October 30 [Sat], 2010, 22:41
よくテレビなどで、学校のいじめ問題が取り沙汰されたときに、加害者にはそのもりがなかったと言うし、学校側は把握していなかったと言うが、あれはヤバい。嘘をいているというのではない。嘘ではなく本当だからこそ、本当にヤバいのである。ちょっと笑ってしまう話なのだが、職場での僕はわりとポジティブなイメージにあるらしい。これは猫を被っているだとかではなく、ただ仕事を始めたての当初、愚鈍な僕が愚鈍なりに仕事をこなしていくには、素直に誠実に努めるというのが最も確実だったのである。そうしているうちに自分のイメージを崩し損なって、今に至るわけだ。それでときおり仕方なく、「僕、本当は黒いですよ」などとフォローを入れる必要がある。ところが相手の返す刀が、「またまたぁ」といったものだから、当然らちはあかないのだが、しかし、(本当にそうなのだ)と、しみじみ考えてしまったりする。(僕は黒い)ということを、嘯いているのではなく、きちんと認識出来る冷静さは、失ってはならないと思う。感情という点から言えば、実はほとんどの人が、誰かを殺してしまいたいほど憎んだ経験があるのだそうだ。もちろん人間には理性があり、幸い多くの人はその憎悪を実行に移さずに済ませている。だが憎悪は人間のなかに確かにある。それも殺意に至るほどの。許されるなら、人は人を殺すかもしれないのだ。「許される」とは何に許されるのかというと、それは社会だとか法律だとかではない。善悪である。なぜなら法律の善し悪しを法律で定めることは出来ないのだから。〈善悪〉それ自体は概念に過ぎず、自分の外を探しても形式以外のものは見当たらない。善悪はすでに自分が知っている。率直に言えば。社会や法律などの規律が本当に善いのかは、自ら分かるしかない。誰かに腹を立てたとき、それは感情の作用だと心得ておくべきだろう。自分が正しく相手が間違っているから腹が立のではない、〈怒〉の感情が私を腹立たしくさせているのだ、と。正否と怒りとを一緒くたにするべきではない。そのことを認められず、自分の正当性ばかりを肯定的に捉えるというのは非常に危険だ。理論としてはこうなる。「僕は腹が立った。相手は間違ったことを言っているから僕は腹が立った。だからこの怒りは正しいのだ」「正しいのだから、僕のすることは善いことなのだ」戦争でより多くの人間を殺して来たのは〈悪〉ではない。〈善〉である。なにも憎しみや怒りに限ったことではない
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