16:2 主人は、彼を呼んで言った。『おまえについてこんなことを聞いたが、何ということをしてくれたのだ。もう管理を任せておくことはできないから、会計の報告を出しなさい。』
16:3 管理人は心の中で言った。『主人にこの管理の仕事を取り上げられるが、さてどうしよう。土を掘るには力がないし、こじきをするのは恥ずかしいし。
16:4 ああ、わかった。こうしよう。こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう。』
16:5 そこで彼は、主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、まず最初の者に、『私の主人に、いくら借りがありますか。』と言うと、
16:6 その人は、『油百バテ。』と言った。すると彼は、『さあ、あなたの証文だ。すぐにすわって五十と書きなさい。』と言った。
16:7 それから、別の人に、『さて、あなたは、いくら借りがありますか。』と言うと、『小麦百コル。』と言った。彼は、『さあ、あなたの証文だ。八十と書きなさい。』と言った。
16:8 この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。
16:9 そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。

1、「不正」とは人間の目から見てということ。
パリサイ人や律法学者たちにとって、イエスが罪人や取税人と食事をすることは、「不正」なことでした。あってはならないこと、やってはならないことだったのです。しかしイエスは15章で3つのたとえを通して、神の目から見るならばそれは「不正」ではないと教えました。神は罪人である私たち人間を探し回り、帰ってくるのを待っていてくださる存在なのだと教えられたのです。その視点で見るならば、この使用人がこっそり主人に負債のある人の借金を減額するという行為は、人間(特にパリサイ人や律法学者)の目から見るならば「不正」なことだけれども、神はそうは見ておられないということを示唆しています。これは一体どういう意味でしょうか。

2、「不正」の富で友をつくるとは赦すこと。
 「人の借金を免除する」という行為は人を赦すことを示しています。パリサイ人や律法学者たちは、人々(特に社会的に罪人とみられている人たち)を「神がお許しにならない」と断じて、裁いていました。律法を守ることができないような人を赦して友となるという行為は、宗教家から見れば「不正」でした。しかしイエスは、神に見つけられ、神との関係を回復した弟子たち(クリスチャン)に、人の借金を免じて、つまり赦しがたい人を赦して友となるように教えられたのです。それが「不正」の富で友をつくるということです。神に裁かれて当然の私たちが、人を赦すことで、神に「抜け目なくやった」と認められるのだということです。
 聖書は私たちが人を赦すことと、神に赦されることに密接に関連があると繰り返し教えています。人を赦すなら、神に赦され、同時に神に赦された者は、人を赦すのです。人に対する恨みや怒りを捨てて自由を手にいれ、友をつくりましょう。やがてその友と天国で再会するでしょう。天国はそのように、ふさわしくないのに赦された者たちがいくところなのです。

3.最大の「不正」は十字架。
 神は私たちを赦すために、御子イエスを十字架につけるということをされました。これは、人間の目から見れば理解できないことであり、あってはならない「不正」なことです。しかし神はあえてこのような形で、私たち人間に救いの道を切り開いてくださったのです。そして信じる者たちを友としてくださいました。

ヨハネ15:13 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

私たちも赦された者、キリストの友として、周りの人たちをみていきましょう。神様や自分に対して負債のある人を、免じることによって、友をつくり、ともに天の御国にまいりましょう。

