34篇A 

October 29 [Sat], 2005, 20:28
9節「主を恐れよ。その聖徒たちよ。彼を恐れる者には乏しいことがないからだ。」
10節「若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は良いものに何一つ欠けることはない。」

 「良いものに何一つ欠けることはない。」って言葉は全て欲しいものが与えられることではもちろんない。むしろ、与えられるべきでないものが与えられないという良いものさえ存在する。必要な欠乏感を通じて、自分がどれだけ恵まれているかを知る事もある。そうゆうことも含んで「乏しいことはない。」のだ。


11節「来なさい。子たちよ。私に聞きなさい。主を恐れることを教えよう。」


 これ、ほんっっっとに良い言葉だね〜〜〜。「主を恐れることは知識の初めである」(箴言1;7)って言葉もあるが、「来なさい。子たちよ。」って呼びかけが良い。「父の心を子に、この心を父に。」(マラキ4;6)って感じで。
 父親が創造主なる神を教える以上の教育があるだろうか?それなしにどんな教育が目指されるのか??それは結局経済ゲームであっても軍事であっても、競争すること意外には何も残らないのではないか?「主を恐れることを教えよう。」そう、キリスト者が伝えていくべき最優先事項は「主を恐れること。」「自分の創り主」を覚えること、なのだ。


18節「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの打ち砕かれた者を救われる。」

 まだまだ「打ち砕かれるべき」存在である。僕自身が。神はだれを通して僕を砕くかわからない。先生や先輩なら良いが、家族や後輩から「砕かれる」と辛い。どうしても頑なになりたがる。もっと素直に、もっと賢く。主の御手に心を馳せたい。


22節「主はそのしもべのたましいを贖いだされる。主に身を避ける者は、だれも罪に定められない。」

 当たり前と言えば当たり前だが、忘れがちと言えば忘れがち。主が贖うのだから、主に身を避けられれば罪にはならない。しかし結構「贖われる」事を拒むシーンは多い。だれだってそう、僕だってそうなんだ。救われたい分際で、「こうゆう救われ方でないと。。」とか言い出す始末。
 ほんの少し、ほんの5秒、深呼吸してみれば全然違ったりするのに、どうして、「もっと、もっと」となるんだろう。黙想の時間をもっと大切にしなくては。そう思わされた。

34篇@ 

October 29 [Sat], 2005, 20:27
1節「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。」

 もし僕を見かけたときに歌ってたら、それは「私の口にいつも主への賛美がある」証拠です。常に賛美が口から離れないのは精神的にも健康になれそうな気がします。


2節「私のたましいは主を誇る。貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。」

 なぜ「貧しい者」なのか?それは「豊かな者」に対する反感から生まれた祈りなんじゃないのか??当然考える。しかしやっぱり、そうではない。主がおられること「在りて在る」方を誇ることは、「自分を誇らない」ことであり、「自分を創った方を誇る」ことであるからだ。「貧しい者」は人に対して誇るべき何かが無い。よって誇れるのは「自分が存在している」こと、つまり「存在させられている」者であることを誇るのだ。 金持ちだとこうはいかない。金持ちは「金」を誇りたくなるのだ。偉い人は自分の「名誉」を誇りたくなるのだ。現代の日本人の平均的な所得を考えると、聖書に登場する金持ちと同じくらいの豊かさはあったんではないだろうか。「らくだが針の穴を通る」(マタイ19;24)と言う言葉は決して他人事ではない。これを読んでいる人すべてに向けられている。
 ただし、逆に言えば、、、「らくだが針の穴を通る」以上に驚くべき奇跡が起こっているのかもしれない。(わかる?)


