向山氏の『「いじめ」は必ず解決できる』

2009年06月26日(金) 22時15分


『「いじめ」は必ず解決できる−現場で闘う教師たちの実践−』向山洋一氏 2007年3月扶桑社出版

この本には、「教師が、どのようにしたらいじめの実態を把握し解決できるか」が書いてあります。この本から読み取れるのは、『いじめを解決できるのは教師の持つ能力と取り組む意欲・学校のいじめへのシステム次第である』ということです。

「授業が面白くない、まとまりがないクラスにいじめが生まれ、いじめがクラスを支配する。教師の力量が低いほどいじめは生まれ、それに振り回されるのです」

「いじめは、知性の欠如した担任になると続出する。逆に、すばらしい教師になればすぐになくなっていく。」

「子どもの心をとらえるのは、‘知的な授業’であり、‘知的な雰囲気’である。決して‘いじめをやっちゃいけないよ’というお説教ではない。」

「クラスのルールでさえ‘知的なルール’と‘アホなルール’がある。・・・くだらないことを長々とするのはアホであり、くだらないことを止めるのは知性なのである。子どもが頭をふりしぼって挑戦すること、子どもが身体をぶつけてチャレンジすることをクラスの中に取り入れれば、クラスは変わる。」

余談ですが、この文章を読んでいて、『職場の中にも慣習ということで続けている無駄な労力を使う事ってたくさんあるのではないか』と思います。無駄なことを続けることで忙しさに輪をかけていること、正確さをより追求するがためにますます無駄に忙しくしてしまっていること。知性による決断と選別が教育の場だけでなく、どこの職場にも必要なのかもしれません。

「いじめをなくせるのは教師だけである。しかし、いじめがなくなって欲しいと願うだけではいじめはなくならない。また、自分はいじめを許していないと自負するだけでもいじめはなくならない。いじめをなくす‘計画’や‘方法’がないといじめはなくせないのである。」

だから、「いじめをなくそうと努力している先生を支援するには、学校としていじめに対応するシステムをつくっておくべきである。そうすれば、力のある先生・ない先生に限らず、どのクラスの子どもにも手が差し伸べられるようになる。」

この他、この本には、いじめの見つけ方、対応の方法、他の先生方の体験談などが書いてあります。

きちんと対処できる学校・担任の先生と校長先生にめぐり会えれば良いですね。

先日、次女に、「学校の先生になるのも良いんじゃないの」と言ったら、「イヤだね。子どもはうるさいし、言う事聞かないし、親は親でいろいろうるさく文句言うしさ。先生なんて冗談じゃない。」と言うので、『そりゃそうかも』と納得してしまいました。

教師というのは人を育てる立派なお仕事です。志ある若者が職業として選んでくれると良いですね。

また、この本には、「親の態度」についても書いてあります。ここでは、特にその部分について触れたいと思います。

「この本で言う‘いじめ’とは、ちょっとした口げんか、もののはずみのなぐりあいというのではない。長く続く陰湿ないじめ、あるいは、自殺したくなるほどの強烈ないじめを言う。これは、犯罪行為と同じである。理屈抜きに断固として対処しなければならない。」

しかし、「何十人、何百人もの子どもがいれば‘いさかい’‘けんか’‘トラブル’はつきものである。そうした小さないざこざから、子どもはたくましく成長していく。」

「‘小さないじめ’は本当は体験した方がいい。校庭で転ぶような小さなケガを体験した方がいいのと同じだ。‘小さないじめ’‘小さなケガ’を体験する事によって、もっと‘大きなケガ・いじめ’を予防できるようになっていく。温室育ちはやはりひ弱いのである。」

「だから、‘いじめ退治’する中で、小さないさかいまでなくす事には反対だ。そんなのは放っておけばよい。けんかした後に、一緒に遊ぶような状態を、とやかくすべきではない。」

