僕は自らすすんでボランティアには参加しない。東北で妻の両親が津波でなくなったが、それでも救援にでかけることはなかった。真摯に救援活動をしている人には遠くから敬意を表している。
一方で、被災した人たちの人生も、津波によって、悲惨さもあっただろうが、別の面もあっただろうとは思っている。被災者がみなまるっきりの不幸だとはとても思えない。それが僕の思想である。
たとえば、電車のホームで人が線路に落ちた、という場合、どうするだろうか、といえば、どうするかはわからない。助けにいくかもしれない。知らぬふりするかもしれない。僕は思わず、助けようと思ったら、それは「縁」である。ボランティアをすることがよいことだとはちっとも思っていない。ボランティアする人の善意は善をしようとみせびらかすようであるからだし、それをして自己充足感に満ちているように思うからだ。もっと悪く言えば、「善」をテコに「悪」をということもあり得る。そんな匂いのする人もいることはこれまでの見聞で知っている。自分達のすることは正しいことだと思っている。
どの地域にもそんな人がいて、それを糧に生活をし、名をなし、何かを前向きに求めている。NPO法人というのはうさんくさいものもあるよな、というのが正直な感想である。
僕はそんな人をいつも疑問に思ってきた。それは僕の自惚れではなく、思想の問題だと思ってきた。
さびしい人たちは「善の行為」をよりどころにして、自らの行為を正当化する。善いことをしていると思う。
こういう思いがあって、いつも「ボランティア」についてはぎくしゃくした感覚を持っていた。
東北に義父母の死以外、何の関係もない僕が「縁」あって、「放射能」と関わろうとしている。そこには「善意も、何もない。ただ「縁」である。僕にそんな役回りがやってきたのである。そのことが善であるとか、人を助けるとか、そんなものはない。ただ「縁」あって、まわりまわって僕のところに来ただけのことだ。それを一生懸命にするだけだ。自ら「善」をなそうとすることは、半分は「悪」だぐらいにずっと思ってきたから、僕は前向きに「善」をなそうとは思ってこなかった。
ところが放射能については思うところが多々あった。またこれが除去できれば世はすっきりとするという思いもあった。ただ僕が関わるとは思っていなかっただけだ。
中国・内モンゴル自治区の砂漠も同じである。関係のない人には全く関係がない。ひょんなところから
関係ができてしまった。
人生とはそんなものなのか。不思議なものだ。