1958年二輪車・バイク広告集(98)

December 29 [Sat], 2018, 15:06

座談会 オートバイ10年ひと昔
1958年月刊「オートバイ」7月号(モーターマガジン社)



    出席者・(発言順・紙上敬称略)

  山田 勝 哉 オートバイ販売業・山田商会
  鈴木 俊 男 鈴木自動車工業株式会社 社長
  本田 弁二郎 本田技研工業株式会社 浜松工場長
  山田 四季二 オートバイ販売業・SYモータース
  犬飼 兼三郎 株式会社ヤマト商会・社長
  土屋 行亥知 土屋工業所
  北川 広 司  北川自動車工業株式会社・社長
  溝淵  定  丸正自動車製造株式会社技術部長
  増井  勇  株式会社ロケット商会・社長

          司会 編集部




 戦後オートバイのメッカは浜松とされている。なるほどひところは国産車の70%近くまでが浜松周辺で作られたこともある。そのゆかりの地で焼け跡から生まれ出た“オートバイの生い立ち”を昔を知る人達に語っていただいた。


司会:今日は戦後のオートバイ発祥の地と言われる浜松で、当時を知っておられる方々にお集まり願い、いかにしてオートバイが生まれたか、その苦心談やら珍談奇談を語っていただこうというわけです。現在オートバイに乗っておられる方や、オートバイに興味を持っておられる方々でも大昔のことは知っていても案外に戦後のオートバイが作られ始めた様子を知らない人が多いのじゃないかと思うんです。

 それに戦後の発祥の頃の模様が所説粉々なんですね。そんなわけでひとつの正しい歴史を記録しておくという意味からも大いに意義があるのではないか……と、かように思っております。まず発端はどうなんですか。どういう訳でエンジンに手をつけたか……ということですね。戦後他にも手をつけて良さそうな仕事はあったと思うんですが……。


 人的にも物的にも好条件

山田(勝)あれは終戦直後無線機の発電エンジンが大量に放出されたのがなんといっても大きな動機となっているでしょうね。

本田 21年の夏かな、焼けあとでボルトやナットを集めたことがありましたよ。あの時は自転車の前輪にエンジンをつけたんですがしばらくは走りましたね。確か21年の9月でしたよ。

鈴木 私はあの頃本田さんから25円かな……いくらだったかな確か25円ぐらいで自転車に付けるエンジンを買ったんですよ。あれは大体犬飼さんが考え出していじりだしたんですね。今日はまだ犬飼さんが来ていないが彼が来れば当時の様子はよくわかるんだ……。

本田 そうだ、犬飼さんが詳しいですよ。
山田(勝) 航空隊あった近くから やりだしている。
鈴木 どうもあちこち3〜4ヵ所でやりはじめたらしいな、どこそが一番初めに手掛けたなんてことは言えないな。名古屋の内藤(キャブトン)がやりだしたビスモーターも古いぜ。山田 トーハツが初めて生まれたのは……これはこういうことなんです。当時私が自動車のバッテリーを2個利用して電気自動車を作ったんです。ところが島田から焼津ぐらいのところで電気がなくなって往復できないんですね。



 まあ焼津で1時くらいまで待っているとまた走れるんです。こういうのを終戦の次の年に作ったんです。それからアメリカの4サイクルエンジンなどを足ならい部品を自分で何とか作って3~4ヶ月かかって回るようにして……まあ、こういう機械いじりが好きなんですよ。このエンジンはある農家に売ったんですが、こんなことをしていたら伊藤さんという方が家に来たんです。

 この人は陸王モーターサイクルに永くいたんだそうですが、とにかく陸王に軍の発電用の小さいエンジンがあるんだが見に来ないかというんで、伊藤さんと行ってみたんです。すると2サイクル78cc というのが1000台以上もあるんですね。その内加工されて、まとまったものが200台くらいあるんです。そしてどんな方法でこのエンジンを買ってくれるかって言うから、先ず一週間貸してくれ……寝ないで研究してみるからという理由で借りてきた。

 さあ家へ帰っていじり廻してみたんですがエンジンは確かに動くんです。それでこれを自転車に取り付ける方法を考えて何とか取り付けたら結構走るんですよ。そこで陸王へ報告したんです。こっちは金がないから……。とに角1台いくらかっていったら当時で4,000円、これを加工して1万円位で売るわけなんですが、これを条件つけて初めて3〜〜4台と持ってきては加工し、信用着いてから1箱2箱と送ってきた。200台ぐらい出したら陸王の方に仕上がったエンジンがなくなっちゃった。そこで陸王から人を借りてきて加工したんです。