昔から、‘子どものけんかに親は出るな’というのは、こういうことを意味する。最近は、ほんの小さなことにも、親が大声でどなり込んでくることがある。小さなことを大ごとにすると‘自分の子’にはね返ってくるものなのである。」

「そうした親の子をいじめなくはなる。しかしである。子ども達はその子を相手にしなくなる。無視をし始めるのである。無視された方は、物をあげて相手をつろうとする。ぬすみ、万引きをする子もそうしたことが原因になることが多い。運がいい時はそれは発見されるのだが、そうした親に限って‘うちの子はそんな悪い事はしない’と、他人に罪をかぶせる。かわいそうなのはその子で、ますます誰からも相手にされなくなっていく。・・・ちょっとしたいさかいや悪いことをすることは誰にでもあることなのだ。大きな傷などの場合は別だが小さないさかいに親が口を出すべきではない。・・・」

<小学生の作文より−見事な母親の対応>
子どもにとって深刻な事件も、見事な教育の場にしてしまう立派な親もいる。


大谷聡くん(小学校2年)

 ぼくの足のうらには、あざがあります。左足の太もものうらで、半ズボンをはくと、ちょうど見えるところです。今まで、だれも、あざのことを言う友だちはいなかったので、すっかりわすれていたのに、2年生になって、
「足にきたないものをつけている」
と言われて、気になりはじめました。何度も言われると、
「ぼくは、きたなくないよ」
と、言いかえそうと思いました。でも声にならなくて、くやしくて泣きそうになりました。
家に帰って、
「お母さんのバカ。何で、ぼくの足にへんなものつけて生んだんだ」
と、言うと、お母さんは、あっけらかんと、
「あっ、足のあざのこと。あれはお母さんの子どものしるしなんだよ」
と、言ったので、ぼくは、ずっこけました。そして、お母さんは、あざのことを話してくれました。
 弟2人にも同じようなあざがあること。・・・
 いろいろ話しながら、弟たちの足や、おなかを見ると、だんだん心がおちついてきました。・・・いちばんうれしかったのは、お母さんにも・・・青いあざがあることでした。1ばんわらえたのは、ぼくのあざを見つけた時のお母さんのようすです。・・・・
 ぼくだけでなく、お母さんもなやんでくれていたなんて、うれしくなりました。
「地しんがあったって、はなればなれになっても、このしるしがあれば、お母さん、聡たちをすぐにみつけてあげるからね」と、とくいそうに言うお母さんを見ていると友だちに言われてくやしかった気持ちは、どこかにとんでいきました。
 今ど、何か言われたら、
「くやしかったら、あざをつけてみろ」と、言ってやろうと思いました。「これは、ぼくのうちの子どもというしるしなんだ。いいだろう」と、自まんしたくなりました。


「確かに、いじめは昔からあった。が、いじめで自殺することはほとんどなかったろう。また、自殺するまでいじめることもなかった。従って昨今のいじめは、‘現代的ないじめ’と言える。・・・小さい時から、‘ものの見方、考え方の基本’を教えられていないことが最大の原因だと思っている。おそらく、この面の教育レベルは世界の国家の中でも下位に属し、しかも急速に崩れつつある国と言っていいだろう。」

「いじめは、脳の根幹を攻撃する。‘自尊心’は脳幹が担当している。‘自尊心’は、人間が存在するのに不可欠な心である。‘自尊心’は理性ではなく本能なのである。従って、自尊心への虐待を理性(理屈)で、押しとどめてはならない。過度な我慢の要求は、危機である。人格の破壊をもたらす。いじめられたら、親・教師がかばうのは当然である。それとともにいじめに負けない強さも育ててやることも大切だ。」