5節「彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。『彼らの顔をはずかしめないでください。』」


 「主を仰ぎ見ると、輝」く。それはこの世にたって、積極的に回りを照らさずにはいられなくなる。「主を仰ぎ見ると、輝」かずにはいられない。「光を放て」(イザヤ60;1)。

33篇A 

October 29 [Sat], 2005, 20:27
12節「幸いなことよ。主をおのれの神とする、その国は。神が、ご自身のものとしてお選びになった、その民は。」

 キリストの誕生以後、この「神の国」は教会に譲渡されたと考えて良いだろう。僕自身の子供は多くのキリスト者にとってそうであるように、「教会の子」として育てたいものである。それは「神に授かった子供」であることをどこまでも貫徹することにある。


13節「主は天から目を注ぎ、人の子らを残らずご覧になる。」
14節「御住まいの所から、地に住むすべての者に目を注がれる。」

 ですね。恐くもあるが、とても嬉しいことでもある。いや、でもやっぱし恐いか。。。。


15節「主は、彼らの心をそれぞれみな造り、彼らのわざのすべてを読み取る方。」

 主は「心」もお造りになられた。被造物は外面的なものも当然ながら、内面的なものさえも神の物である。良く考えてみると、「少なくとも人は、自分の意志さえ自由にはできない。」(ベルセルク)では「自分」とはどこだ?自分とは存在しない存在なのだ。そう言うしかない。本当にそう言うしかない。つまり、「自分が存在する」とは、絶対に(経験→実験→証明という)科学の範疇を超えた「奇跡」だ。


18節「見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵を待ち望むものに。」
22節「主よ。あなたの恵が私たちの上にありますように。私たちがあなたを待ち望んだときに。」

 もっと、神に「恵」を求めよう。なんならお金も求めよう。知力や体力も求めよう。奇跡を求めよう。主を、「待ち望む」状況に自分を向け、その恵を経験していこう。

33篇@ 

October 29 [Sat], 2005, 20:26
1節「正しい者たち。主にあって喜び歌え。賛美は心の直ぐな人にふさわしい。。」

 正しいものってのは、必然的に「喜び歌う」しかないんじゃないのか?現実に今、「喜び歌」ってないのは、自分の罪の故ではないか?あんまりこれを徹底するとウツ病とかになりそうな気もする。しょっちゅう「自分は罪人か??」って自問するわけだから。まぁ考えながらやってみよう。


2節「立琴をもって、主に感謝せよ。十弦の琴を持って、ほめ歌を歌え。」

 この頃の「歌」ってどんなのだったんだろう。誰か知ってる人いないかな。復元して歌ってみたいな。なんかすっごいテンション上がりそう。


5節「主は正義と公正を愛される。地は主の恵に満ちている。」

 わたしは主の「正義と公正」を愛する。人間同士の折衝(折り合いをつける)案としての「正義と公正」なんかまっぴらだ。主の「正義と公正」がわからない時、わたしは祈ろう「憐れんで下さい。」と。
 「地は主の恵に満ちている。」ことを人間はすぐに忘れる。記憶の彼方に追いやる。人を恐がり、神を忘れる。暴力やあざ笑いを恐れて、神を忘れ、神に不平を言う。しかし、深呼吸して空を見てみよう。「地は主の恵に満ちている。」って感じられるかもしれない。


6節「主のことばによって、天は造られた。天の万象も御口の息吹によって。」
7節「主は海の水をせきのように集め、深い水を倉に収められる。」
8節「全地よ。主を恐れよ。世界に住むものよ。みな、主の前におののけ。」

 人間の罪深さの本質はこれを忘れることにある。被造物であることを忘れる。あたかも人間は永遠の始めから存在していて、自分が生きていることは当然の事であると考える。そして少しでも自分の目にマイナスに映る事が起こると、「なんでなんだ!?」なんて不平不満を述べる。
 「全地よ。主を恐れよ。」キリスト者よ、主を恐れよ。毒麦ではなく、「良い麦」(マタイ13;24〜)として存在するものよ。せめて我々たちだけでも「主を恐れよ」。造られた存在として、もっとも自然な生き方を生き抜いてみろ。(アウーレリウス)永遠の昔から自分達は存在すると考えることは自由だ。しかし、それは広い滅びの門ではないか?「世界に住むものよ、主を恐れよ。」