司会 それは何という名で売り出したんですか。
山田(四) SY 号です。これは前置きがずいぶん長くなっちゃったんですが、昭和21年から22年位の話です。それで結局このエンジンというのがトーハツで作って国に収めたものなんですね。陸王が当時軍の仕事としてこのエンジンを扱っていた訳なんです。それ が戦後、民間に出されたわけですよ。そのトーハツがこのエンジンを使ってモーターバイクを作り出したんです。



司会 その頃本田さんも何か作っていたんじゃないですか。
本田 まあ大体そんなことをやってたんですよ。(この時犬飼氏出席)
司会 今オートバイ製作の発端を伺っているわけなんですが、どうも犬飼さんが来ないとわからないというわけなんです。航空機用発電エンジンを利用したということは確かなんですが……。
犬飼 そういう部類のエンジンが戦後民間放出されてこれを利用しだしたということは事実だねまあ私が知っているのは……他にもっと早くエンジンを手がけている人がいるかもしれないが、21年の9月頃名古屋の西野という人が2台もエンジンを持ってきて「これ何とかならないか……」と相談に来たんですよ。

 その頃本田(宗一郎)さんがよく尺八を吹きながら私の家へ来たもんです(笑)。昔から彼とは友達なんですからね 家へ も来ているわけだ。その時に、その預かっているエンジンを見つかっちゃった。「これはどうするんだ」っていうわけですよ(笑)。そしてどうしてもやらせろと言うんだ。「俺はお前と組んで仕事したら喧嘩別れになるからダメだ」って言うんだけどどうしてもやらせろというわけで(笑)……いやこれは本当のことなんだ、今日ここには本田くんの弟もいるけど……まあそれで本田君と弁二郎君と3人で二俣の工場を利用してやりだしたんだ。当時本田君は、りんごかなにか作っていたんだね。

司会 それはどの位のエンジンですか。
犬飼 あれは2サイクル50ccくらいのやつだな。確かミクニで作ったエンジンだったね。当時やはり航空機用のエンジンとして軍に収めていたんだ。あれはいいエンジンだったね。蒲田と小田原に工場があってね、5〜6回トラックで運んだな。
司会 どのくらいあったんですか。
本田 あれはどのくらいあったかね、とにかく300台ぐらいやっているうちに次の設計をやったからね。だから300台ぐらいじゃないかな。初めはハンドルの前の方につけて上から車輪にコロを接触させたりしてね。あれはハンドルがふらついてだめだったね。そうだその頃だ、焼け跡からボルトナットを集めたのは……。

山田(四)終戦当時一番感じたことは2サイクルエンジンを知っている人がいないということですね。当時放出の2サイクルエンジンを自転車につけた人が自動車屋へ修理に持って行った「これはオイルが入ってないじゃないか」っていうんでクランクケースにオイルを入れて走らせたんですね。当時の2サイクルといえばビリアスばかり見ていたからピストンの頭が出っ張っていなければならないと思っていたんです。軍から払い下げのピストンは頭が平らなんで珍しいピストンだ、なんていっていた。分解しても2ストロークエンジンとは気づかなかったんですね。業者がそのくらいだから一般には2サイクルなんて知っちゃいなかったでしょうよ。

土屋 そう、大正時代にもそういうエンジンはなかったですよ。
犬飼 まあ幸せに初めの頃出たエンジンが良かったからこそ、その後も伸びたということがいえるね。当時トーハツの軍用エンジンなんかも払い下げられたんじゃないかな。
山田(勝)それを先ほど話したように山田四季二さんが取り付けエンジンにして出したんですよね。
山田(四)結局あれは私が手掛けてからトーハツと関係のある清水プレスというところで車体を作り、その放出エンジンを使ってトーハツ号として売り出したんですね。それは22年か23年頃でしょう。

司会 当時あちこちで同じようにエンジン、つまり航空通信機用のエンジンとか発電用の小型エンジンの払い下げ品を活用していじりだした……。というわけですね。それにたまた焼け残った手持ちの工作機械もあるし、人的物的にも大いに素地があったわけですね。
土屋 それも飛行場とか航空隊が近くにあったということは地の利を得ていたわけですね。
司会 その頃大阪と名古屋などはどうだったんですか。