今週の暗証聖句
また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。マルコ11:25

その180 世界に伝えよう イエスの福音 

October 14 [Sun], 2018, 17:53
世界に伝えよう イエスの福音

マタイ28:18-20
28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

世界宣教は、すべてのクリスチャンが関わらなければならない使命です。

1、神の命令だから。
「あらゆる国の人々を弟子としなさい」マタイ20:19
 
 神様の目は地上のすべての国の人々に向けられています。肌の色、言葉、文化にかかわらず、すべての人は皆神の愛によって命が与えられ、生かされています。神様の目から見て愛される資格のない人はひとりもいません。しかし罪が、すべての人の神様との関係を破壊し、苦しみの原因となっています。神様は愛する人々を救い、良い関係を回復されるために、御子を地上に送り、十字架にかけられる罰を負わせました。そしてイエスは三日目によみがえられました。この歴史的事実を信じると告白した人のなかに、神の霊が注がれ、もう一度、私たちは神様の子としての身分をとりもどすことができるのです。今も神様はすべての人を愛し、招こうとしておられるのです。この世界の歴史はいつか終わりますが、新しい世では、すべての国の人々が一つとなって、神様に賛美を捧げます。一人でも多くの人がその場に参加できるように、神様は私たちを用いて、この良き知らせを伝えたいと願っておられます。

2、私たちも誰かに伝えられたから。
 誰かが教えてくれない限り、イエスを知ることはできません。ここにいるクリスチャンすべてが、何らかの形で、誰かに伝えられ、誘われ、聞かされたからこそ、イエスに出会い、イエスを信じる信仰を持つことができたのです。教会の歴史を見るときに、実に多くの人が宣教師として海を渡り、想像を絶する苦闘をしながら、この良い知らせを伝えてきました。今世界中に教会が存在するのは、見知らぬ土地に住む人に、イエス様を伝えようとする熱い信仰と情熱を持った人々が生きてきた証です。次は私たちがこの使命と責任を担わなければなりません。

3、私たちもできることがある。
 「世界宣教」というと、「私にはとても無理だ」と尻込みしてしまうかもしれませんが、私たちにできる「世界宣教」があります。

@ 祈る。
 私たちは海外で働く宣教師たちを覚えて祈りのサポートをすることができます。

A 捧げる。
私たちは宣教師や海外の教会のためにも捧げることができます。

B 国際教会を建てあげる。
 私たちは東京にいても世界宣教をすることができます。世界中のどんな人でも受け入れる教会を建てあげることによって、福音を分かち合うことができるのです。
 一人ひとりが神様から与えられた尊い使命を全うできるように、できることをしていきましょう。

今週の暗証聖句
私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったなら、私はわざわいだ。 1コリント9:16

その179 遣わされる モーセの生涯D 

October 07 [Sun], 2018, 15:25
遣わされる モーセの生涯D

出エジプト7:1-7
7:1 【主】はモーセに仰せられた。「見よ。わたしはあなたをパロに対して神とし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。
7:2 あなたはわたしの命じることを、みな、告げなければならない。あなたの兄アロンはパロに、イスラエル人をその国から出て行かせるようにと告げなければならない。
7:3 わたしはパロの心をかたくなにし、わたしのしるしと不思議をエジプトの地で多く行おう。
7:4 パロがあなたがたの言うことを聞き入れないなら、わたしは、手をエジプトの上に置き、大きなさばきによって、わたしの集団、わたしの民イスラエル人をエジプトの地から連れ出す。
7:5 わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエル人を彼らの真ん中から連れ出すとき、エジプトはわたしが【主】であることを知るようになる。」
7:6 そこでモーセとアロンはそうした。【主】が彼らに命じられたとおりにした。
7:7 彼らがパロに語ったとき、モーセは八十歳、アロンは八十三歳であった。

1、遣わされる者は神のことばを語る。
「あなたはわたしの命じることを、みな、告げなければならない。」 2節

 これは神様のモーセに対する命令でした。前の6章で2回に渡って「パロのところに行って告げよ」と言われ、その度にモーセは「私は口下手です」と神に申し上げるのですが、この7章の冒頭でもう一度モーセに命じているのです。その後を読んでみますと、実際に語るのはモーセではなく兄のアロンです。神様はアロンを立てて、モーセの代わりにパロに向かって語る人としました。しかし、主はあくまでも神の御心を語るのはモーセだと言われたのです。神様が行って語れと言われたことは、何としても語らなければならない。神様は厳かに命じておられます。
 