先日、TV番組のビューティコロシアムを見たのですが、容姿のせいでいじめにあうシーンが出てきます。いじめにあった本人には引きこもったり、つらい目にも何度もあって、かわいそうという同情が寄せられます。しかし、番組としていじめた方へのコメント(教育的配慮)が何もなかったのです。それは、おかしいのではないかと思いました。いじめがテーマの番組ではないので、そこまで配慮されていないのかもしれませんが、世間一般にそれらの行為を容認しているかに受け取れます。人の容姿についてけなすような事を言ったり暴力的な行為は、人間としてレベルの低い行為であるということをきちんと付け加えて放送すべきだと思いました。こういう教育的配慮のない番組は見せない方が良いのかもしれませんが、もし見た時には、親は、良い行為・悪い行為をその場で話した方が良いと思いました。


「いじめは、子どもを‘自然のままに’放置すれは必ず生じる。自然のままの子どもの社会は弱肉強食の世界であり、弱肉強食の世界はそれなりの社会構造を作るのである。

人間は、本来‘群れ’として生きる動物であり、その時々の文化の程度によって、できあがるしくみは異なる。文化の程度が低ければ、その社会構造は‘弱肉強食’になるだろう。近代以前は、ほとんどの国は、こうであったと思える。奴隷が存在したのも、身分差別をうけた人が存在したのもそうであった。」

「昔は、クラスいじめの他に、地域遊び集団や多数の兄弟によるストレスがあり、人間を強くしてきた。今や地域遊び集団はなくなり、兄弟も激減した。鍛えてくれる集団がなくなってしまった。学級集団は、貴重な経験を与えてくれるのである。

どれだけいじめられたって‘本人がそれをはねかえす強さ’を持っていれば、問題はない。人間の強さは、どこから生まれてくるのだろうか。それは、自分に対する自信である。人間の可能性に対する確信である。いかなる人も夢を描き努力すれば、夢はかなえられるという確信である。その時、人は、少々のことではへこたれなくなる。また、人間の可能性を確信した人は、他人をそまつにしない。相手をひどく傷つけるまでのことはしない。人間性が行動を制御する。

人間が最も人間らしい部分に目覚めるということこそ‘いじめの解決’のもう1つの重要な部分なのである。」

<子どもに教える人間として守るべき4つのこと>

@相手のことを心から考えよう
A世のため人のためになることをしよう
B弱い人をかばおう(弱い者いじめはするな。弱い者いじめをするのは、人間の屑(くず)だ)
Cまず、自分のできることをやってみよう(世のため人のためになることをするのだが、大きいことはできないので)


小1になった息子も小さないさかいを起こしてくるようになりました。思い起こせば娘達にも小さないさかいは多々あったように思います。

小さないさかいは話をよく聞いて見守る。
子ども自身がいじめられていると感じているなら早期に対応する。

判断が微妙に難しいですが、これが親の態度として大切なことのようです。

ただし、この本の対象は小学生以上です。

幼児においては、1つ1つのトラブルにおいて、その場で良い悪いの基本ラインを教える必要があると思います。



「いじめ」は必ず解決できる―現場で闘う教師たちの実践「いじめ」は必ず解決できる―現場で闘う教師たちの実践
(2007/03)
向山 洋一氏

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童話『とべないホタル』

2008年05月21日(水) 11時30分
2008年04月19日(土)
 『とべないホタル』小沢昭巳氏著 昭和63年ハート出版発行

本の間にはさんであった本の広告を見て、この本の存在を知りました。
「とべないホタルって本知ってる?」と子どもに聞いたところ、「うん、知ってるよ。学校の図書館にあったよ。読んだことあるよ。今度借りてこようか?」と言うので、借りてきてもらいました。

 この本のあらすじは・・・、

 羽に障害があるホタルがいました。仲間たちは、いっしょに飛ぼうとアイデアを出し合い、障害のあるホタルは飛ぶ努力を重ねますが、飛ぶことができません。そして、仲間たちは障害のあるホタルにどう話しかけたらよいのかさえ分からなくなり、障害のあるホタルの側に近寄らなくなりました。
 そんなある日、人間の子どもがホタルを捕まえに来ました。障害のあるホタルを捕まえようとした時、別のホタルがその子どもの手にとまりました。この仲間のホタルは、障害のあるホタルの身代わりになって自らその子どもに捕まったのでした。
 捕まえた子どももまた、姉妹思いのやさしい子どもでした。足の障害を持つ外に出られない妹に、ホタルを見せてあげたかったのでした。ビンからだされたホタルは、事情が分かっているかのように、しばらくの間きれいに光りながら部屋の中を飛びました。縁側の扉はあけられていて、涼しい心地よい風が吹き込んでいました。・・