本田 大阪の方ではポインター など早いほうでしたね。
犬飼 そうだポインターも古いね。
北川 名古屋のビスモーターも古いですよ。昌和も古い方だね。
鈴木 大阪とか名古屋辺りでも結構早くから何か作っていたようだね。



司会 溝渕さんライラックは当時どうでしたか……。
溝淵 私の所で一番初めに作ったのは23年です。タイガーというのを10台ぐらい趣味で作ったことがあるんです。その後23年でやめたんですが、あちこちでオートバイを作り出してきましたのでそれではシャフトドライブで行こう行こうということになり、本格的に作り出したのが26年です。

司会 あちこちでやりだしたので刺激されたんですね。
溝淵 いやそういうわけでもないんです。それまで自動車の修理とかボディを作っていたんですが、自動車関係の仕事は刈谷とか大きいところで仕事をやりだしましたからこっちの仕事が少なくなっちゃった。そんな関係もあるんです。
北川 タイガーというオートバイは当時としては活目すべきものでしたね。エンジンも単体ですし、リアクションもある。それに当時はスタートが押しかけ式のものばかりだったがタイガーはキックスタート式だったんですね。駆動はベルト駆動でしたね。

溝淵 そうですベルトでした。あの頃押しかけ式のオートバイは重くてね、なかなか押し切れない。ベルトが滑っちゃうんですよね。とにかく始動は大変でしたね。



司会 鈴木さんは魚釣りでヒントを得たというようなことを伺っておりますが……。
鈴木 魚釣りでヒントを得たなんていうのは嘘だ。大体釣りに行くのに自動車で行くんじゃどうも面倒でね、そこで自転車で釣りに行ったところを人に捕まっちゃってね、あの当時に特殊自転車協会というの 浜松にあったんですね、それでその会長になってくれていうことになったんです。

当時はたまたま織機工場暇だし、ストライキが半年も続くと、もうつぶれそうなんだ。その頃わしもバイクエンジンに乗っていたんだがどうもまだ考える余地がありそうなんだな。そこでうちの技術部でひとつ設計をやってみろって言ったら、もうそんなものは設計してあるって言うんだね。(笑)1/2馬力 のやつをもう作っているんだ、よしそれじゃあ俺がやってやろうというわけで36 cc のエンジンを作り始めた。

それでフリーの特許を出したら四国の助役の息子が3年前に同じようなのを提出しているんだね。調べてみたら実際には使ってないようなんだ、そこで親父が行った、親父は何も知らないから案外安く買ってくるだろうというわけで行かせたわけだ。(笑)そこで初めて5万円で買おうと思ったところが5万円ではダメだっていうんで10万円置いてきたんじゃないかな。

犬飼 親父さんが帰ってきてから、わしが5000円で特許を買ったのかって言ったら怒られたよ。(笑)
司会 パワーフリーは何年ですか。
鈴木 昭和27年だね。
司会 増井さん、ロケットはいつ頃から出したんですか。
増井 うちは24年頃ですね。
司会 北川さん(ライナー)と一緒ぐらいですか。
北川 うちの方が遅いでしょう、確か26年からです。


 松根油の思い出

司会 燃料の問題はどうですか。燃料にまつわる面白い話があるんじゃないですか。
鈴木 それだよ僕が特殊自転車協会の会長なんか押し付けられたのも、そもそも燃料のことが原因なんだ。(笑)
犬飼 そうだ、松根油を作るために会長が必要だったんだ。(笑)
鈴木 あの頃は燃料は統制だからね。はじめのうちはうるさくいわなかったんだけど、だんだんうるさくなってね。そのうちガソリンがないはずなのに……というわけで警察がうるさいんだ。

 そのうち犬飼さんが県へ行って頼んでくれるということで県と交渉したんだね。1 ℓ でもいいからガソリンをくれってね、そしたら医者とかどうしても必要なというものだけは緊急の場合オートバイに乗るのにガソリンがないということは不便だから毎日1 ℓ やるということになった。しかしこの1 ℓ の切符が大変なんだ。
司会 ヤミはありましたか。
犬飼 ヤミもあったね。
鈴木 でも1リットルの券を毎日のように今日使ったことにしてごまかしてたようだね。