 聖書が一貫して教えていることは、神様がご自身の働きを進められるときには、必ず人を見出し、その人を遣わすということです。何でもできる全知全能の神は、あえて弱い人間を選び、遣わし、ご自身の言葉を語らせようとなさるのです。この神様のやり方は、今も変わっていません。この21世紀の世界にあっても、神様は同じように人を選び、人にご自身の言葉を語るように励まし、世界に送り出されます。そしてそのために聖霊を与えられると約束されているのです。私たちには準備ができているでしょうか。職場や、家庭や、地域社会で神様の言葉を語る、神様が生きて働いておられることを証言する準備が整っているでしょうか。おそらく誰も、「はい、できています」と答えることのできる人はいないでしょう。皆色々と理由をあげて「私にはできません。私には無理です。もっと他にふさわしい人がいるでしょう」とモーセのように言い訳をするようになるでしょう。しかし神様はあのエジプトで苦しむイスラエルの人々のように、罪の奴隷となり、希望を見出せない人たちを解放するために、私たちクリスチャン一人一人を遣わそうとしておられるのです。「あなたを遣わす」と言われる神様の声に耳を傾けましょう。聖霊の力によって力強い証人となることを求めていきましょう。

2、神の目的は全ての人が神のもとに帰ること。
「エジプトはわたしが主であることを知るようになる。」5節

 これが神様の御業の目的です。神様はイスラエルだけを救うことを目的とされていたのではなく、イスラエルを通して、全世界がご自身を知ることを計画されていたのです。このことを忘れて自分の救いだけで満足したり、ただ奇跡やしるしを見ることだけを求めたりすることは、神様の本質を見失うことになります。神様の願いは人々を驚かせたり、怖がらせたりすることではなく、ご自身が生きて、働いておられる神であることを教え、世界の全ての民が、創造主である神の元に帰ることです。

 ここに私たちクリスチャン、そして教会の存在理由があります。神様の願いは私たちだけが天国に行くことではなく、私たちを通して、御業を表され、全ての人がこの聖書が証言している神様を知ることです。神の光を輝かせる信仰者となりましょう。

今週の暗証聖句
「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」マルコ16章15節

その178 神の愛 

September 30 [Sun], 2018, 10:35
神の愛 

1ヨハネ4:7-12
4:7 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
4:8 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。
4:12 いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

1、神とはどういうお方か。
神様は愛を持っていると書いているのではなく、神様は愛そのものなのだというのです。愛こそ神様のご性質を表すのに最もふさわしい言葉です。

@私たちは神の愛によってデザインされた。
もし神がおられないのだとしたら、私たちは皆偶然に生まれてきた、偶然の産物です。偶然でスタートした人生に、何か立派なゴールなどが存在するでしょうか。私たちは神によって、そして神のために造られました。このことが理解できるまで、人生は決して意味を持ちません。

A人間は愛を必要としている。
私たちは神の愛によって生まれて来たので、生まれながらにして、愛を必要として生きています。実は人を本当の意味で生かすのは、食べ物や着るものだけではなくて、愛なのです。愛には人を生かす不思議な力があるのです。

2、愛とは何か。
神様が御子イエス・キリストをこの地に送ってくださった。それは私たち人間が、罪という神様の愛から離れ、神様の愛を失って生きていく苦しみから救うために、十字架で身代わりの罰を受けさせることによって、信じる者すべてに永遠の命を与えようとされた。これが神様が示してくださった究極の愛であり、ここに神の愛があるのだと、聖書は教えています。教会にあるこの十字架は、単なる飾り物ではなくて、御子イエス・キリストを苦しみの中で、死なせてでも、人間たちを救いたい、守りたいという神様の愛の象徴なのです。

@愛とは行動すること。
神様はただ漠然と、心の中だけで、私たちを愛しているわけではありません。御子イエス様をこの地に送り、私たちの罪の身代わりとなって十字架に付けるほど私たち人間を愛された。具体的に行動してくださった。それが神様が私たちを愛しておられるということなのだと聖書は教えています。

A愛するとは時間を共有すること。
神様は一貫してご自身の愛する者たちと共に生きる、時間を共有することを大切にされています。もしあなたに愛する人がいるのなら、その人と時間を共有しなければなりません。