 この本は、昭和30年、当時富山県の小学校に赴任したての若き熱中先生だった小沢氏が、6年生のクラスのいじめに頭を悩ませていた頃につくったお話だそうです。

〜以下、この童話を読んでくださった皆さんへより〜
 
 「群がるホタルたちの中に、1ぴきだけ光ることのできないホタルがいるのです。そのホタルが、クラスにいた落ち込んでいる子、例えば、身体に障害がある子らの姿とダブりましてね。・・」
 その頃、クラスの壁新聞に‘先生のコーナー’があり、小沢氏は、その思いを物語りにして書いた。それが『とべないホタル』である。
 クラスの級長だった鷲山氏は、その当時の印象をこう語る。「あの話は、1つの物語として受け止めていました。話自体にはいじめのことは何も書かれていませんから。先生がいじめのことを訴えているとは、気がつきませんでした。」
 
 それから32年が経ち、昭和62年小沢氏は同じ小学校の校長先生になっていた。
 その年の5月、2年を受け持つ若い先生から、いじめの相談が持ち込まれた。小沢氏は思案に暮れた。思い切ってPTAの懇談会でその悩みを打ち明けた。すると、かつての教え子の母親からこんな意見が出された。「校長先生、昔、校内放送でホタルの話を聞いたのですが、あれを話されたらどうでしょう。」・・30年以上も前に、忘れ去られたはずの童話が、脈々と彼女の中に生き続いていたのだ。
 こうして、小沢氏自身、半信半疑のまま、『とべないホタル』を2年生のクラスへ行き、読んで聞かせた。・・
 「子どもたちの間で、いじめに対する反省の色が見えてきたんです。この話には、いじめのことは、何も書いてありませんが、落ち込んでいる子の立場がいかに悲しいかが分かったようです。」・・
 「あなたのクラスに『とべないホタル』は、いませんか。」が子どもたちの合言葉になり、いじめを解消していった。・・

 それ以降、2つの新しい童話が誕生した。
 やはりいじめをテーマにし、平成元年に出版された『一人ぼっちのオオカミと七ひきの子ヤギ』。翌年3月に出版された『さるの嫁っこ』だ。
 『とべないホタル』が、落ち込んだ子の悲しみを描いたものとすれば、『一人ぼっちのオオカミと七ひきの子ヤギ』は、いじめっ子の心の片隅にも寂しいものがあることを。そして、『さるの嫁っこ』は、心ならずも他人をいじめたあとに残る心のキズを描いた。・・

 「子どもたちは、競争社会の中で、どんどん孤立しているのを感じます。この話は、『君たちは一人ぼっちじゃない』という、子どもたちへの語りかけなのです。本になった時には、こんなお説教みたいな話が出版されるなんて、恥ずかしいと思いましたが、あるいは、現代人の中にそれを求める気持ちがあったのかもしれません。」