 そのためには松根油を使っていたということにしなきや券が浮かない。そこで松根油を造らにゃいかんということになったんだね。
増井 あれは臭いやつでね……。(笑)
犬飼 そうだよ。
鈴木 松根油は始めは走るんだが、そのうちくすぶっちゃって駄目だ。(笑)

犬飼 だから燃料タンクはガソリンを入れて入れといてコシ網の口へ松根油をしめらせた布を入れといたりしてね。(笑)タンクの中は立派なガソリンだけど調べられた時にはキャップを開けて臭いをかげば松根油と思うだろうというわけだ。結局そういうわけでエンジンも多少伸び悩みになったね。

司会 統制解除になったのは何日頃ですか。
犬飼  昭和27年(1952)7月1日だ。とにかく当時思うように乗れなかったものね。一番潤っていたのは当時,名古屋なんか良い方じゃなかったかな。こっちはやむなく松根油を造ろうということになったんだけど、あのとき静岡大学の伏見教授と心安くなったんだ。それは当時大学を再建するのに資金がない、そこでヤマトの社長が多少資金を出したんですね、そんなわけで静岡大で松根油を研究してもらったんだ。



増井 しかしガソリンがなくなっちゃって、困ったということもなかったようですね。
土屋 ガソリンより松根油の方が高かったんですね。(笑)


 当時のユーザー

司会 当時を語る場合は燃料関係も重大な問題の一つですね。ところで当時ですね、昭和21年とか23年とかの時分のユーザー気質といいますか、主にエンジンを買う人はどんな人たちなんだったんですか。
増井 まあ若い人たちが多かったね。
山田 まだその頃は代理店なんてものはなかったんだし、別に売るっていうよりも自分で自転車につけて乗るつもりでそういうエンジンを売っていくんです。そうすると人が来て是非売ってくれということになってだんだん商売の道に入っちゃうんです。(笑)

犬飼 熱心な人は製造元まで買いに来るんですからね。僕はこう思ってたな、あの頃は軍隊を復員した人たちが多かったでしよ、そういう人たちには軍隊で機械の技術を身につけている人も多いんですよ。そういう人たちが我々のところへ荷をしょいに(背負う・取りに来る))来て地方へ行ってそれを売る。そういうのが多かったようですね。
土屋 そうでしたね、リュックサックみたいな袋に3台ぐらい入れてね。
本田 エンジンに対する説明はよくわかりましたね。特にお医者さんはやはり、そういう面では頭が緻密なんでしょうかね、こちらの説明がよくわかってもらえましたね。

犬飼 2サイクルの場合混合のパーセントはよく知っているんですが、混合の仕方が実に雑でね。(笑)ガソリンを入れといて後からオイルをたらたらと入れてそのまま走って行っちゃう。(笑)困ったあれはには(笑)。
司会 修理なんかどうでしたか。
司会 修理なんかきやせんよ。(笑)
山田(勝) 第一修理なんか考えてなかったですね。
犬飼 確かによく売れたね。前金どころじゃない、新円と切り替えの時だったが不思議に思ったね。どうしてこんなに金があるのかね(笑)。ひどいのは九州から来た男なんか一週間も粘って待っているんだ。当時のは手付かずに売れましたね。

本田 昔と今では大衆の考え方も大きく変わったでしょうが、メーカーがこれまで進んできたのは大衆から尻を叩かれたからなんだと思うね。始めの頃2サイクルはかからないといってくる人は大抵オイルとガソリンと混ぜちゃうからダメだって言うんです。これを説明するのに苦労もしたけど、自転車屋さんなんかも知識がなかったんですよ。またあの頃悪い油が出回ったんですね。エンジン売って4~5日したらお客さんが怒ってきた。そこで分解してまた始動させるとかかるんです。

そんな時はお客さんも喜んで帰るんですが、また怒ってやってくる。丁度夏でしたがね、タンクから洩っている燃料はガソリンだけ蒸発してオイルが残るでしょう、そのオイルがニチャニチャしてるんです。これは変だと思って調べたら松ヤニをモビール油に混ぜてゴタゴタにして2〜3倍にして売ってたやつがいたんですね。当時はお客さんも知識はなかったんですからね、オイルといえば松根油も石油も同じと思っていたんだ。(笑)だから油屋でオイルくれっていうと石油なんか渡されちゃう、これをガソリンに混ぜちゃって、どうも力がない力がないって……(笑声)
犬飼 そりゃそうだ石油で洗っちゃうんだもの。(笑声)


