The Call of the Wild, White Fang, and Other Stories (Penguin Classics)

May 08 [Tue], 2018, 11:09


文学者というと、机に就いてペンと紙に向き合っている姿を想像することが多いかと思いますが、並み居る文学者の中には、体を使って過酷な労働をした経験を持つ人々もいます。
従軍経験のあるトルストイや、捕鯨船での労働経験のあるメルヴィルなどは非常に有名ですが、この本の作者のジャック・ロンドンも、そうしたいわば肉体的文学者、労働者的文学者とも呼びたくなるような作家の一人です。
トルストイやメルヴィル以上に、ロンドンの作品は、英語でいうところのvisceralという言葉で表現すると非常にしっくりきます。
ロンドンの言葉は観念よりも体の底、はらわたから発せられたような言葉であり、彼が描く過酷な自然環境、主人公の精神や肉体の状態、野生の法は、全て善悪などの観念的概念を離れたところにあります。

表題作の"The Call of the Wild"及び"White Fang"は、共に狼と犬のあいのこであるオオカミ犬が主人公であるところが共通しています。
彼らはいずれも過酷な自然環境、仲間や敵との命がけの争い、人間による酷使や虐待などを耐え抜くだけの強靭な肉体を持ち、尚且つ天性の動物的な意志の強さ、賢さを持ち合わせています。
そしてその意志は、常に生き残るということを強く志向しており、そこには近代的な「いかにして生きるべきか」であるとか、「生きるべきか死ぬべきか」などといった、観念的な問いなど付け入る隙もありません。
ジャック・ロンドンの描く主人公たちは、そうした深刻な問いすら軟弱極まりないものに見せるほど、輝かしいばかりの生命力と厳しさに満ち溢れています。
自然環境、人間の持つ棍棒や鞭、地位争いでの仲間の牙・・・いずれの作品も、読者のアドレナリンを最大限まで放出させるような、或いは髪の毛の先まで逆立つようなものですし、美々しい描写は何一つないのですが、やはり読み終わったあとに脳裏に残るのは、強く美しく、同時に厳しい野生の存在の姿です。
こうした主人公の特徴、野生的な躍動感はどちらの作品にも共通しているのですが、この2作にはひとつ非常に大きく違った点があります。
それは"The Call of the Wild"の主人公が人間の許を離れ、やがて狼として野生に還るのに対し、彼と同じような状況を耐え抜いたはずの"White Fang"の主人公は、逆に真に愛することのできる主人を見出し、彼に仕え、犬として生きることを選ぶ点です。

これらの作品、主題も内容も非常に似ているところがあるのですが、年代からいうと"White Fang"のほうが3年あとに書かれているので、作者の心境に何か変化があったのではないかと思います。
巻末の解説によると、作者ロンドンは叩き上げの人で、経済的に恵まれない家庭で育ったのちに14歳で学校を出、賃金労働を始めたそうです。
読書好きの少年であった一方、養殖の牡蠣を盗むといったような犯罪に手を染めたこともあったとのことで、一筋縄ではいかない子どもだったのでしょう。
貧困からくる辛酸を舐めたロンドンは、仕事がないということがいかに惨めであるかということを身をもって実感していたので、常に頭を使うことを重んじていました。
後に社会主義に傾倒して活動家になったり、小説家としてだけではなくジャーナリストとしても活動したりなどということから考えると、ロンドンは社会の矛盾などを強く意識していたのには違いないと思うのですが、彼の書いたものを読むと、やはり観念よりははらわたから書かれたものという印象を強く受けます。
彼の作品世界を支配するのは、食うか食われるかという野生の掟。
叩き上げの人らしく、自らの意志の力を使って生きたであろうロンドンの置かれた状況を考えると、作品中の厳しい野生の掟とそれを基にした事象の描き方には、独特の臨場感と説得力があり、有無を言わさぬものがあります。
一方で、あれほど強いオオカミ犬の主人公たちは、非常に矛盾しているようですが、人間から餌をもらうことでしか生きていけません。
このあたり、ジャーナリストとしての、或いは政治活動家としてのロンドンの本懐が見えるところかもしれません。
どれほど強靭な肉体を持ち、仕事をこなし、他にない生命力を漲らすことができる労働者であっても、資本家に雇われて貨幣経済の中で生きていかなくてはならないというのは、考えてみれば大いなる矛盾です。
しかし生きるためには、そうしなければならない。
1903年に書かれた"The Call of the Wild"の主人公は、最後にそれまでとは違う優しい主人と出会いますが、彼を失うことにより野生に還っていきます。
一方1906年の"White Fang"では、主人公は過酷な環境を耐え抜いたのち、自らの意志で人間の主人に仕えることを決め、犬として生きることを選びます。
これは私の勝手な見方なのですが、"White Fang"のほうが、物語としてより現実的であるように思えます。
主人公は抑えがたい野生の本能と迸るような生命力を漲らせていますが、彼が肉体同様強靭な精神の力、意志の力で自ら仕える主を選んだ末、犬として生きたというのは、作品を読む上で、注目すべき帰着点だと思います。

英語の難易度: ★★★☆☆
シンプルかつ力強い文体。
語彙もあまり難しいものはないのですが、全くの初心者が原書を読むということを考えると、やや難しいでしょう。
高校2年生あたりから大学生くらいの人からがお薦めです。


世界は文学でできている 対話で学ぶ〈世界文学〉連続講義 (光文社)

