毛利元就を中心とする安芸・毛利一族を探求します。同時に、元就研究家・福原雅俊の独自の史観から世相を斬る。そして、天衣無縫の旅遊記・映画・文芸評論・作品集。

2005年07月
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青春18切符2005(その3) (2005年09月05日)
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次世紀ファーム研究所(下) / 2005年07月24日(日)
今回の事件で最も深刻なのは、

@母親が、この医学的事実を正面から受け止め理解することができていなかった事。医者は素人にも解るように噛み砕いて説明したと推測できる。母親は、娘の生死に関わる事実が、どうして頭に入らなかったのだろうか。また、その時、父親は、全く無関心に傍観していたのか。

A悪徳商法といえども、糖尿病に対する自社製品の薬効を標榜する商人が、小児糖尿病に関する知識を持っていなかった。薬事法違反うんぬん以前の勉強不足と言わざるを得ない。そこにこそ悪徳商人の悪徳商人たる本質を追求すべきではないのか。

B報道する側の姿勢もおかしい。「重い小児性の糖尿病」という表現は誤解を招く。「軽い小児性の糖尿病」ならインスリン療法は不要とでもいうのか。実は幼少期に通常の糖尿病を発症する可能性は皆無ではないが、「小児性の糖尿病」をわずらっている場合、99%は、通常の糖尿病とは異なる「小児糖尿病」である。その病状に重いも軽いもなく、その病気であれば、インスリン療法が不可欠である。またインスリン療法が行われていれば、血糖コントロール状態の良い、悪いはあるが、合併症の発病や急性の低血糖状態を除いて、普通の生活が可能であり、「重い」という表現には当たらない。

上記のどの側面を見ても、明らかなことは、「小児糖尿病」という難病(かつ奇病)が存在し、通常の糖尿病とは性質も治療法も異なるという事実が、社会全般に知られていない事に問題があるのである。もし社会的に認知されていれば、今回の事件は起こり得なかったのである。

もう少し掘り下げると、知られていないなりに折りに触れ啓蒙されるべきなのに、一見わかったような病名であるため、誤解されやすい事、これも不幸の遠因となっており、小児糖尿病に関する病名自体、見直しが必要ではないか。





 
Posted at 09:04 / 小児糖尿病 / この記事のURL
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次世紀ファーム研究所(中) / 2005年07月24日(日)
20世紀の初めごろまでは不治の病だったが、インスリンの発見により、人工的にインスリンを体内に取り込むことによって、通常通り生活することが可能になった。

但し、インスリンは水に溶けやすいため、飲み薬などでは取れず、いまだにインスリン注射による治療しかない。しかも、食事のタイミングや血糖値の状態をみながら注射のタイミング・インスリンの量を調節しないといけない。

インスリンには、即効性・遅効性などいろいろ種類があり、自己注射である。医者のアドバイスに加え、自分でうまく工夫しないと、血糖コントロール不良で合併症を招くこともあるし、異常な低血糖状態に陥り、意識不明になることもある。

他にも知られていないことは多々あるが、大切なことは、この病気に対してインスリン治療は、生存のため、絶対不可欠なものであり、それを否定する民間療法は成立し得ない、という事実である。


 
Posted at 09:02 / 小児糖尿病 / この記事のURL
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次世紀ファーム研究所(上) / 2005年07月24日(日)
7/18、岐阜県「次世紀ファーム研究所」(堀洋八郎代表)に滞在していた神奈川県の女子中学生が死亡する事件が起こった。

その後、「次世紀ファーム研究所」を巡っては、ワイドショーでも一週間で最も時間をさいて報道された。が、それは、もっぱら堀代表の悪徳商人としての実態を暴露することを目指すものであって、少女が死に至ったという事実に対する掘り下げは不十分、というか、全く考慮が及んでいないに等しい。

その顕著な表われは、少女の病状を「重い小児性の糖尿病」という一言で片付けてしまっている点である。皆さんは、その表現を正しく理解できるだろうか。そもそも「小児性の糖尿病」とは、普通の糖尿病とどう違うのか。「重い」と「軽い」で何がどう違うのか。

まず「小児性の糖尿病」だが、英語では「インスリン依存型高血糖症(略称・IDDM)」といい、日本では医学的には「T型糖尿病」、通称として「小児糖尿病」という場合もある。一旦、ここから「小児糖尿病」で統一するが、病名は名称でしかなく、大切なことは、通常の糖尿病とは異なる病気であるという点である。

小児糖尿病は、体内の膵島という組織からインスリンが(全く、もしくは微量しか)分泌されなくなる病気であり、発生原因は正確には解明されていない。現在、日本では1万人に1人の割合で患者が存在するとされ、近年増加傾向が見られるそうなので、計算上、患者数は1万5人強かと推定される。

発症は男性より女性に多く、年齢的には幼少期に発症することが多い。もっとも集中するのは11才前後である。

事件は12才の少女に起こった。確認が必要だが、発症後わずかな期間しか経過していなかったと思われる。

人体と言うものは、インスリンがないと、血液中の糖分を細胞に取り込むことができないため、放置しておくと、人体は、エネルギー源を食事ではなく、体の脂肪分を燃焼することによって補うしかなくなり、極端にやせ細る。やがて、脂肪も燃焼しつくすと栄養不足で死亡するしかない。また、糖分を摂取できないにもかかわらず食事を取り続けると、無制限に血糖値が上がる。その異常な高血糖状態そのものも、発熱など人体に悪影響を及ぼすため、死期がより早まることにつながる。


 
Posted at 09:01 / 小児糖尿病 / この記事のURL
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造賀への道(下) / 2005年07月21日(木)
細道を上っていくと槇原(字)で国道と合流する。そこからは国道脇に歩道がある。国道と合流する一歩手前が、両町の最高所、つまり峠である。