 〜それ以来、『とべないホタル』はパート2も出版され、今ではパート『12』まであるようです。

〜この本には、当時小学校3年のお友達が書いた感想文も掲載されています〜

「ボクも勇気あるホタルになりたい」

 ・・・略・・・
 ぼくが一番すごいなと思ったのは、とべないホタルが人間の子どもたちにつかまりそうになった時、スッーととんできて、とべないホタルのみがわりになったホタルのいたことです。ぼくだったら、つかまったらころされるかもしれないと思って、そんなすごい勇気はでない。ところが、ほかのホタルたちも次々に、「ぼくが、今、みがわりに出ていこうと思っていたんだ。」「わたしだって、いくんだったわ。」といっているのです。1ぴきだけの勇気でなかったのです。とらえられたガラスびんの中のホタルは、「いいよ、いいよ、みなさん。ぼく、すぐ帰ってくるよ。」といって、パァッパァッと光っているのがとてもきれいで、見えるようでした。
 つかまったホタルは、病気でホタルを見にいけない子どものところへつれていかれました。病気の子のおねえちゃんやおとうとたちは、どうしてもその子にホタルを見せてやりたかったのです。
 ぼくは、校長先生のことを思いました。校長先生は、病気の子にホタルをとってきてやるやさしい子どもになってほしいから書かれたのかなと、初め思いました。でも、家に帰って、先生からもらったお話のプリントをもう1回自分で読んでみると、ぼくたちに、勇気のあるホタルになってほしかったのかなあと考えました。
 勇気のあるホタルたちは、とべないホタルをばかになんかしませんでした。いつも、「おなかに、ぐっと力を入れて。」とか、「ほら、そこで足をひっこめて。」とか、いっしょうけんめいにはげましていました。すぐにみがわりになったのではなくて、はげまして、はげまして、もうどうしようもなくなった時に、みがわりになったのです。
 とべないホタルも、なみだをいっぱいにした目でそれをじっと見おくっていました。「みんなが、ぼくのことを考えていてくれたんだ。みんなが、みんなが。」
 とべないホタルは、自分の羽のことなんか、ほんとうにどうでもいいと思うようになってしまったのです。
 ぼくは、どっちかというと、こまった友だちがいても、どうしようかなあとまよってしまいます。でも、この話を読んで、こんなホタルになりたいなあという気もちがいっぱいになりました。


子どもに読んであげる本のリストに加えてみてはいかがでしょうか。私は、自分の子どもをいじめっ子にしないために、思いやりを持った子どもに育てるために、このシリーズを寝る前の時間に読んであげようと思います。o(^-^o)

2008年5月5日追記
 シリーズ3の―月見草のまつり―の「この童話を読んでくださったみなさんへ」には、「思いやりを生む」状況について考察しています。

「ハンディを持った子がクラスにいるとしますね。先生や親の配慮さえあれば、まわりの子は、みな、その子に関心を持ち、何かと世話をするのです。そうやっているうちに、その障害児ばかりでなく、まわりの子たちの心も、みんなやさしくなってくるのです。幼稚園でさえそうなんです。」

「そんな空気をつくるための一番土台となることは、仲間の話をじっと聞く、ということですね。」

「物語の中では、ホタルの仲間たちが、互いのことを、まるで自分のことのように考え、理解しようとする姿が描かれる。−まず、相手の話に、よく耳を傾けることです。そうすることは、語る側にとっても、聞く側にとっても、自分について考えることになり、新しい自分を発見することが出来ます。自分の中に相手と共通の幻想が広がるからです。−そうして、語り合ううちに、光れないホタルの体験も、それを聞いている者の体験も1つになり、一種の幻想を抱く。その共通の幻想がお互いの心に生まれた時・・・‘思いやり’とはこのようにして芽生えるのかもしれない。」

「いじめや差別などの劣悪な人間関係が生じてしまうのは、このような‘思いやり’の土台を育ててこなかったことにあるのではないか。」

「勝手なおしゃべりを控え、じっと聞き手に徹することも、仲間同志には大切なことだ。それらが、‘仲良し’になるためには必要なのだ。そして、‘仲良し’の中でこそ、子どもたちの健全な‘自我’の成長が可能になるのだ。」

ここには、‘たとえ自分が主張したいことがあったとしても、まずは、お友だちの話を最後までじっと静かに聞くことが出来る子ども。お友だちの話を理解し、自分の体験のように自分の中に取り込むことができる子ども。そんな子どもが思いやりの心を容易に獲得できるのだ’と書いてあると、私は理解しました。
 