B愛するとは犠牲を払うこと。
言い換えれば痛みが伴うということです。これこそが愛するということの究極的な意味です。先ほど読みました一つ一つの聖書の言葉が、このことを教えています。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

3、私たちは何をしなければならないか。
私たちは互いに愛し合わなければならない。
行動する愛、共有する愛、そして犠牲を払う愛を、互いに生活の中で実践していきましょう。

今週の暗証聖句
もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。
ヨハネ13:35

その177 人生のパラダイムシフトB 

September 16 [Sun], 2018, 10:27
「人生のパラダイムシフトB」

士師記6:11-16
6:11 さて【主】の使いが来て、アビエゼル人ヨアシュに属するオフラにある樫の木の下にすわった。このとき、ヨアシュの子ギデオンはミデヤン人からのがれて、酒ぶねの中で小麦を打っていた。
6:12 【主】の使いが彼に現れて言った。「勇士よ。【主】があなたといっしょにおられる。」
6:13 ギデオンはその御使いに言った。「ああ、主よ。もし【主】が私たちといっしょにおられるなら、なぜこれらのことがみな、私たちに起こったのでしょうか。私たちの先祖たちが、『【主】は私たちをエジプトから上らせたではないか』と言って、私たちに話したあの驚くべきみわざはみな、どこにありますか。今、【主】は私たちを捨てて、ミデヤン人の手に渡されました。」
6:14 すると、【主】は彼に向かって仰せられた。「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」
6:15 ギデオンは言った。「ああ、主よ。私にどのようにしてイスラエルを救うことができましょう。ご存じのように、私の分団はマナセのうちで最も弱く、私は父の家で一番若いのです。」
6:16 【主】はギデオンに仰せられた。「わたしはあなたといっしょにいる。だからあなたはひとりを打ち殺すようにミデヤン人を打ち殺そう。」

私たちが変えるべき三つ目のパラダイムは「自分は持っていない」です。多くの人が「お金があれば…、家があれば…でも私は持っていない…」と言う考えに捉われています。もう一つは「私は強くなければならない」です。聖書は明らかにこの間違ったレンズを取り外しなさいと命令しているのです。

1、神様の視点で自分をみる。
聖書が私たちに教えていることは、神様は私たちと違う視点で、私たちを見ておられるということです。ギデオンは「自分には人々が一目置くような血統がない。人の上に立てるような経験もないし、年齢でもない。自分は何も持っていない」と主張しました。しかし神様は敵を恐れて、穴の中にいるようなちっぽけな若者、ギデオンを「勇士」と呼ばれたのです。
私たちが自分の目で自分を見る姿と、神様が私たちを見る目は全く違うのです。私たちは自分を見ていつも「自分はあれを持っていない。これを持っていない。あれがあれば、これがあれば。」そのような思いに駆られる存在です。しかし神様は私たちを全く違ったように見ておられ、私たちに近づき、「あなたは勇士だ」と宣言することのできるお方なのです。神様に豊かに用いられるクリスチャン生活を送るために、まず自分自身に注目し過ぎることをやめて、ありのままを愛してくださる神様に目を向けましょう。自分は持っていない、という欠乏感ではなくて、自分は主にあって豊かにされていることを覚えましょう。