May 01 [Tue], 2018, 5:53


今回ご紹介するのは日本語で描かれた文学論の本ですが、日本語を母語としながら英語で読み書きすること、それから文学そのものについて、自分なりの考え方が非常に深まる本だと思いましたので、ご紹介します。
日本におけるロシア・ポーランド文学研究の第一人者である沼野充義先生が、リービ英雄氏や平野啓一郎氏、亀山郁夫氏といった、錚々たる作家や研究者たちと文学について公開対談した様子をまとめた本。
内容が簡単か難しいかといえば、やはり難しいと思うのです。
というのは、沼野先生と対談者たちは、ある意味で答えの出ない、或いは正解のない問いに向き合っているからです。
しかし対象者がこれから文学に親しむ中高生ということもあり、どなたも易しい語り口で自らの文学について語って下さっているので、非常に理解しやすくなっています。

そもそも文学とは何か。
日本文学と世界文学の関係とはいかなるものか。
外国語で外国の文学を読み、書くということはいかなることか。
翻訳で外国の文学を読むこととは、いかなることか。
個人と文学の関わりとは。
古典と現代社会の関わり方とは・・・などと、ざっと書いてみても、なかなか答えの出ない問いに対する各作家或いは研究者なりの考え方、沼野先生の考え方が簡潔かつ真摯な姿勢で披瀝されており、非常に興味深いものです。
これらの問いに対しては、個々人によって答えが違ってきて当然ですので、この本に登場する学者や作家の方々とは全く違う答えを持つ読者も大勢いることでしょう。
そういう意味では文学(もっといえば読書全般)に対する向き合い方は極めて個人的かつ自由な営みですから、読む人によって感じ方は大いに違ってくると思います。
ただ、この本に登場する方々は皆そうしたことと長年向き合ってきた方々なので、皆さん文学に対する姿勢が謙虚かつ真摯です。
この本の内容自体、勿論示唆に富んでいて、私自身考えることは多かったのですが、それよりも寧ろ錚々たる文学者や研究者の方々が、書くこと・読むことに対してあれだけ真摯な姿勢を示していらっしゃるということに、深い感銘を受けました。
上に書いたような問いに加え、私としては、本そのものに対する姿勢、読書のあり方を学んだという点で、非常に有益な本でした。

この本、本当に私自身が中高生のときに出合っていたかったですね。
本の中で沼野先生も仰っている通り、文学作品には教科書に載った途端、非常につまらなくなるという大変残念な性質があるように思いますが、私自身は、おそらくこれは教科書に掲載されたことが不幸なのではなく、日本の国語教育が作品の鑑賞よりも解釈に重きを置いていること、そしてその解釈においては、文科省の見解を丸暗記する事が望ましいとされていることだと思います。
つまり日本の国語教育は、主体的な読者を育てるという方向には全くなっていないということです。
私自身、小学生までは本が大好きだったのに、中学校以降は学校教育の影響で「正しく読めなければ意味がないし、間違うのは危険だ」と思い込んでしまったために、その後10年以上は武侠小説とルポしか読まなくなったという経緯があります。
若いころの私、非常に律儀だったんですね(笑) 今から考えると非常に勿体無い話です。
若者の活字離れを世間が嘆くようになって久しいですが、こうした経験から、読書以外の娯楽がのしていることより、寧ろ読み手の主体性を奪うような解釈主義的国語教育のほうが余程罪深いと、個人的には思っています。

この本は、文学というものは一方的な解釈によって分析される対象ではなく、個々人によって読み方が違ってよいものであり、膨大にある書物の中からどれを読むかということに対しても、個々人の自由でよいということを教えてくれます。
沼野先生の、世界文学は「地図も目録もない」「未踏の沃野」であり、「そこに果敢に足を踏み入れ、ヒロイン、ヒーローとなるのは、この本を読んでいる君たち、あなたたちなのだ」というお言葉に勇気付けられる読者は、私だけではないはずです。

Bad Feminist (Harper Collins Publishers)

April 30 [Mon], 2018, 2:51


2017年の1月に亜紀書房から日本語版(邦題『バッド・フェミニスト』)が出版されたときに、随分と新聞その他のメディアで話題になりましたので、記憶に新しい方もいらっしゃるのではないかと思います。
今回ご紹介するのは、その原語版です。
残念ながら日本語版では、言語的感覚の差からなのか、原書が持つ独特の軽妙なニュアンスが失われているようですので、是非ここは英語で読んでみたいものです。
小説だけでなくこういう評論集においても、英語圏ではここまで作者の個性やユーモアが出ているということで、非常に驚きながら読みました。

作者のロクサーヌ・ゲイはアフリカ系アメリカ人で、両親はハイチから渡米した移民というバックグラウンドを持つ人です。
彼女は教授として大学に勤務する一方で、小説家としても活躍しています。
つまり彼女は、主にフェミニズムの観点から既成の娯楽作品や文芸作品に痛烈な批判をする立場である一方、作品を創作する側でもあるわけです。
ですから彼女がこの本で示すフェミニズム的視点は、独特の客観性を帯びています。

例えば、ゲイはフェミニズムの観点から、多くの文芸作品において、ありえないほど嫌な人物が女性であることは非常に少ないと指摘します。
もしそうした人物が女性として描かれていた場合、評論家によって「この人物は人格障害者なんじゃないか」というような解説が勝手につけられてしまうとのこと。
そういうことは、女性が皆無害な存在であることを社会的に期待されているからで、同じような特質を持った登場人物が男性である場合、そうした解説が後でつけられることはほぼありえない・・・と言いつつ、文筆家であるゲイは、人物造形とリアリティの間のせめぎあいで生じる葛藤についても吐露。
「ありえないほど嫌な女性」という人物像に社会的なリアリティを持たせることが難しい以上、そうした人物を造形することは、やはり作家として難しい現実もあるようです。
また、The Helpなどをはじめとする有色人種の女性が登場する作品について、彼女はまさに当事者の立場から、痛烈な批判をしています。
しかし同時に、彼女自身が当事者であるために作品自体の良い面が見えていないふしもおそらくあり、それについては反省の余地があるといったようなことも述べています。
軽妙かつウィットに満ちた語り口でこうしたことをさらっと述懐できるあたり、ゲイは相当知性に恵まれた人に相違なく、私などは読んでいる間中、溜息を吐きっ放しでした。