思いやりをもつ子どもに育てるためには、人の話を聞くことが出来る子どもに育てること。
それはどこかに既に書いた記憶があるけど・・、人の話をきちんと聞くことが出来る子どもに育てるためには、まずは、親が普段の生活の中で子どもの話をきちんと聞いてあげて理解を示す姿勢を持つことであるので、子どもが思いやりの心を持てるかどうかは、結局は親の姿勢次第ということのようです。

新年度になり、クラス替え、先生がかわり、皆様のお子様の様子はいかがですか。
我が家の次女の日記には、「どんな先生が担任になるかは、自分の人生を左右するくらい大きな出来事だ」と書いてありました。それくらい子どもたちは相性の良い先生を希望しているようです。 
 また、次女にとっては、やっと本音を話せるようになった保健室の先生が突然退職されてしまったことがショックであったようです。子どもであっても、‘この大人は信頼できるのか?’と常に人間ウォッチするらしいです。‘保健室の先生だから’という肩書きだけで単純に心を開くということは無いらしいです。

 幸い、次女の学年の担任の先生は、皆、次女にとっては楽しい、授業でも常に興味をもってのぞめるように工夫をしてくれる先生方のようで、もちろん怒る必要のある時はビシッと怒るというメリハリのある方々で、『昨年と同じメンバーの学年か?』と、不思議に感じるほど、‘今日はこんな楽しいエピソードがあった’という話を聞く機会が増えたように思います。

 「人生 まじめに やりなおし ワン・ツー
 人生 のんびり やりなおし ワン・ツー
 人生 ふざけて やりなおし ワン・ツー」

上記のかけ声は、体育の時の体操のかけ声だそうです。
それから、次のようなものもあったようです。‘アルプス一万じゃく’の歌にあわせて踊るのだそうです。

「私が うわさの わがまま5年
 毎日 ごーねて たいへんだ ヘイ!
 ラーンラランラランラランラ
 ラーンラランラランランラ
 ラーンラランラランラランラ
 ランランランランラーン ヘイ!」

歌と振り付けと共に見せられると、楽しくて笑ってしまいます。

 とび箱の順番待ちの子どもたちには、その場で各自好きなように動いているようにさせるのだそうです。駆け足のようにしたり、ジャンプしたりするのだそうです。手持ち無沙汰でさわいだり、勝手に動き回ったりしないよう工夫されていると感心します。

工夫満天のお笑い力のある先生で良かったです。o(^-^)

2008年5月17 日追記 ‘お友だちを理解すること ’
 昨日の保育園の帰りに息子が私に言ったことです。

 「ママ、前ボクのほっぺをひっかいたお友だちがいるでしょ。そのお友だち、今日も他のお友だちと先生をひっかいたんだよ。その子、どうも言葉がうまくしゃべれないんだ。言葉がうまくしゃべれないと、自分の言いたいことが伝わらないから、ひっかいたり、たたいたり、けとばしたりしちゃうんだよね」「そうだよ」「だから、ボク、月曜日に、‘その子を理解しよう会’を開こうと思うんだ。その子は本当は仲良く遊んでほしいのかもしれないんだ。でもみんなひっかかれるから側に寄らなくなっちゃうんだ。今だってひっかいちゃったから、先生に外に出されてる。かわいそうだよ。仲良く遊んであげられるようになれば、ひっかくこともなくなるんじゃないかな」

 「うん、そうだね。よくそんなこと考えついたね。すごいじゃない。やってみな。でも、もし、そう皆に話しても、仲良くなるまでにまたひっかかれたりしたら、お友だちは‘やっぱりできないよ’って近寄らなくなるかもしれないよ。それでも、自分はがんばって遊んであげられるのかな?」「うん」
「遊ぼうと誘った時に、自分がやりたいことではないことをやりたいと言われたら、その子がやりたいことを優先して遊んであげられるのかな?」「うん、がんばってみるよ」「そう、がんばってみな」