 苦労した部品

司会 部品なんかどうでした。例えば電装部品とかキャブレターなど……。
鈴木 うちで研究していた頃、国産電機へ行って小型のマグネットを作ってくれといったら、こんなのこりごりだっていわれた。そこで聞いたら以前に3千個ぐらい小型のマグネットを作ったらしい。それがみんなキャンセルされて、こまりきっていたところなんですね。そんな時だから引き受けてくれない。
犬飼 この話など当時を語るにはまず重要な話だな。第一に仕事をやる段になって心配したのはマグネットだったよ。あのエンジンは三菱のマグネットだった、それで姫路の工場まで出かけていった。それが戦後工場を閉めちゃって何やろうかという状態だったんだ。こっちは手持ちのあるだけの部品を持ってきた、そして今後ずっと仕事をやるからマグネットを作ってもらえないだろうかといったところが「こんなものはダメだ」って言うんだね。その後作り出したが、当時は面白くないからって国産へ行った。とに角あらゆる部品を揃えるにはずいぶん苦労したよ。



本田 それにコバルトニッケルも使えなかったなあ。これは困ったね。
犬飼 それからキャブレターも困ったね。三国でなかなか作ってくれない。それよかそんなエンジン取り付けて本当に乗れるかって言うんだ。(笑)仕方がないので1台やったよ,そのうちにどんどん売れ出したので作ってくれる気になったらしい。
本田 部品の話が出たけどチェンが悪かったね。切れて困ったよ。ちょっと乗ると切れちゃうんだ。それはお客さんに怒られた、怒られた(笑)。謝るよりしょうがない。ベルトでも苦労したね。
司会 タイヤなどは……。
本田 まあタイヤなどは特に悪くはなかったね。

鈴木 僕はマグネットーを自分で巻いたものね。はじめ国産電機へ行ったらそういうマグネットーは嫌だって言うんだな。しょうがないから自分の乗る分を自分で巻いて走っていた。そしてこういうのを作ってもらいたいと言ったら話がスラスラと運んで、それなら、というわけで作り出した。あの頃の BS モーターはバッテリー点火でしたね。あのバッテリーのやつに困っていたらしいね。その後、僕のところで小型のマグネットーを作ったものだから BS もそれを使ったんですよ。

司会 作る方もこちらに動かされて作り出したんですね。
犬飼 それもあるだろうけど、結局作ってもそんなに売れないだろうというわけなんだ。事実少しばかり余計に作って売れなくて困った部品メーカーもあったらしいね。そういうことで二の足を踏んでたともいえるんだ。
司会 取付用の補助エンジンからスタートして完成車らしきものができたのはいつごろからですか。

北川 そうですね完成車らしきものと言うと関西のジミーなんていうオートバイもあったんですね。
司会 どこですか……。
北川 大阪です。2サイクルのね……。
山田(勝)タイヤが4.00ー16吋だったんですね、太いタイヤだったことを覚えています。
犬飼 あれはダットサンのタイヤを利用したんだね。当時9万円とかいってたな。
司会 何年頃ですか。
犬飼 ええと昭和22年か3年だったな。



鈴木 ホンダのニュームのタンクの車があったね、あれはいつ頃かな。
本田 プレスの車体でしょ、あれは D 型だな。23年ぐらいでしょう。E型になったのは26年です。
北川 丸正さんも完成車としてなら古いですね。
溝淵 あのチャンネルのフレームは50年型から出てます。24年頃ですね。
司会 その頃は北川さんもライナーを出してたでしょ
北川 いやまだ後ですよ。
司会 ロケットがやはり24〜5年頃出したんじゃないですか。
増井 そうですねそのくらいだったでしょう。