しかし稀有なまでの客観性を持つ一方、ゲイは自分の個人的な経験に紐付けながら、あらゆる事象について考察しています。
書き手としてというよりも人として、彼女は大変誠実な人なのでしょう。
中には有色人種の女性として差別を受けたために、目を覆わんばかりの辛い経験をしたことを彼女自身が語るところもあります。
そして、それを今読者と分かち合う決意をした彼女の勇気は、やはり称えられるべきものです。
彼女がそれだけ読者と真剣に向き合っている以上、読者である我々も、やはり真摯に読まなければならないと思うのです。

そしてそんな作者が、自らを敢えてバッド・フェミニストと呼ぶ理由には、是非注目しなければなりません。
人間には誰しも欠点がある以上、人間が作り出したフェミニズムという考えそのものにも欠点があると、ゲイは指摘しています。
また彼女自身、ピンクは好きだし男性も好き。
子どもが欲しくてたまらないから、もし子どもに恵まれたら、仕事はペースダウンして子どもと過ごしたい。
それに結婚したら、やっぱり庭の手入れやゴミ出しなど、如何にも男性がやりそうな家事はあまり好きではないので、やはり夫にやってもらいたいと思っているそうで、世間でこうあるべきとされるフェミニスト像には程遠いと言います。
そして何より、アンペイドワーカーや低賃金労働者などをはじめとする、一部の立場の女性を排除するような今のフェミニズムの在り方に、彼女は意義を唱えています。
しかしそれでも、彼女は自分が自分らしくあるために、フェミニストであり続けるというのです。

この本は私が、女性として恩恵を受けつつも反発してきたフェミニズムという考え方と、もう一度向き合う機会を与えてくれました。
つい誰かを「フェミ」と呼んで詰ってしまいたくなる方、或いはそういうレッテルを貼られたくないために、男性のように振舞わなくてはならないと悩んでいる方、或いは従来のフェミニズムが包括する女性像には当てはまらず、フェミニズムから排除されていると感じている方に、是非お薦めしたいと思います。
勿論男性の方が読んでも、大変示唆に富んだ内容であることは間違いありません。

英語の難易度: ★★★★☆
文構造はシンプルな英語ですが、ユーモラスな語り口は独特。
また、話題が多岐に渡っているため、英語初心者にはややつらいかもしれません。

Dubliners (Penguin Essentials)

April 24 [Tue], 2018, 23:04


今回ご紹介するのは、James JoyceのDubliners。久しぶりのイギリス古典です。
非常に有名な本なので、『ダブリン市民』のタイトルで日本でも親しまれ、新潮社をはじめとするいろいろな出版社から異なる版が幾つも出ています。
私は大学で英文学を専攻していたので、当然この作品のことは知識として知っていましたが、作品が有名すぎて実際に手にとって原典を読むのは今回が初めてだったのです。
それも洋書がお好きな別の方に勧めて頂く形で読むことにした作品なので、本当にその方には感謝しております。

Dublinersは、タイトル通りアイルランドのダブリンに住む人々を描いた、15編の短編から成る作品集です。
私はダブリンには行ったことがないので、どういう所なのか一生懸命想像しながら読むしかなかったのですが、これがロンドンのような大都会、しかも政治的中心地ではないというところに、独特の味わいがあるように思います。
この作品集は1914年に初めて出版されており、標準英語で書かれてはいるのですが、当時のイギリス人というよりアイルランド人独特のメンタリティを窺い知ることができる貴重なものだと思います。
しかし同時に、そこには国境や文化を越えた普遍的人間性が描かれており、そこが多くの読者を惹き付けてやまないところなのでしょう。

Joyce描くところの20世紀初頭のDublinは、先程も述べたように、恐らくロンドンのような大都市ではなく、中規模の都市だったのではないかと思われます。
しかしこの街は、なんと様々な人たちの存在、彼らの喜びや悲哀に彩られていることか。
それを考えると、Joyceにとっての当時のダブリンは、まさに世界全体の縮図といえる場所だったのでしょう。
人間の他愛ない、しかし本人たちにしてみれば必死の営み、心の動きを、Joyceは淡々とした視点で、よくぞここまで見事に描ききりました。
どの短編の登場人物も、経済的なこと、生活面のこと、或いは心理的・性格的な問題など、皆どこかしら満たされない部分・完全でない部分を持ち合わせた、どこにでもいそうな普通の人々です。
バカなやつと蔑んでいた友達にちょっとしたところで助けられ、心理的な借りを感じて反省したり、異性に対して高圧的であったり、どう考えても出しゃばりすぎなのに全く反省していなかったり・・・。
時に決して美しいとは言えないダブリンの市井の人々の営み、心の在り様を描きつつ、Joyceはその誰をも批判しません。
あくまでも淡々と人々を描くJoyceの筆致には、批判もなければ賞賛もないのですが、その視点には却って、あくまでも孤独な存在として、時にその孤独にすら気付かずに日々の営みを続けるしかない人間に対する優しさが感じられます。