 5歳の息子がこんなことを考えるとは本当に驚きました。『私のブログ読んでるのか?』って思ったほどです。普段の保育園の先生の言動から、『そうした方が良い』と感じたのでしょうか・・。

 先日、「とべないホタル4」を読んであげたのですが、ちょうど言葉の通じない他の種類のホタルの気持ちを考えるという内容でした。1回読んであげただけでそれを理解したのでしょうか?『子どもの能力というのは、はかりしれないものだな』と思った出来事でした。

 大人でも難しいこのお友だちとのかかわりを、はたして息子はどのようにしていくのでしょうか・・・。
 
04/26 09:50 ★--ほっぺのキズ
 ほっぺの傷を気にされて治療の仕方を調べていらっしゃる方がいらしたので、書いておきます。
 新年度になり保育園などでクラスのメンバーやお部屋、受け持ちの先生が変わると、不安が増強し落ち着きがなくなる子どもが出てきます。新しい環境に皆が慣れれば落ち着くのですが、それまでの間にお友だち間で、ほっぺなどにひっかき傷を作ることが多くなります。
 我が家の息子も同じクラスのお友だちも、この4月当初、年小のクラスのお友だちにひっかかれてほっぺに傷を作りました。
 1センチ位の深さ1ミリくらいのものですが、最近の傷の治療は、‘保湿する’のだそうで、保湿性のある軟膏を塗り、ラップを貼り、テープで抑えるという方法のようです。
 私は以前にもらっていたゲンタシン軟膏を塗りラップをしました。2日くらいです。保育園の看護師さんは、オロナイン軟膏でも良いと言っていました。
 ま〜、痕はまだ消えずに残っていますけれどもね。若いからそのうち消えるでしょうとは思います。
 
2008年5月21日追記
 昨日、保育園の先生に、息子がそのお友だちにどのように関わろうとしているのかを聞いてみました。
 「お昼寝の時に、寝かしつけるための背中トントンをしたり、起こす時の声かけをしたりして、やさしく接してあげている。」「小さい子にひっかかれたのは、おそらく、あれが初めてで、本人にとっては、そうとうショックな出来事だったと思いますよ。‘何でそんなことするの??’的なね。」 とのことでした。皆にも理解してもらおうという働きかけはしていないようでしたが、自分なりに出来ることをしているようでした。息子に聞いたら、「ボクはやさしくしているので、ボクには乱暴なことはしないよ」と言っていました。

 この春、年長組みになったお友達はそれぞれに、小さいお友達のお世話をしてあげようとがんばっているようです。しかし、自分の思いとは別に、そのお友だちの思いというのも存在し、自分が良かれと思ってやってあげようとしたことや声かけをしたことが、拒否されてしまったり、泣かれてしまったりと困惑してしまう場面に直面することが増えているようです。どんなに小さなお友だちにも‘気持ち’があること。そしてそれは、同じ時を過ごしていたとしても必ずしも自分と同じではないということを、感じ、学んでいるようです。



Only one   (* ̄ー ̄)

2007年09月11日(火) 11時50分
2006年05月06日(土) 09:50
   Only one ~他人と違う自分~ 

 3歳位になると、友達と遊ぶ事を楽しめるようになります。 
 しかし同時に、他人と自分を比べて、「なぜ違うのか」と疑問に思うようにもなります。  
子供の身近にも、身長が低い・太っている・天然パーマの髪・母子家庭・父子家庭・我が家のように外国籍の親を持つなど、劣等感を持ちやすい‘違い’があります。
 
 そんな時は、胸をはって堂々となぜ違うのかを答えてやって下さい。父親・母親の自信ある何事にもゆるぎない態度を見せてあげてほしいと思います。

  『五体不満足』という本があります。                 
 先天奇形の体で身体肢障害者として産まれた息子を、この母親は「かわいい」と感じ、たくさんの愛情をそそいで、健全な精神と社会的に自立する力を備えた息子に育て上げました。このご両親を私は尊敬します。もし自分がその立場だったら・・と想像すると、その現実を受け入れられるようになるまでに、時間がかかるような気がします。
 