 性能向上に役立ったアマチュアレース

司会 そうすると25年ぐらいからはそろそろ完成車の時代に入るわけですね。完成車の時代というとオートレースですね。性能向上のためには当時のアマチュアレースは随分役立っているんでしょうね。
北川  戦後第1回目が確か多摩でありませんでしたか。
山田(勝) そうですね、25年頃でしたかありました。
犬飼 あれは24年だよ、いやまてよ、そうだ25年だ。サンダーを作っていた渡辺が賞を取ってきたんだから……。
山田(西) 4その頃は草レースでよく本田さんとかち合ったもんですよ。
犬飼 あんたも好きだったのう。(笑)
山田(四) 玉川でやってから後静岡で軽自動車クラブでやったね。
北川 そういえば浜松の一番初めは東高校の校庭でやったんだ。確か23年ですよ。
土屋 あの時ですかおかしなスクーターみたいのに乗ってきましたね。

司会 その頃は皆さん走ったんでしょう。
北川 あの頃は僕はいつも一番だ。(笑)
土屋 あの時競走会の会長をやっている平田氏が走ったんでみんな驚いていましたね。サイドスリップなんか平田氏が元祖でしょう。(注:生涯レーサー平田友衛40年のバイク人生)

犬飼 土地の連中はコーナーで遅いんだ。
司会 本田さんも走ったんでしよ。
本田 ぼくはあまり出ない。社長(宗一郎氏)がよく出た。
犬飼 私は出ていてもいつも遅いんだ。(笑)にかく平田はコーナーを回る時だってスピードを落とさないものな。
司会 スピードはどのくらい出てたんですか。
本田 広いところで70キロぐらいかな、あまり広くないところで40から50キロ ぐらいでしたね。
司会 排気量はどのくらいのやつですか。
本田 98cc というやつですね、たいてい。

北川 ホンダの社長はこういうんですよ「よく足をずらしている人がいるがそんなの邪道だ」ってね。しかしその頃外国の文献などを見ても足を出してずらして走っているんだね、それでみんな足をずらしながら走るのが出てきたんですよ。
土屋 日本じゃ足を引きずるのは関西式だなんていって悪く言っていましたね。
北川 本田さんが2サイクルの98cc。これが早くてね、誰も勝てない。その頃初めて勝ったのは私なんですよ。当時藤田鉄工のオートビットで走ったんですが、これはOHV の148 cc でした。当時藤田さんのところではミッションをやっていたんですね。その頃浜松からも大分買いに行ったでしよ。
鈴木 とに角ああいうレースは面白かったね。みんなハチマキしちゃってね、みんな俺んところが一番だってなんていうことになっちゃった。(笑)

犬飼 まあそうでなきぁ造れないよ。
山田(勝) そうでしょうね。とにかく始めは商売というより好きで始めてる人が多いんですからね。
溝口 大和ラッキーでレースに出ていた小さい坊やには恐れ入ったですね。
増井 早かったね、あの子供は今でも走ってるのかな。
溝口 今も見かけますね。
土屋 磐田市でやったとき出てましたよ。あの時は転んで気絶しちゃったですよ。
司会 あの少年は見事な走りっぷりでしたね。大の男大人がかなわないぐらいですからね。犬飼 しかし話が違うけどあの時分ボコボコとやりだした連中がみんな深みにはまっちゃってね。まあ犬飼のバカがやるというわけでみんなやりだしたんだろうが、あの頃静岡県で30軒ぐらいはオートバイ作りをやりだしたろうね。わしも罪が深いよ。(笑)

土屋 戦後をやりだした人達はそれでも伸びられ 結構ですよ。
犬飼 いやそれは違うな。伸びる人は戦後も何もないですよ、伸びる人は伸びますよ。
土屋 私は大正13年に当時 MSA というオートバイが350円でしたが、私も好きですから当時の月刊[オートバイ]など参考にして研究したんですよ、そしてBAC というオートバイを作ったんです。これは480円の値をつけたんですが半年で8台作っただけで一台も売れない。宣伝しなきゃダメだといわれたけど食う方が第一ですからそこまでとてもできない。

 これには泣いちゃいましたよ。そりゃ MSA の方が安いんだけど私の方がいい車という自信はあるんです。そしたらたまたま BSA の選手をやっていた小林さんという人が「君競争しなくてはだめだ」って教えてくれたんです。宇都宮で第1回の競争やった時ですよ。他車はみんな旗などを立てて宣伝してるんですね。こっちは金がないからしょうがない、よしやるだけやれというわけですよ。金のないのは強いですね。その競争で勝っちゃったんですよ。そうしたら、とたんに10台も注文が来ちゃった。その当時はそういう競争で勝つということが一番良い車だという風に思われていたんですね。それから大正15年でしたかね月刊「オートバイ」の主催で静岡で第1回の競争があったんです、こっちは走るだけですがその時カーブで他の車に囲まれちゃってね、転倒しちゃったんです。車体は2つに折れちゃいました。それで結局私は失敗しましたよ。