一句。 

October 29 [Sat], 2005, 20:25
(詩篇は休み)

「『のろわれよ。』

   この一言を隠したら、口にはできない

             マラナ・タ、と。」


☆Tコリント16;22。パウロは激情の人だ。聖書には「呪いの言葉」が間違いなく、存在する。それを忘れて「主よきたりませ」なんて甘っちょろい事言ってたら、偽預言者だ。もう一点注意すべき事がある。パウロがコリント教会に対して「主を愛さない者があれば」と語っていることだ。決して外部の者ではない。ということは・・・・。教会の中にいて「主を愛さない者」が残念ながら存在するということだ。自分がそうでないことを祈る。

32篇D 

October 29 [Sat], 2005, 20:25
11節「正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。」

 キリスト者よ「喜び、楽しめ」。歌って!踊って!!叫んで!!!楽しめ!!「いつも喜んでいなさい」(Tテサロニケ5;16)。
 キーワードは「正しい人」、「心の直ぐな人」。これを社会的通念として「正しい」「真直ぐ」「人に優しい」「世の為人の為」「愛を振りまく」など等、と勘違いしている人が非常に多いと思う。果たしてダビデはそうゆう意味で「正しい人」「心の直ぐな人」という言葉を使ったか??
 否!断じて否!三度否!!!ダビデが言いたいのは「神の前に正しい人」「心が神に真直ぐに向かっている人」のことだ。ユダヤ社会にあってこれは当たり前すぎで言葉にされない、故に日本人には勘違いされやすいが、「神の前に」という前提がいう人にも聞く人にもなかった事は考えられない。いくらでも強調しよう。「神の前に!!」っていうことが最重要なのだ。人間関係の相対的な「正さ」「直ぐさ」に翻訳されては決していけない。絶対に!いけない。
 「神の前に正しい」とされることはどうゆうことなのかは、ルカ18;9の「パリサイ人と取税人」の例えの通り。自分を低くするものが、「義認」される。義認された時の「取税人」を考えてみよう。これが喜ばずに居られるだろうか?楽しまずにいられるだろうか?「喜びの(絶叫)をあげるのではないか?」キリスト者の目指す境地は常に、「受動的」な喜びなのだ。「いや、能動であるべきだ」って?受動でいいのだ。なぜなら人間はそもそも「被造物」なのだから。

32篇C 

October 29 [Sat], 2005, 20:24
8節「私はあなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。私はあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。」
9節「あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。それらは、くつわや手綱の馬具で押さえなければ、あなたには近づかない。」

 ちょっとトーンが変わって、ダビデ→大衆の構図になった。「マスキール」だからか。
 「馬具で押さえなければあなたがたに近づかない」、「悟りのない馬や騾馬。」はどっかへ行ってしまう。暴力によって支配されないと、どこかへ行ってしまう動物。だれかに指図されないと、信仰をまっすぐに見つめようとしない信仰者。そのような人になってはいけない。


10節「悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼する者には、恵が、その人を取り囲む。」

 「恵が取り囲む」。こんな生き方いんじゃない?って言うと、おそらくほとんどの人がイエスと言うだろう。でもどうやって?と問われると、「う〜〜〜ん」となってしまう事が多い。そんな時ピンポイントで「悔い改めることだよ」といえる人は少ない。聞く側にすれば、「何でもするが悔い改めはしたくない。」って人が多いからだ。また、言う側も「何でも言うが悔い改めだけは求めたくない」って事がある。僕なんかそのタイプ。う〜ん、でもやっぱり言うべき時には言わなきゃね。
福音は「悔い改めよ」から始っている。神の前に悔い改める「主に信頼する者」には「恵が取り囲む」のだ。