この作品集、英語としては文型はシンプルですし、難しいものでは決してないのですが、アイルランドの方言に基づく独特の語彙が散見されることもあり、人によっては原文で読み通すのは難しいかもしれません。
しかし最後の2篇"Grace"と"The Dead"だけは、どうしても読まれることを強くお薦めします。
この2篇には、人と人とが一緒にいることの温かさ、そしてその温かさや賑やかさのなかで却って感じる孤独の侘しさ、更に他者に幻滅しながら、それでも愛するというのはいかなることかなど、人間の心の本質に関する知恵が凝縮されています。
翻訳で読むのも一興ですが、是非淡々とした筆致の中にも力強さの感じられる、Joyce独特の文体で味わいたいものです。

英語の難易度: ★★★★☆
文型は至ってシンプルですし、短編15編を全て併せても薄い本です。
文体は非常に簡潔で読みやすい標準英語で書かれていますが、語彙が難しめなので、中上級以上のある程度英文を読むことに慣れた英語学習者にお薦めです。


3 Novels by Agota Kristof: The Notebook, The Proof, The Third Lie (Grove Press)

April 19 [Thu], 2018, 0:48


日本でも有名なアゴタ・クリストフの3部作The Notebook, The Proof, The Third Lie(日本語版はそれぞれ『悪童日記』『ふたりの証拠』『第三の嘘』というタイトルで、早川書房から刊行されている)を一冊に集めたという、何とも充実した1冊です。
1作1作読んでいくと、また別の感慨があるのかもしれませんが、私は一気に3作続けて読みましたので、最後まで読むとどうにも謎めいた印象が拭えませんでした。
このブログは読書ブログなので、私なりに作品について考えたこと、理解したことを書いていきたいのですが、正直に白状するとこの本に関しては、私は決して理解するということはできないのではないかと思います。
同時に、分かるか分からないかという基準でこの本のことを考えるのは、少し違うような気もしています。

3部作は全て、クラウスとルーカスという二人の兄弟を主人公にしています。
話の舞台となるヨーロッパの小さな町も全ての作品に共通していますし、戦争というモチーフもまた然りなのですが、その町がどの国にあるのか、或いは作中を規定する重要なモチーフである戦争が先のどの戦争を指すのか、更には物語そのものがいつの話なのか等、場所や時代を具体的に示す記述は皆無です。
しかしクリストフ本人が1930年代の生まれで、ハンガリーの出身であることから、おそらくこれらの小説に登場する小さな町はハンガリーの国境近いどこか、そして戦争というのは第二次世界大戦と推測されます。
最初の作品The Notebookでは、クラウスもルーカスもまだ子どもで、二人は戦乱を逃れるため、母親に連れられて大都市から小さな町にある祖母の家に疎開してきます。
この作品では、彼らの名前は全く示されておらず、作品そのものが彼らの断片的な手記という形式を取っています。
2作目のThe Proofにおいて、青年期に差し掛かった兄弟は別々に暮らすようになり、この作品で初めて彼らの名前がわかります。
3作目The Third Lieは、最も謎めいた作品です。兄弟は共に老年期に差し掛かっています。The Proofで描かれていないほうの兄弟の片割れの視点から作品が綴られているのですが、2作目までで書かれていたことが作中世界では本当のことなのか、それとも全くの出鱈目なのか、世界が揺らぐような奇妙な印象を与える作品です。

The Notebook,The Proofについて言うと、これらにおいては作品世界の内容に整合性が見られるのです。
クラウスとルーカスは一心同体の双子として描かれ、子どもらしい残酷さ、優しさ、戦争という特殊な状況の下で彼らだけが共有する独特の死生観、そして時系列に描かれる出来事を含め、これらの2作には一貫性があるのです。
しかし最後の作品The Third Lieでは、それが非常に怪しくなってきます。
The Notebookで、兄弟は「このノートには事実のみを記す」と宣言していますが、The Third Lieにおいて、ルーカスはこのノートの内容は全くの嘘であると話しているのです。
更に、クラウスとルーカスは互いにとって何者だったのか、彼らが互いに懐古する互いのありようは、全く一致していません。
彼らは互いに、こうあるべきと思う相手の姿を想定するのですが、互いの本当の姿はどちらにも見えていません。
2作目まで、兄弟は互いを自分の一部を成す片割れと認識していました。
そして3作目においても、二人は離れて暮らしつつも互いの名を自分の名として名乗るなど、しばしば自分と兄弟を混同しているのではないかと思われる部分があるのですが、どうやら二人は実際のところ、兄弟ではあっても双子ではなかったことが象徴的に示唆されます。
戦争が終わって自由な世の中になり、いざ再会ということになってみると、二人は相補的な関係になるどころか、存在自体が相容れることがありません。
戦争を挟んで兄弟それぞれに一体何があったのか、The Third Lieではクラウスの視点から最後に一気に語られるのですが、その事実を知ったところで、自分の存在が根底からぐらつくような感覚が、読者の心から消え去ることはありません。

裏表紙の解説の通り、この3部作はクラウスとルーカスという二人の兄弟を東西ヨーロッパになぞらえた上で、政治的な読み方をすることができると思います。
しかしそこからもう一歩踏み込んで、個人のアイデンティティの揺らぎ、存在の心もとなさとモチーフにした作品として、更に普遍的な読み方もできると思います。
他の方がこの作品をどう読んだのか、是非伺ってみたいように思います。

英語の難易度: ★★★☆☆
本当は純粋に英語のことだけを言えば、★は二つ半くらいだと思うのですが、内容としては決して易しいものではなく、単純な解釈を赦さない作品だと思いますので、敢えて3つにしておきました。
英語としては高校生でも読めるのではないかと思いますが、内容を咀嚼するのはアラフォーの私でもかなり難しいデス(苦笑)

Here I am (Picador)