2、神様は人間の弱さに働かれる。
ギデオンが「一体この現状は何でしょうか。どうしてこんなことになっているのですか。私たちはあなたに捨てられてミデヤン人の手に渡されています」と言ったその言葉に対して、天使は「今あなたが言ったその力で、行きなさい」と言われました。
 私たち人間は強さを求めます。人から弱いやつと思われるよりも、強いと認められたいという意識が働きます。しかし一方で、人は皆弱さを持っています。大切なことは、私たちがこの弱さをどのように捉えるかということです。見かけだけ取り繕って、強がる人を神様は助けることをなさいません。むしろ自分の弱さを認め、「自分にはできない、でも神様にはできる」と信じる人に、偉大な力を与えられるのです。
神様は人間の弱さを強さに変えてくださるのです。ギデオンの弱さはその低いセルフイメージと自信のなさにありましたが、主は彼を勇士と呼び、そして文字通り勇士へと変えてくださいました。
今自分の弱さを嘆いておられる方はその弱さが、強さに変えられるのです。自分の力に頼らずに、神の力に100%頼る人こそ真の勇士です。自分の強さを誇る、自分の力に頼る、という世の中のパラダイムから解放されて、自分の弱さを誇り、神の力に頼るというパラダイムを持ちましょう。私たちが「足りない、足りない」「自分は弱い、弱い」と嘆くことをやめて、偉大な主に信頼して一歩を踏み出す時に、私たちの周りの世界が変わっていくことを信じましょう。自分が聖霊によって変えられていくならば、自分の周りにも変化が起ることを期待しましょう。

今週の暗証聖句
私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。 ピリピ4:19

その176 人生のパラダイムシフトA 

September 02 [Sun], 2018, 10:30
「人生のパラダイムシフトA」

ルカ10:38-42
10:38 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
10:39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
10:40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
10:41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

私たちが変えるべき二つ目のパラダイムは「他の人が自分の期待したとおりに動いてくれない」という考え方です。この問題は私たちの生活の中で、至るところに現れるものではないかと思います。「子供が思ったように育ってくれない」「夫が思ったとおりに自分にしてくれない」など、私たちの苦しみの原因となることが多いのではないでしょうか。

1、問題は自分の心にある。
イエス様はここで、マルタに劇的なパラダイムシフトを迫ります。「あなたが問題と思っていることはマリヤの問題ではありません。これはあなた自身の問題です。あなたの心が今多くのことに奪われて、思い煩っているのです。」「他の人が期待したとおりに動いてくれない」という問題を「自分の心の問題」へと見方を変えるように言われたのです。このストーリーは決して一生懸命接待をしていたマルタは良くない、あるいは劣った人で、一生懸命イエス様の話を聞いていたマリヤは良い、あるいは優れている人と教えているのではありません。イエス様が問題にされたのは「あなたの心は今どこにあるのか」ということです。マルタも自分の責任を果たそうと一生懸命に頑張っていた。でも不安や心配、怒り、憤りに心を占められると、せっかくのがんばりが報われないことになりやすいものです。そんな気持ちになったら、とにかく私のもとに来なさい、私の言うことを聞きなさい、それを何よりも一番にしなさい、といわれたのでした。

2、緊急のことより重要なこと。
私たちの行動を強く促すものは大きく分けて2種類に分けられます。緊急のことか、重要なことか。勿論緊急で重要なことをするのが1番良いのでしょうが、残念ながら私たち現代人は重要なことではなくて、緊急のことに追いまくられて生きているというのが実情ではないでしょうか。もっと悪いことは、自分の人生にとって重要なことは何かさえ分からないことです。
あなたを今動かしているのは緊急のことでしょうか。重要なことでしょうか。あなたの心を支配しているのはマルタのような緊急事項でしょうか、それともマリヤのように重要事項でしょうか。私たちクリスチャンの特権は人生の重要なことに焦点を当てた生き方ができるということです。イエス様が心の中心におられるなら、私たちは何があっても動じることはありません。

3、他の人のために。
イエス様がその後マルタに教えられたことは、「人が何を必要としているのか考えてみなさい」ということでした。「マリヤは良いほうを選んだ。それを取り上げてはいけません。」イエス様の教えは「この人が何もしてくれない。」という心から「この人に何が必要なのだろうか」という発想にチェンジしてみなさい、ということです。相手を自分の思ったとおりに動かそうと思っているうちは、間違ったシグナルが出て、物事は良い方向には進みません。でもこの人に必要なものは何だろうというレンズで物事を見るようになった時に、正しい、相手を生かすシグナルが出るようになり、物事が変わり始めるのです。

今週の暗証聖句
私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。           ロマ15:2