32篇B 

October 29 [Sat], 2005, 20:23
6節「それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。あなたにお会いできる間に。まことに、大水の濁流も、彼の所に届きません。」
7節「あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます。」

 あなたに「お会いできる間」。最近知ったのだが、ある学者の説によると、「3000年程前、つまりダビデの時代は神(あるいは神々)と直接交わることができたのではないか?文字(絵ではなく記号として。つまりアルファベット)の誕生と共に、その力は急速になくなり、『神が隠れる』という現実があったのではないか?」という説があるらしい。
 その真偽はともかく、そう考えると古代ギリシャ神話、旧約聖書、ソクラテスなどなどに登場する「神の声」の意義が再確認される。神の声は現実にあったのかもしれない。
 ともかく聖徒は「あなたにお会いできる間」に祈る。祈り、祈る。その「隠れ場」に行くと、「大水の濁流」が自分に届かない現実を体験し、「救いの歓声」を上げることになる。少し現代的に言ってみれば、現代人の多くはネット社会の到来で、「情報の濁流」に少なからず飲み込まれている感覚があるだろう。周りがその中でどこに立ち居地を決めたらよいか、迷っている間に、キリスト者は「祈り」の「隠れ場」を持ち、何度も「救いの歓声」を上げることになる。近代化された世界に信仰はいらない、なんて訳知り顔で言う人がいるが、浅薄もはなはだしい。情報の「濁流」ゆえに、どうしても確固たる場が必要なのだ。そのヒントが「祈り」にあることは間違いない。

32篇A 

October 29 [Sat], 2005, 20:22
3節「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨骨は疲れ果てました。」
4節「それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。」
5節「私は自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたは私の罪の咎めを赦されました。」

 なんていうかね、その、泣けてきた。この感動があるから、信仰は続く。これが自分を生かしていると言える。ちなみに僕の決定的な悔い改めの祈りを恥知らずにも公開すると、「あなたに中途半端に関わってきた今までをお赦しください。」でした。すると、それまで(言ってみれば)「背骨」に憑いていた「主の御手」という重荷が、引いて行き、「自由」になった感覚が取り囲んでいたのでした。どの道主の御手から離れられっこないのに、反抗していたんですね。つまり。主の御手の方向に進めばそりゃもう、こんな自由なことはないですよ。


32篇@ 

October 29 [Sat], 2005, 20:22
「ダビデのマスキール」

 「マスキール」というのは意味不明らしいが、「教え」「教示」と言う意味が最も有力で、ルターも「教示する歌」「教える歌」と訳しているらしい。


1節「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。」
2節「幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのない人は。」

 「罪」は神に対する「そむき」。「罪の赦し」は神がそれを「おおわれる」こと。「覆う」とは「毛布で身体を覆う」というように使われる言葉だ。人は罪を犯す。しかし主はその罪をも包み込んで私を認めてくださる。罪人であることは間違いない。しかし、主が、「咎を認めない」という恵をくださるのだ。人のすべきことは「心に欺かない」こと。「自分の心の一番奥を隠さない・ごまかさない」こと。
 良く勘違いされるがキリスト者(“クリスチャン”でもいい。キリスト者を使っているのはなんとなく。反アメリカ!?の心境があるかも知れないことは否めない。)は「罪を犯してはならない」のではなく、「罪を悔い改めなくてはならない。」のである。そもそも「罪を犯さない」なんて不可能だ。悩んでもがいて、躓いてみて、「あぁやっぱり罪ゆるされなくてはならないんだ。」とわかればそれで良い。「罪を犯してはならない。」「彼は罪人のところに行って客となられた。」(ルカ19;7)みたいな発言は、律法学者やパリサイ人の好む言葉じゃあなかったか?まじめな人ほど要注意。自分は結構真面目なタイプなので気をつけよ。結構心の中で言うよ。「あんなの罪人じゃねぇ?」って。他人の事はいいから「自分は神に従順か?」とだけ問いかければいい。(ヨハネ21:22)
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