April 13 [Fri], 2018, 8:23


Jonathan Safran Foerによる、あるユダヤ系アメリカ人一家を描いた作品。
作品はあらゆる人物の視点から描かれますが、主に父親であるJacobのそれが中心となって物語が進んでいきます。
放送作家のJacobは妻Juliaとの間に3人の息子がおり、平均的なアメリカの中流家庭を築いています。
しかし、長男Samがユダヤ人学校で人種差別的な言葉を書いたという疑いを掛けられ、彼のバル・ミツワー(ユダヤ人男性の成人式。13歳で行う)の遂行が危ぶまれるという事態が起こり、そこからJacobとJuliaとの間の意見の齟齬が顕在化します。
同時に彼らの夫婦としての在り方、気持ちのすれ違いまでもがそれぞれの心の中で明らかになり、互いを求める気持ちがあるにも関わらず、そして同じ家の中で生活をしているにも関わらず、彼らは孤独に苛まれます。
一方長男のSamは、自分の無実を信じてくれない母親、また自分との距離感を上手く計れない父親を丸々信用することができず、バーチャル世界に慰めを見出しています。
他の二人の息子たちも家庭の中の不和を察知してか、心に不安を抱いていますが、特に幼い末っ子は、子どもながらに死のイメージに取り付かれています。

私は小説・ノンフィクション両方で、ユダヤ人の作家が書いた本というのを何冊か読んだことがあるのですが、彼らの作品の多くには、「ユダヤ人であること」のメンタリティが色濃く描かれているものが多いです。
私が読んだ限りでいうと、どの作品にも「家」もしくは「安住の地」に対するユダヤ人の思い入れが描かれていました。
この作品もそうした作品群の一つなのですが、この作品がユダヤ人のための物語として終始するのではなく、ある種の普遍性を持ちうるのは、そこに近代人の孤独が重なっているからだと思います。
Jacobはユダヤ人ですから、当然ユダヤ教徒なのですが、彼は中流階級のアメリカ人でもあり、更には近代人なのです。
近代人なので、彼は旧約聖書の時代のユダヤ人のように、(或いは自身のイスラエル在住の従兄弟のように)エルサレムこそが我が家だとは微塵も思えないし、シナゴーグに行くのもお葬式など用事があるときだけ。
神様だって本気で信じていないのです。

そんな近代人のJacobですから、何事に対しても懐疑的なものの見方をせざるを得ず、恐らく彼の孤独はそこから来ています。
その哀れな寂寞は、涙を誘うものでもあり、情けなくもあります。
しかし、個としての自分、或いは他の人々とまともに向き合うことをせず、ジョークで全てのやりとりを誤魔化すJacobの孤独を嘲笑い、大人になりきれない近代人としての彼を不甲斐なく思うのは簡単なのですが・・・、果たして近代に生きる我々の誰に、彼と異なる生き方ができるというのでしょうか。
Jacobの中に、近代以降の非西洋人が抱える矛盾が透けて見えます。
伝統的な自分のアイデンティティに懐疑的にならざるを得ない人間にとっては、通過儀礼を受けたところでそれはただの形式に過ぎず、正しく大人になる方法なんて、誰も教えてくれません。
大人になれない人間は無力です。
そして誰もが無力であるから、究極的に他者と分かりあうことができません。

分かり合えない近代人の悲哀をここまで容赦なく描いた作品は他に読んだことがなく、これが現実かと思うとただただ圧倒されました。
しかし同時に、その孤独を噛み締め、ここまでの作品に昇華させた作者の精神的力量を見せ付けられたためか、結末も含めてある意味で救いようのない小説なのに、不思議な力強さを感じました。
これまで小説は圧倒的に古典のほうが面白いと思っていたのですが、この小説は現代作品、それも同時代的な作品にしか出せない圧倒的なパワーを放っており、今書かれた小説を今読むことの意味をひしひしと理解しました。
興味を持たれた方がいらっしゃったら、この小説は是非今このときに読まれることをお薦めします。

英語の難易度: ★★★★★
ストーリーを追うのはそれほど難しくなく、文型もシンプルです。
しかし会話部分など、小説としてはかなり言外のコンテクストに依存した部分が大きいです。
英文に慣れているだけでなく、現代アメリカのメンタリティに通じている方に向いているでしょう。
(因みに私は通じてませんが(笑)、一応それでも読めなくはないです。)
また、日本で一般的な英語教育を受けた人には馴染みの薄い、ユダヤ教やユダヤ文化に纏わる用語も多いです。
全部分からなくても読めると思いますが、基本的な語彙については調べたほうが作品を理解しやすいでしょう。



The Young and Prodigious T.S. Spivet (Vintage Books)

March 21 [Wed], 2018, 20:34


皆様、ご無沙汰しております。
暫く振りにご紹介するこの本"The Young and Prodigious T.S. Spivet"は、とにかく変わった本です。
物語の内容は、ほぼ全てが主人公の12歳の少年T.S. Spivetの一人称で語られるのですが、天才少年である彼の記した膨大なノートから抜粋された(という設定の)ハイパーテクストの量も半端ではありません。
ぱっとページを開くと、本編の見開きの左右のマージンに、緻密なイラストを含む細かいハイパーテクストが沢山ついています。
それは眺めていて楽しくなるものではあるのですが、それが楽しいものであればあるほど、物語そのもの、または主人公の心が抱えるペーソスが際立ちます。

