本・−初恋/土田英生 

2004年09月14日(火) 18時09分
 ホモアパートが舞台の芝居である。出演者はほとんど女言葉、そんな中で繰り広げられる悲喜こもごも。女言葉が聞いていてコミカルなのだが、徐々に追い詰められている彼らの状況にそんなコミカルさも切なく映ってしまう。基本的に一つ一つのせりふは短く、大変読んでいてテンポがいい。
 会話劇というのは情報の交換であると思った。それぞれに性格や抱えている問題があり、ちょっとずつ露呈されていく。この場合は一人の住人が男ではなく女が好きになったというのが大きなうねりになっていくわけだが、それに付随して下着の話や同窓会のエピソードもあかされていく。
 閉鎖された空間、しかも虐げられているという状況にガラスの効果音はもっともだ。登場人物が限られている以上、こういった効果音は巧みに用いる必要があるのだと思った。
 今回も暗転やゲームが効果的に用いられていた。とくに笑えたのは毛利が好意をもたれていることに気づく場面だ。ちゃんとした前ふりがあってから、暗転をはさむ。もじもじした毛利を見れば、お客さんは二人に何が会ったのか容易に想像がつく。
 虐げられている状況の中での会話だが、決して性差別がどうとかそういうことが言いたかったわけではなく、そのやりとりをみれば誰しもが抱えている普遍的な悩みごとの話だ。作者も当時の劇団の話というように。どんな設定があろうとも言いたいことはシンプル、お話ってそういうものではないだろうか。「−初恋」という素朴なタイトルはしっかりとそれをあらわしている。

本・算段兄弟/土田英生 

2004年09月14日(火) 3時02分
「算段」・・あれこれ手段を尽くして、金や品物を整えること。準備。
 この芝居はとにかく人間関係が複雑だ。倉田哲郎には4人の妻がいて、しかもその後に3人の内縁の妻を作っている。その子供、配偶者、友人が登場、読んでいてもややこしい。しかし、筆者はそのややこしいことをまるで逆手にとるかのように笑いをとっている。全員が初めて顔をそろえる場面できれいに並ばせ自己紹介をさせる。全員が腹違いの初対面であるため、けっしてこの流れは不自然でないのである。観てるお客さんにもわかり易い。
 倉田哲郎が出てこない、というのは「見えない」ことを利用している。戯曲は読み手の想像力にまかせる部分が多々あって、この場合もまた。読み手は登場しない倉田哲郎像を膨らませることになる。実際7人もの女性と付き合うありえない医者である。下手に出てこないほうが十分伝わる。
 この作者の芝居は大変暗転が効果的に用いられているように思った。話自体は五場でおさめられているのだが、その暗転の手前に全員が揃う、倉田哲郎が亡くなる、と言った事件が起こる。物語のテンションがあがったと同時に暗転し、しばしの時間の経過があるわけだ。戯曲=想像力を利用というのは前述したが、その話の要所要所を抜き出し、物語としての太い流れを見せる。抜き出すところを間違えば芝居はつまらないものになるし、不必要に暗転が多い芝居も観ていてだるい。この暗転をはさむタイミングというのが非常にうまい。引き際がいい、とも言える。
 もう一つ、暗転といえば夕方から一気に暗くなるという演出効果が用いられている。これはこの後の戯曲でも同じ効果が用いられていた。どういった意図があるのかは定かではないが、呆然とした空気の中で用いられていることは確かだ。
 芝居の中にゲームを取り入れるというのもこの作者の特徴である。ルールを把握すればこっちもわかりやすいし、そのゲーム間でかわされるせりふがウィットに富んでいて大変聞いていてここちがよい。この場合はキーワードを出して共通するものを当てるというゲームだった。思えば、だるまさんが転んだや腕相撲、二十の扉に役とりゲーム、芝居にゲームを取り入れることは大変多い。スポーツと同じで一生懸命やっていると観ているほうも楽しいからだろう。
 

映画・クジラの島の少女 

2004年09月14日(火) 2時30分
 今度書こうと思っている芝居の参考になると思い鑑賞する。大変重なるところが多く書く上で助けになりそうだ。オープニングで海の波紋から始まるところや、パイケアという壮大な伝説、一人の少女、島の厳しいしきたり、そしてクジラを呼びこみ少女が奇跡をおこすという一連の流れ。これらはそのまま盗もうかと思うほど、自分の書きたいストーリーと重なった。
 少女は愛しているものの、彼女が伝統を破ることを許すことはできない、その微妙な心情を演ずる祖父はいかにも人間らしい。どうしても自分が書こうとすると善人は善人、悪人は悪人とはっきり色が出てしまうのでここも参考にするべきだろう。クスリをしていても、優しく少女に棒術を教えてくれる叔父も然りだ。人間は必ず二面性がある。パイケアに選ばれない、男の子たちがいかにもぐずぐずして頼りなさげなのも面白かった。しかし、頑固さも必要でこのあたりはキャラクターの設定の妙だろう。頑なに伝統を守る祖父がいるからこそ成り立つ映画ではないだろうか。 
 お話自体は大変静かに進行する。そのたいていは孫と祖父のやりとりだ。話のほとんどは内部で進行し、突発的な事件というのはラストの鯨の大量座礁だけだ。「なにかあるたびに人が死ぬ」「天災がおこる」「神様が現れてしゃべる」といった台本はまず疑ったほうがいい、と何かの本に書いてあった。確かに事件の連鎖で進行する話はワイドショー的で見ていて薄っぺらい。この物語はそのラストにだけそういった事件を持ってきてうまいこと構成していると思った。
 実際のところはどうなのだろうか。消えるべくして消える文化は消えるのだろうが、それ相応の思いがあれば残せる文化もある、ということだろうか。なにせ形だけ残るというのが一番危険である。伝統による性差別なんかはゼミ旅行でまざまざと見せられていることもあり、このあたりは大変難しい。ただ現地の人に聞いても「こころが抜けたら文化は残らない」というから、まんざら作り話でもないのかもしれない。
 映画を彩る音楽が大変神秘的だった。ところどころ使われているディジュリドゥーのような音が民族的な要素を引き立てていた。マオリ人がすごい形相でふりをそろえる(スポーツの応援でよくされる)迫力も、やはり本物を使っているだけあると思った。

事実は小説よりも奇よりも奇を目指すために 

2004年09月09日(木) 1時57分
適当にblogを始めることにした。長ったらしいタイトルは昨日母親と喋っていた会話そのままである。テレビでひっきりなしに流れるニュース、テロや災害、殺人などの報道を観て、もはや我々の創造力の方がちっぽけになってしまった、その事実が悔しかったからである。
実際今締め切りを作って物語を書いているわけだが、どうにも想像創造力が現実の枠を超えない。つまりはどれだけおもしろいと思って書いたものでも現実の方がよっぽどお客さんの期待を裏切ってストーリーを進めているということである。そもそも、失敗・破綻・矛盾が話しに含まれないとおもしろくならないってのは最近改めて気づかされたのだが。

このblogはそういった、自作のホームページで書きにくくなったちょっと固い話や公では言いにくいことを改めて書くことで、ふたたび自作のページに還元できるような仕組みをとっていきたいと思う。台本を書く上で気づいたこと、映画・芝居・本・漫画・音楽・報道などの感想文が主になっていくはず。感想文は高校時代書いていたのだが、最近おざなりになってきていると思い、復活である。ノンジャンル、ざっくばらんに書いていきたい。

ひとまず、今後書く予定の感想文は↓
映画・クジラの島の少女
音楽・東京事変/群青日和
音楽・R・kelly/R

test 

2004年09月09日(木) 1時52分
test
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