 これからのオートバイ

司会 その頃土屋さんは東京自動車学校の教師をやられたんですね。昔の「オートバイ」愛読者ですね(笑)。それではこの辺で将来の見通しなど伺いましょうか、その昔エンジンを手がけた苦労と、その後の過程をご存知の方々に今後の見通しを伺うことは大いに参考になると思いますが……。

山田(四) まあ気違い沙汰かもしれんがこれからの単車の行き方はね、自分が年を取って感じることは時勢のためかもしれんがスクーター的なものが今後いいじゃないかと思いますね。単車のミッションも2段3段4段となりオートメーション時代に逆に段が増えていくのはもうだめじゃないかな。今後は単車も自動ミッションをつける時代になるのじゃないですかな。ホイールの小さなやつとかの疑問もあろうが、スクーターの形になるんじゃないかなと思うね。

犬飼 今は商売やってないから思い切ったことは言えるんだが、スクーターのようなものになることも考えられるね。単車型のものはマニヤしか乗らなくなっちゃうし、雨の日も濡れないで乗れるということになるとどうしてもトッピな形になるな。
山田(四) こういう話があるんですよ。あるお医者さんが車が欲しいんだが単車型のものがいい、スクーターは嫌だって言うんですよね。そこで店の者に125cc の単車型とスクーターと2台持って行かせたんです。学校の庭で先生が125の単車型に乗ろうとするとなかなかうまく操作できない。そこでこっちは看護婦さんにスクーターに乗ってみませんかと言ったら看護婦さんも初めてだがすぐ乗れるようになって校庭をぐるぐる回り走り出した。先生はオートバイスタイルの車で困っている。そこで看護婦が乗り回しているのを見たので先生もとたんにスクーターにしちゃった。ですから単車型で自動変速装置になればもっといいんじゃないかと思いますね。

鈴木 しかしね山田さん、そこへ行くまでには四輪車になっちゃうよ。
山田(四) しかし四つ輪じゃ置き場所に困る。
犬飼 いやそうじゃないね 。今は道も広くなったし、今後はそういう面も考えられてくるから……。
土屋 ゆくゆくは自動的に動くものになるでしょうね。もうミッションなど段数はいらなくなるんじゃないか。
北川 だけどオートバイがこの先すぐどうこうということはないだろうが……。
増井 ひとつはスクーターに一歩近いものになるでしょうね。それが形態上そうなるか内容的に自動変速化するかは難しいですが。私は5年ぐらい前にピジョンのクラッチを使ってオートバイを作ったことがあるんです。しかし一般ユーザーはグンと出るやつ出ないとダメなんですね、やっぱりそういうのが欲しいらしい。

鈴木 悪いことに日本人は気が短いときている。(笑)だから交差点などは一番トップに出なきゃ気が済まない。
本田 トルクコンバーターですね、あれは日本の道はせせこましいし充分に使いこなせないと思うんですがね。
鈴木 燃費の問題もあるしね。欧州でトルコンが流行らないというのも燃費に対してヨーロッパ人は真剣なんです。
北川 始動が容易でパンクしない、燃費の少ない車が当面の問題だな。
犬飼 それでも一歩進んで考えなくちゃならぬことは、乗るのは乗るでいいのだが、しまう時の事を考えなきゃいかんね。

現在のオートバイは自分たちとのお灯明の消えるまでは大丈夫と言っているが、それは大きな間違いだ。どんどん変わっていきますよ。まあ来年の春先は小さいもモベットの競争になると思うね。
本田 僕はお先真っ暗だ。(笑)
鈴木 なにいうてるんだ、黙ってやっているんだからね、(笑)さっき北川さんが言ったようなスムーズに走るやつをやってんじゃないのかい。(笑)(注:カブC100)
北川 まあいずれにしてもオートバイの新しい傾向を見るとそのトップを切るのは浜松ですね。メーカーが戦後の苦しさを吸収する若さがあるんでしょうね。

司会 確かにそういうことは言えますね。ではこの辺で終わりたいと思います。どうもありがとうございました 。



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