主人公のT.S. Spivetは12歳の少年で、アメリカ中西部の田舎の農場主の次男です。
彼は頭と手先を使うことが得意な少年で、地図を描くこと、事典に載せるような緻密な昆虫の挿絵を描くことに、天才的な才能があります。
家族は彼を含めて4人。
まるで生まれる時代を間違えたのかと思われるような、或いは西部劇から抜け出てきたようなカウボーイの父親、彼とは正反対の性質を持つ知的な昆虫学者の母、そしてティーンエイジャーの姉。
本当はもう一人、一家の長男であり、T.S.の兄であるLaytonがいたのですが・・・彼は銃の暴発事故で、数ヶ月前に亡くなっています。
そのときにその場に居合わせたT.S.は、暴発事故そのものは彼のせいではないにも関わらず、深い罪悪感を抱えています。
しかし家族の誰も、彼の抱える罪悪感、悲しみには注意を払いません。

陽気で明るく、誰からも好かれていたLayton。
彼が亡くなってから、彼によって保たれていた家族の関係性の均衡が乱れてしまいます。
カウボーイ気質で野外の仕事が得意だったLaytonは父親の良き相棒であり、明らかに父親は彼を跡取りとして意識していました。
しかし頭脳派のT.S.はカウボーイの仕事には向かず、父親は失望してしまいます。
そして彼の母親は、いるのかいないのかわからないような珍しい昆虫を探すことに夢中で、T.S.には関心を見せません。
そして姉は、Laytonのいなくなった農場に嫌気が差しています。
そんな折も折、T.S.が描いた昆虫の挿絵がスミソニアン博物館から表彰されることになり、彼に表彰式とパーティの招待の電話が掛かってきます。
しかし博物館の担当者は、彼が12歳の少年であることを知りません。
その上博物館は東部のワシントンにあり、とてもT.S.一人で行ける場所ではないのですが・・・家族の許にいることで深い孤独を感じていたT.S.は、明け方こっそりと自宅を抜け出し、最寄の駅から出ている列車にこっそり乗り込んで、無賃乗車でワシントンに行くことを思いつきます。

この話、私は家族にうまく溶け込めない12歳の少年が、過酷なたびを通して大人になるビルドゥングス・ロマンかと思って読んだのです。
しかしあれほど不安で辛い旅をした挙句、彼が実感するのは無力な子どもとしての自分であったというのは、何とも切なくなります。
物語の最後、成長したのは過酷な旅と心理的・身体的試練、押し潰されるほどの不安に耐えたT.S.ではなく、彼の両親のほうだったというのは、何とも驚くべきことではありませんか。
最後は希望が見えるハッピー・エンドなのですが・・・大人はこれを読んで、「希望のある結末で良かった」などと、胸を撫で下ろしている場合ではありません。
子どもを持ったら、大人は大人である自分を引き受けなくてはならないのです。

英語の難易度: ★★★☆☆
博物誌的な専門用語が結構多いのですが、ストーリーを追うことは難しくありません。





The Heart Goes Last (Anchor Books)

February 07 [Wed], 2018, 5:43


日本でも有名なカナダの女流作家、マーガレット・アトウッドによるディストピア小説。
この本は今年最初のBooks Kinokuniya Tokyoのセールでゲットした福袋に入っていたもので、いつもながら福袋に入っていなければ、読んでいなかった本だと思います。
何とも奇妙な味わいの本です。
ディストピア小説なのですが、SF的要素も非常に強いのではないかと思われます。
背表紙の写真から微笑みかけるアトウッド、一体どんな人なんだろうかと思わずにはいられません。

物語の舞台は、アメリカの所謂ラストベルトと言われる地域。
ロボット工学関連の仕事をしていたものの、不況で職を失ったStanとその妻Charmaineは、自宅を失い車中泊を続ける日々。
Charmaineがバーで働いて稼いでくる、雀の涙ほどの給金が彼らの頼りです。
ストレスから夫婦関係も殺伐としてくるなか、Charmaineは勤め先のバーのテレビで、Consilienceというゲートコミュニティのコマーシャルを目にします。
このコミュニティでは、来る者に快適な衣食住を保障し、失業にも対策するというのです。
テレビの画面に映るベッドリネンにすっかり夢中になったCharmaineは、訝しむStanを説得し、二人でConsilienceに入るのですが、ここは構成員が一月ごとに市民と囚人の役割を入れ替えで演じることで成り立っている、大変奇妙なコミュニティでした。

正直言うと、とても面白いのですが、最後まで読むまでとても謎に満ちた印象を受ける作品でした。
まず、不況で職を失って車中泊生活をした挙句、ベッドリネンに憧れておかしなゲートコミュニティに入ってしまうというあたりからして、非常にシリアスな小説なのではないかと思って読んだんです。
ところが中盤以降は、「これは壮大なジョークなのでは」と思わずにはいられないような、シュールギャグのような場面が満載。
この作品をどう捉えてよいか分からないまま読み終わるところでしたが、最後になり、はっと作品のテーマがわかります。
この作品は、あくまで私の理解ですが、人間にとって自由な意思による決定というのはどの程度ありうるのかというのを、究極的に問い詰めた作品なのではないかと思います。

まず、この作品ではのっぴきならない人間の欲望・欲求が、深刻に、或いは滑稽に描かれており、それがその欲望や欲求そのものに切迫感を与えています。
まず、StanとCharmaineがゲートコミュニティConsilienceに入ったのは、まともな食事を摂ってとベッドでの眠りたいという、人間にとって極めて根源的な欲求でした。
またConsilienceに入ってからの彼らは、共に自らの性欲に翻弄されます。
性欲や性的嗜好がこの作品を読み解く上でのひとつのキーワードになると思いますが、アトウッドがストーリーの中心に性欲を据えたのは、おそらく性欲こそが最も自らの意思でコントロールしづらい欲求だからなのでしょう。
人間は自分の性的嗜好も、性欲の程度も、自らの自由な意思では決められません。
そういう意味で、食欲や睡眠欲以上に、性欲はコントロールし難いものです。
主人公のStanとCharmaineが、物語の中で自らの役どころを自分で決定することができず、暗中模索するように手探りでその都度目の前の出来事に直面せざるを得ないあたりは、非常に象徴的だと思います。
Consilienceへ来たこと、ここで自分の役割を果たすことを決めたこと・・・一見全て彼ら自身の決定のようですが、ラストベルトでの苦境がなければ、彼らは一体こんなところへ来たかどうか。