 現代は、超音波診断装置があるので、妊娠の中期になればある程度の奇形は発見されるようになりました。大学病院であれば、かなり細部までチェックする事ができます。発見した時期が早くて、その奇形を親が受け入れられない状態であれば、子供としてこの世に誕生することはありません。身体に大きな奇形として表れにくい染色体異常であっても、妊娠初期に羊水検査を行えば、発見する事ができます。
 
 友達との違いを語るのに、先天奇形は極端な話です。しかし傍から見ればたいした事ではないと思える事でも、子供が劣等感を持ってしまったら、それはたいした事では済まなくなります。この本の著者の母親のように、「違いは‘個性’」と前向きな姿勢を持ちましょう。親の姿勢次第で、どんな状況・環境であっても子供は健全に育つのだと思います。 

 今日TVで、片足が足首の所から下が成長せずに産まれ、それでもそのハンデを克服して義足で上手にサッカーをしている男の子を見ました。その子が産まれた時、母親はショックでなるべく足を見ないようにしていたそうです。しかし祖母が母親に言ったそうです。「子供の足をガーゼで隠して育てる事はしない事。ご近所の皆さんにもこのような足の子供が産まれた事をちゃんと話して育てなさい。そうしないと子供がかわいそうだから。」と。母親は祖母の言う事を守って育てたそうです。ここまで育つまでには色々な葛藤もあったと思います。でもサッカーをやる事で乗り越えられているようでした。祖母の一言は、母と子供の心を救ったように思います。残念ながら癌でお亡くなりになったそうですが、すばらしい方であったと思います。   (2006年10月26日)

 「負う」ということ  by『育てるものの目』津守房江著 婦人の友社

 津守氏は、子育ての傍ら障害児施設で働いていたことがあるようです。その時のエピソードがここに書いてあります。

 聖書に「すべて重荷を背負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。(マタイ伝11章)」という言葉があるそうです。彼女はある時「休ませてあげよう」の意味が、「荷をおろして休むという意味ではない」事に気づいたそうです。「ではどうやって荷をおろさずに休むことが出来るのだろうか。それについては、共に重荷を背負って下さる方があるから、休みが与えられるといわれている」のだそうです。  以下本文より
 
 障害児のグループで、私は歩けない3歳の女の子と、その母親と1年半付き合ってきた。女の子が母親から離れないので、保育室にいてもらったが、母親は、時々女の子を見ないで遠くを見るような、屈託のある表情になった。女の子は遊びながらでも、その表情にぶつかると、泣き声を出して母親の方へ行った。母親が、「ちょっとこの子から離れて、コーヒーの1杯でも飲みたいと思う」と言われるのに、私も全く同感した。何とかして母親に控え室へ行って、くつろいだ時を持ってもらいたいと思った。
 ある日母親が保育室から出て、女の子と私は2人で過ごした。母親がなかなか戻ってこないのを知ると泣き出した。私はこの子をおぶって長い時間、庭を散歩した。泣きながら寝入ってしまった時、母親は戻って来て、私からこの子を抱き取ると「ママは意地悪するつもりじゃなかったのよ」と言った。それから私に、「きっと私が必要なのでしょう」と言われた。自らこの子を背負って行く気持ちが感じられ嬉しかった。
 この頃から女の子の気難しさも少なくなって、楽しみな存在になってきた。この子の状況がよくなった訳ではないのに、楽しく過ごせるようになってきた事が不思議であった。幼いながら重荷を背負った子は、母親がその子を受け入れ、共に生きて行こうとする時、明るく生き生きとしてくるのである。
 自分に与えられた荷をおろしてしまうのではなくて、イエス様が一緒に背負って下さろうという事は、何と大きな慰めであろう。そして本当の意味で教育的な事だと思う。

2007年09月11日追記
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