峠には、鍼灸マッサージの看板を掲げる古風な家があり、大正時代に据えられた石の道標もある。昔は、さながら峠の茶屋の風情であったろう。

が、家は倒壊しそうで、営業がなりたっているようにも見えず、老いた世代とともにやがて消滅するであろうことを予感させる。

思えば、因果な時代を生きている。田舎の近くに住み、田舎の風景に癒される楽しみを覚えたが、田舎はもうすぐ、世の中から消滅し、中世から近世にかけての日本の文化が、誰にとっても実感の伴わない、単なる記録へと遠ざかっていくであろう。

 

 
Posted at 21:47 / Z軸 東広島市内 / この記事のURL
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造賀への道(上) / 2005年07月21日(木)
近畿大学の敷地を横切るように道を選び、山手(字)の車道に出る。

この車道を国道375号線に向って進みながら、右手の細い道へ入っていく。

軽トラックなら通れるほどの舗装道路だが、杵原川沿いに上るこの道は、車が通るための道ではなく、自転車や単車用である。逆に国道375号線は、人が歩くようには出来ていないし、実際、国道を歩く人はいない。きついカーブの坂道を自家用車やトラックがしきりに往来している。

東広島市高屋(大字)と、これから向おうとしている造賀(大字)は、標高差が100mほどある。国道は杵原川に迫る崖面を削って作られたものである。

ただ川の反対側の石挟(字)は、多少の耕作地が広がり、民家が散在する。いわゆる旧道がその中を蛇行しながら、登っていく。車の危険も、蛇の危険もなく、道は舗装され、上りとはいえ傾斜は緩やかで、おまけにのどかな田園風景の中を歩くので、格好のウォーキング・コースである。

造賀方面から、時々男子高校生が自転車で降りてくる。さながら高屋地区の女子高校生のもとへ遊びに出かけているような風情だ。高屋地区は振興の団地があちこちに出来ている。それで人口が急増といえば急増だが、顕著なのは、住人の世代の偏りがあるという点である。一戸建てに移り住んだ時、幼児だった子らが、現在、高校生前後となっている。

この年代の人口ウェートが非常に高いのだ。これは広島県の平均的老齢化と大きく異なる様相を呈している。造賀地区は、過疎化とベッドタウン化のきわどいバランスの上に立っているが、基本的に人口は少ない。そこに棲んでいると、隣町の団地群は、異性交遊の巨大マーケットに見えるだろう。

もちろん、どの町も男女比は、ほぼ均衡しているのだが、男の方が機動的であり、特に行きが下りということで、出かけるには容易なわけである。


 
Posted at 21:44 / Z軸 東広島市内 / この記事のURL
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梵字岩 / 2005年07月21日(木)
近畿大学附属東広島高等学校・中学校の校舎は、まるで中世領主の館のような威容を示しているが、その麓に、梵字岩と呼ばれる巨石がある。実は、この辺りの国人・平賀氏の筆頭家老、名井光叶(みょういみつやす)の墓碑のようである。


その巨岩には、2種の梵字を刻み込まれる。右の種子は、胎蔵界大日如来の慈悲を、左の種子は金剛界大日如来の智徳を表わしている。


名井氏は平賀氏の傍流で、東広島市河内町入野の竜王山城主であった。第12代・名井光叶は、頭崎城(東広島市高屋町貞重)の城主・平賀興貞(尼子系)の股肱の臣であった。

ていうか、どうやら、光叶が平賀一族の中で最もコテコテの尼子系だったようである。享禄3(1530)年、安芸国人・毛利元就を陣営に組み入れることに成功した周防の大内義隆は、他の安芸国人衆に対しても攻勢に転じた。大内義隆は、尼子へ傾斜する平賀氏を厳しく追及した。おそらく平賀家は、大内氏への忠誠の証として、名井光叶に詰め腹を切らせなければならぬ状況へ追いこまれたのであろう。


その後、尼子晴久の逆襲も激しく、天文年間には吉田郡山の毛利元就を襲うこととなる。元就は、尼子氏を迎撃する体制を整える一環として、頭崎城の平賀興貞を夜襲、興貞は入野へ逃亡し、竹林寺の住職として余生を送ることとなる。

竹林寺の本堂前にも、名井光叶の墓とされる宝篋印塔がある。

 
Posted at 21:42 / Z軸 東広島市内 / この記事のURL
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東広島市高屋地区の谷戸地形 / 2005年07月21日(木)

東広島市高屋地区には、鉄器が使用され、人口が急増した頃の弥生遺跡が、そこかしこの丘陵に集中する。

天武天皇が、壬申の乱の戦死者の英霊を祀らんと、全国のクニに一箇所づつ祭祀施設を作らせたことが日本書紀に記録されるが、その記録と符合する遺跡が、そうした団地の一つを造成する際に発見された。

つまり、この一帯は、大和時代における安芸国の中心地であったと考えられる。

中心地で有りえた理由は、当然、農業生産力に求められるべきであるが、この一帯は、決して広大な平野部ではない。

むしろ、緩やかな丘がそこかしこに隆起する盆地である。丘陵には、谷川が葉脈のように枝分かれしながら、斜面を奥深くまで削っている。こういう地形を谷戸地形と呼び、関東平野(山の手)でも多く見られる地形のようである。

これは勝手な憶測だが、丘の緩やかな斜面をさらさらと流れる谷川こそ、天然の灌漑施設であったのであり、農耕の初期段階では、手間のかからない好立地条件だったのかもしれない。


 
Posted at 21:34 / Z軸 東広島市内 / この記事のURL
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