それだけに、ラストシーンは非常に不気味なものでした。
ここで詳細を述べることは避けますが・・・一体私たちは、例えば誰を愛するかなどといった非常に根源的な決定に対し、どこまで自由な意思を保っていられるのでしょうか。
愛するということだけではなく、どこへ住むか、何を食べるか、どんな仕事をするか・・・本当にどこまで、私たちは自分の意思で決定できているのか。
また、自由であることは幸福なのか。
この小説は完結していましすが、物語そのもの、そしてこれらの問いは、未来永劫続くのかもしれません。

それにしてもこのアトウッドという作家、本当に圧倒される筆力です。
三人称ですが、いろいろな人物の視点で重層的に物語を描くことに成功しており、ストーリーそのものは単純といえばそうかもしれないのですが、単調さを全く感じさせません。
従来の女性作家の多くに見られる「書く主体としての私」というような視点をあまり感じさせず、非常にニュートラルな印象を与えますが、そこにこの作家の個性を見るような気がします。
しかも特に後半は奇妙な諧謔に満ちており、ユーモアが卓抜かつ独特です。
日本の作家にはまずいないタイプではないかと思いますし、女流作家としても稀有な作風だと思います。
この作品が私にとっては初アトウッドになりましたが、すっかりファンになりました。
他の作品も読んでみたいです。

英語の難易度: ★★★☆☆
文法や語彙はさほど難しくないし、文型も非常にシンプルなのですが、スラング的表現が多いです。
英語そのものというより、英米文化的な考え方にある程度慣れた人向けですが、ストーリーを追うこと自体は容易です。
よって、★は3つとしましたが、実際は3.5個分くらいでしょうか。

flow:Issue 22

February 07 [Wed], 2018, 4:59


実は新宿のブックファースト(コクーンタワーの下)にも、flowの取り扱いがあることがわかり、早速買ってみたのが今回。
よく考えたら、ずっと前にもここでこの雑誌を見かけていたように思うのですが・・・表紙がお洒落なので、てっきりファッション誌だと思って手に取った事がなかったんですよね。
新宿の本屋さんでflowが手に入るというのは有難いことです。
実はこの雑誌、どういうわけか洋書が充実した紀伊国屋さんには置いてありません。
この素敵な表紙を見て興味を持たれた方は、ブックファーストか蔦谷書店を当たってみられると良いと思います。

紙好きの人のための雑誌と謳うだけあって、今回も自分で写真を貼れる可愛いフォトブックレットや、綺麗な絵のポスターなど、素敵な付録がついています。
組み立て式のものではさすがにないんですが、子供の頃に付録付き雑誌が大好きだった私には嬉しい限り。
しかしそれ以上に良いのは、やはり本誌の内容です。
今回は雑誌そのもののテーマでもあるマインドフルネスに加え、「創造性」がキーワードになっています。
オペラ歌手やクリエイターなど、そもそもクリエイティブな仕事に就いている人へのインタビューもありますが、「創造性とは何ぞや?」とか、「どうすれば創造性を磨けるのか」ということについても、多くの紙面が割かれています。
まず、創造性は芸術家などが「ひらめいた!」とインスピレーションを受けることだけではなく、問題解決能力なども含み、そういう意味では誰でも創造的になれると書かれており、なるほどと思いました。
それに加え、私たちが創造性を発揮できるような具体的なヒント・・・例えば友達と一緒に絵を描いてみるとか、携帯電話ではなくカメラで写真を撮ってみるなどといった、私たちにも出来そうなアイディアも詰まっています。

日本に関する記事もありました。
今号は「家」をテーマにした記事も多かったのですが、面積の狭い日本で、少ないスペースを活用しながら楽しく生活している人々の特集があり、なかなか興味深いものでした。
日本では狭い家に住むことが謂わば当たり前になっているので、そのことにフォーカスを当ててものを考えたことがなかったので、なかなか新鮮な特集でしたよ。

他にはピカソの愛人で、彼の二人の子どもの母親となった芸術家Francoise Gilotに関する記事もありました。
これなどアートが好きな人には、たまらない記事だと思います。
女性向けの雑誌なので、ピカソではなくGilotに注目したのでしょうが、これなど男性が読んでも興味深いのでは。

『暮しの手帖』『週末野心』『かぞくのじかん』など、「いかにより良く生きるか」ということに関する雑誌は日本にもありますが、内容が生活情報寄りであるのが特徴です。
勿論、コンセプトとしてこれらに近いものというのは洋雑誌にもあるのですが、中には広告が多いものもあり、日本で読むなら断然日本の雑誌のほうが充実していて面白いと思います。
ただflowは別格で、同じように「いかにより良く生きるか」をテーマとしていても、アイディアや心の持ち方のほうにフォーカスが当たっているのが面白いですね。
この雑誌には広告が入っていないのですが、日本で手に入りやすい英米やフランスの雑誌ではなく、オランダの雑誌の英語版であることも、他の雑誌と一線を画している要因かもしれません。
オランダでは印刷物の出版に対し、政府の補助金が出るそうで、そうしたこともこれだけクオリティの高い雑誌を作れている要因かもしれませんね。

