生産性運動導入から、中止まで 第一話

May 19 [Sun], 2019, 7:40
長らく更新出来ませんでしたが、本日は生産性運動の導入前後のお話を中心にさせていただこうと思います。
生産性運動が正式にスタートしたのは、昭和45年4月11日で、現場の意識改革と言うことで生産性本部の協力を得てスタートするのですが、概略を最初に述べさせていただきます。

生産性運動の開始から終焉までの概略

1) 生産性運動を行おうとした背景
そこには、昭和30年代から続く、過激な組合運動とその対策として、何らかの意識改革が必要であると考えられていました。
2) 現場長も学園も、本社も消極的でした
意識改革と呼ばれるものは何処もそうですが抵抗されるものであり、現場長による研修でしたが、受講後は意識が変わって行った〔これが後にマル生運動を崩壊させる根拠となった可能性もあります〕
3)生産性教育はボトムアップを期待する改革、そのために発行された日刊、「能力開発情報」
4以降は、次回に書きますが、概要だけ記述しておきます。
4)生産性運動の本社・管理局への上部展開
5)生産性運動の現場からの浸透と組合の反発
6)組合による、マスコミを利用した反マル生運動政策
7)中止に追い込まれる生産性運動
8)更なる現場の疲弊と物言わぬ中間管理職たち

1)生産性運動を行おうとした背景

生産性運動を行おうとしてきた背景には、職場の後輩がありました。
昭和30年代に入りますと、組合運動が先鋭化していました。違法なストライキも続き、国鉄本体としてもその流れを変えていきたいという思いもありました。
石田総裁辞任後、副総裁であった磯崎叡が6代目国鉄総裁として就任することになりました。
国鉄生え抜きの人材ですので、国鉄の現場の荒廃などをよく見てきていますので、何とかしたいという思いはあったかと思います。
「国鉄を売った官僚たち」を執筆された、大野氏の回想によるますと、それまでの「養成課」という名称を変更するように指示したのは、磯崎総裁であり、大野氏が「能力開発課」と言う名称に変更したいと案を出したところすぐOKと言われたとされています。

2) 現場長も学園も、本社も消極的であった

当初は現場も消極的であり、意識改革など出来ないという先入観があったように思います、これに関しては、以下の大野氏の「国鉄を売った官僚たち」の記述が参考になるのでは無いでしょうか。
「国鉄を売った官僚たち」から引用したいと思います。

生産性教育に最後の望みを託す
ところが、開校初期直後の座談会では、一人の区長はこう言った。
「われわれは事故防止が第一で、生産性を上げる予知なんかない。それに、二十三区だけが生産性向上やって何になるのか我々だけ生産性向上をやったら損ではないか」
また、ある区長は
「教育なんかより、信賞必罰だ。私の区でも4、5人悪いのを首を切れば良くなる。この忙しい時に4日も区を上げるのは勘弁してくれ、区に帰りたい」と言いだす始末であった。そこでわたしはこう言った。
「とにかく4日の研修を受けて欲しい、そして、もう一度こういう検討会を開く、その時、再び今と同じような話が出るならば、この教育はやめましょう」

ということで、否定的な面々が多かったのですが。

と書かれているように、決して協力的ではありませんでした。
しかし、4日の研修を終える頃には、以下のように、その意識が変わっていったのでした。
4日の研修を終える頃になりますと、助役の地人たちの意識が変わったのでした、その辺りの状況を、再び、引用させていただこうと思います。

 「今まで私たちは他の動力車区と進まず遅れず、歩調を合わせていけばよいと思っていた。間違いでした。良いと思ったことは、横を見ずに、これからはどんどん前に出ます」
 「今までの自分の甘さを痛感した。外部の人があれほど国鉄を憂えているのに、私たちはどうか。
知らぬふりを続けてきたのだ」
 「私は変わった。組合に囲まれても彼らと激論を闘わす自信がついた」
 「これまでは井戸の中の蛙であった。明日から死ぬ覚悟でやる」
 「これはでかいことをやるんだということが途中から分かった」  


とあるように、今までとは真逆の感想が得られたことになりました。
この結果を受けて、最初に選定された23の動力車区にあっては、生産性本部が引き続き月2回程度の割合で実施することになったと書かれています。

また、本格的な生産性運動が始まる前の2月2日から、3泊4日の日程で中央鉄道学園において駅現場幹部研修会が開始されました。
これは、悪名高い23駅の職場改善を目指すということで、動力車区と競争させてみようという腹づもりだったと回想しています。(23というのは偶然であったとされています)
駅現場幹部研修会は、もちろん、生産性運動ではありません。
こちらも一定の成果を得られたようで、6月頃から生産性運動に移行しています。

3)生産性教育はボトムアップを期待する改革、そのために発行された日刊、「能力開発情報」

国鉄本社でもユニークな取組が行われました。
それは、「能力開発情報」日刊の記事でした。

機関紙というかチラシが「能力開発情報」でした。
能力開発情報は日刊で、現在のようにパソコンなど無い時代ですからもちろん手書きのガリ版刷りと書かれていますが、今から見れば貧弱なものですが、これが現場の生産性運動を奮起させる大きな原動力にもなったそうです。このような機関紙を発行しようとした理由を、大野氏は下記のような記しています。

再び「国鉄を売った官僚たち」から引用してみたいと思います。

私は、3月12日から14日にかけて行われたソニー常務取締役・小林茂の講演を聞いて大変な感銘を受けた。小林の話は要約すると次のようなことだった。
「従業員の心にキラキラ輝く旗を立てなければならない。権力によって支配し、命令に従順であることだけを求める組織では従業員の心に決して旗は立たない」〔下線部は筆者注記〕
キラキラ輝く旗は『情報』によって立つ。お客にモノを売り込む情熱と手法を従業員に使うべきである。答えだけを下部に流すやり方を改め、これからは、本社は正確な『情報』を下部に流すことを務めるべきだ

と言った内容であったそうで、出来るだけ正確な情報を下部に流すことで従業員が自発的に動く組織を作るべきだと書かれているわけです。
 本文はもう少し続くのですが、長くなりますので引用することは控えますが、要約しますと、立派なものでなくてよい、むしろガリ版刷り、手書きの方が親しみがわく、一ページで良いから毎日発行する、読むのを強制しない〔いわゆるチラシですから〕という今までであれば、通達であるから読んでおくように・・・的な押さえつける発想では無く、全く反対のアプローチを取っているのが特徴です。
実際に、「能力開発情報」は、ガリ版刷り一枚モノの日刊として発行されることになったそうです。

若い人にガリ版刷りと言ってもぴんとこないと思いますが、ガリ版と呼ばれる、鉄の板の上にろう紙をおいて、鉄筆と呼ばれる、ペン先が尖った金属の鉛筆様のもので、手書きしていくものでした。

当初は、誰も見向きもしない・・・そんな状況でしたが、やがて管理局からも情報が上がってくるようになり、情報の大きなうねりが起こって行ったのでした。



画像は、『国鉄を売った官僚たち』からキャプチャした「能力開発情報」の一部
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鉄道ジャーナリスト、日本国有鉄道研究家の加藤好啓です、ジャンル分けしながらblogをアップしています。こちらでは、労働運動史別館として、硬派なblogを運営しています。下記のようなサイトも運営しています。
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