参考URL: T-Site Lifestyle http://top.tsite.jp/lifestyle/magazine/i/29350312/index

英語の難易度: ★★☆☆☆
内容は大人の女性向け。しかし英語は平易で、大変読み易いです。

Sherlock Holmes: The Complete Novels And Stories, Volume 2 (Bantam Classics)

January 29 [Mon], 2018, 13:52


久々に格調高い古典イギリス文学の文章に触れ、大満足の読書でした。
格調高い古典とはいえ、読み易く読者に対してフレンドリーであるところがホームズシリーズの良いところ。
以前ご紹介した第1巻も素晴らしかったのですが、更に溌剌として闊達なホームズの推理力。
勿論ワトソンも健在です。
しかもこの巻の中には、事件簿執筆を担当するワトソンにケチをつけたホームズが、『「だったら自分で書いたらどうだ」と言われたものだから、今回は自分で書かなくちゃいけなくなった」と言いつつ、自分で事件について語るエピソードなども含まれていて、なかなか面白いです。
そこには「ワトソンの唯一の我侭といえば、結婚して暫くオレをほっぽらかしていた時だけだなあ」などというホームズの述懐まであり、ホームズはどんだけワトソンが好きだったんだ!と思うとくすっと笑ってしまいました。

第1巻のご紹介のときにも書きましたが、ホームズシリーズの魅力は、よくできたトリックに加え、キャラクターの魅力がやはり大きいです。
冷徹だけれど人から褒められるのが何より好きなホームズと、正直者で人が好く、奇矯な友人への賛辞を惜しまないワトソンは、非常に個性の際立つキャラクターですが、二人の関係性が興味深いです。
ホームズの才能に惚れきっているワトソンに対し、一見優位に立っているのはホームズのほうなんですが、その実ホームズは、最早ワトソンなしではいられないだろうと思うほど、ワトソンに対して強い思い入れを抱いているのがこの巻のエピソードで分かります。
例えばワトソンが犯人から発砲され、脚にかすり傷を受ける場面があるのですが、そのときのホームズはいつもの冷静さもどこへやら。
「怪我はないか!!」とワトソンに駆け寄り、「ワトソンに何かしたら、おまえを殺す!」と犯人をねめつけるありさまです。
その瞬間ワトソンは、「こんなホームズの一面が見られるのなら、大怪我したって価値がある」なんて考えるのですが・・・全く男が男に惚れるというのはこういうことかと、静かにアツイ二人の友情に、見ている(いや、「読んでいる」か)私はニヤニヤするような、「はいはいよかったね・・・」と言いたくなるような、羨ましいような。
ホームズもワトソンも、本当に愛すべき主人公たちですね。

そんな彼らの冒険譚も全て読み尽くしてしまったと思うと、とても寂しくなってしまいます。
実は原作者コナン・ドイルの手によるホームズ関連小説には全部で60ものエピソードがあるのですが、実はコナン・ドイルがホームズ小説を書くのをやめることを目論みつつ、それが叶わなかったことが途中2回もあったようです。
1度目は1893年、"The Last Problem"(第1巻に収録)でホームズを崖から落とし、死んだ事にしちゃおうとドイルが考えたときでした。
そのことを母親に話すと、既に息子が書くホームズ小説のファンになっていた彼女が怒り出したという逸話が有名です。
後世の読者はホームズのご母堂に感謝しなくちゃなりませんね(まさか、お母さんに怒られたから、8年後にホームズ作品を再び書き始めたということはないと思いますが)。
2回目は1917年、"His Last Bow"の執筆時。
ドイル自身はこの作品で、今度こそホームズのエピソードを書くことは終わりにしようと考えていたようです。
このとき既に、ホームズの小説が最初に出版されてから39年もの月日が流れており、およそ50のエピソードが発表されていました。
長きに渡って同じ人物を主人公にした作品を書き続けることで、自分の文学的な試みに困難が生じてしまうとドイル自身が感じていたことが理由だったようですが、その後読者からの熱い要望に押されるかたちで、更に12のエピソードが書かれています。
当時のホームズファンは、まさに今の私と同じ気持ちだったのでしょう。
40年近くも雑誌に掲載されていたのですから、中には最初のエピソードが発表された当時からのファンという人や、親子で、いや、ひょっとすると3世代で楽しんでいたという人もいたはずです。
ホームズ・ワトソンと知り合ってからまだ2年程度の私ですらこの気持ちですから、彼らは既に、ホームズもワトソンも長年の友人か親戚のように思っていたことでしょう。
だからこそ、彼らを主人公にした映画やテレビ番組が今に至るまで何本も製作されているのも理解できますし、二次創作的なスピンオフ作品も沢山書かれているというのも、大変よくわかります。

コナン・ドイルは、最後の一連のエピソードに寄せた序文で、ホームズとワトソンはあらゆる名作の架空のヒーローたちが住む、幸福なリンボ界にいると述べていますが、私にとっての彼らはそんな所にいるのではなく、読者である私の心の中にいます。
この本、図書館などの本ではなくて私自身の本棚の中にありますから・・・いつでもホームズとワトソンは、うちの本棚部屋でパイプをくゆらせているのですよ。

英語の難易度: ★★★☆☆
格調高い英語ですが、古臭い文章ではなく、寧ろかなり読み易いと思います。
非ネイティブの英語学習者であれば、スラングの多い現代小説よりはよほど簡単に読めるでしょう。
時折時代がかった単語も出てきますけれど、それほど多くはありません。

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洋書を読むのが大好きな英語学習者です。東京都在住、一児の母です。宜しくお願い致します。
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