「蕎麦工房膳」

April 08 [Sun], 2012, 21:55
「蕎麦工房膳」は、京都の南西部、向日市に接し、鴨川と桂川が合流する地点の近くにある。

このように書くと、市街地から外れているという不利は否応にも想像し得る。京都は比較的鉄道に恵まれていると考えるが、この蕎麦屋に行くために適切な鉄道を選ぶのは容易ではないし、バスに関しても、この付近を通るのはごく限られた路線であるため、そもそも店にたどり着くことからして困難を極める。加えて、周辺は閑静な住宅地の中でも、分かりにくい細道の奥の方に存しており、比較的大きな通りに看板が掲げられているとはいえ、まさに「隠れ家」の言葉に相応しい店である。更に言えば、火曜日から木曜日は休日であり、都合がついたとしても、主人が腕を休ませている可能性もある。

上記の細道を奥に進むと、程なく住宅地の右側に小さな畑と蕎麦を打つ小部屋を備えた店舗が見えてくる。駐車するスペースが2、3台分ほどあるが、店までの道が本当に細いこと、その入り口がコンクリートの壁に近いなどで想像以上に入りにくいこと、そしてそれでも有名店である為に、苦心して細道を進んでも満車である可能性があることから、出来るなら車の使用は考えない方がよいかもしれない。

店内に入ると、カウンター席がおよそ6席、大テーブルによる席が8席分ほどであり、ご主人と奥さんの二人がお店を切り盛りしている。紹介にもあるように、当店は蕎麦の味、香りをいい形で提供すべく、全ての商品が冷たい蕎麦(もり蕎麦、おろし蕎麦、やまかけ蕎麦の三種)に限られる。もり蕎麦は、特に指定がなければ、ひきぐるみによる細挽きと普通の粗挽きが供され、毎週木曜日に定められるように、長野産(信濃一号)、栃木益子産、福井丸岡産の三種類のうち、いずれかの蕎麦が用いられる。

上でこのお店に関して、特に交通事情の点で不利なことを列挙してしまったが、これらがこのお店の美点を損ねることは決してないと考える。汁は鰹の出汁が際立ち、後味で鰹が塩気に負けずに残るが、それでいて決して蕎麦の味を邪魔をすることはない。「工房」で作られる肝心の蕎麦だが、一つ目に供されるのはひきぐるみの細挽きであり、これは通常の蕎麦に近く長い麺の形が残り、腰が極めて強く残っている。殻を含む灰色に近い蕎麦の次に供されるのは、見事な緑色をした粗挽きの蕎麦であり、蕎麦の白い欠片、蔕の部分の赤が、麺の中に宝石のようにちりばめられている。粗挽きのせいで麺は非常に短く、ともすれば蕎麦の定型から外れてしまっていると言えなくもないが、その不格好さに反比例して味、香りは強烈であり、口に含むと、まさに蕎麦粉をそのまま嗅いだかのような芳香が口と鼻いっぱいに広がる。芋類のデンプン質のようなねばり、ぬめりが蕎麦の表面を覆い、蕎麦が舌を通り、喉をくぐる際の愉しみを与えている。

「蕎麦工房」の名にあるように、汁はどうも脇役に回り、あくまで二種類の製法で作られた蕎麦が主役を演じさせているように感じる。無論上記のように、決して汁が弱いというわけではないが、何といっても蕎麦の味、香りが非常に強く、ともすれば蕎麦の存在だけで勝負できるようなお店だと思う。蕎麦と汁の調和を提供しようする店が多いなか、蕎麦を主役に据える店はそれだけで貴重であるが、そのような店の場合、「塩だけで味わえ」だとか、薬味が非常に少ないだとか、食べ方まで限定するようなことが見られる。このお店に関してはそのようなことはなく、風味がしっかりした山葵と青葱があり、またご主人、奥さんの物腰柔らかく心優しい接客で、客側に求められる緊張感は一切ない。

好きな方の蕎麦を二倍の量でお代わりできるシステムもあり、特に後半の粗挽き蕎麦が好みの私には嬉しい。私が近くに住んでいないのが悪いのだが、京都市のはずれにあり、どうしても毎週、もしくは毎月通うという距離では決してないが、それでも京都の蕎麦屋の中では、私が一番好きなお店である。

Hume's Two Definitions of “Cause” Reconsidered

February 27 [Mon], 2012, 8:16
Hume's Two Definitions of “Cause” Reconsidered
J. A. Robinson (David Hume Critical Assessments vol. 3, pp. 381-385)

Richardsの論点
:因果性についての哲学的定義が、斉一性理論に基づいていることは同意されるが、一方で自然的定義にお
 いて、哲学的関係としての因果性は、同時に自然的関係でもあるということが否定される
 :ヒュームは、心の規定による観念連合がなくとも、哲学的関係としての因果性は成立し得ると考えてお
  り、因果性について、哲学的関係が自然的関係を満たすというのは誤りである
→哲学的な因果性が、自然的関係を満たさないことをヒュームが自覚していたのは確かだが、それでも哲学
 的因果性が自然性を有するということは、ヒュームの心理学的理論の中心であって、これを自身で否定す
 ると考える事はできない
 :心の規定による観念連合が、「隠れた原因」によって阻害されるという説明によって、自身の説を首尾
  一貫したものとしている

Richardsとヒュームの自然性についての解釈
:Richardsは、自然的であるような関係が満たすべき必然的条件を、「実際に規定によって、心の中で観
 念連合が生じる」こととしているが、ヒューム自身は自然性を、観念の間で、実際に観察されなくとも、
 「自然に」連合が可能となるような「傾向」のことを指しているため、Richardsの解釈はヒュームのそ
 れと異なっている

Robinsonの主張の内実
:ヒュームの自然的関係による因果性の定義:「原因は結果に先行、時空的に近接し、非常に合一されてい
 るために、心の規定によって心に観念を形成させ、それを鮮明にする」を、「AがBの原因となる」こと
 の定義(D)と見なすのではなく、「因果的関係は、(哲学的関係であると同時に)自然的関係である」
 (CN)と解釈すべきである
 :因果性についての哲学的定義を正当な定義と見なす場合、明らかに自然的定義と合致しない場合が生じ
  る
(→Richardsは、(D)と(CN)を同一視してしまっており、Robinsonの解釈を誤読している)

Richardsの主張の路線の展開
:仮にRichardsのように、ヒュームによる因果性の二つの定義が、やはり定義として正当であると考える
 ならば、ヒュームの言う「同一の対象、思念についての二つの定義」とは考えられず、「異なる対象につ
 いての(原因の)二つの定義」(原因と「自然的」原因の導入)となる(、一方でRobinsonの路線を採
 るならば、同一の対象、思念についての言及ではあるが、哲学的定義は正当な定義をなす一方、自然的定
 義は単なる言明に過ぎないと考える)

Richardsの主張の難点
:Richardsの主張は、自然的関係における原因が、「AがBの原因であると適切に断言される」ことの条件
 としての定義の役割を果たしているということであるが、これは事実問題(自然的傾向ないし実際に生じ
 る観念連合)と当為(原因とは斯くあるべきであるという定義)とを混同している

ヒュームの探求領域
:自然現象としての思考過程の説明、信念が何であるか、信念が、外界との相互作用を経て生じる仕方の説
 明であって、彼自身は、(Richardsが言うのとは異なり)当時の経験的心理学に立ち入っている
 (この種の心理学は、確かに現代から見れば貧弱なものではあるが、実際にこれがヒュームの理論であ
  り、存在を否定されるべきものではない)
→ヒュームの経験的、心理学的理論(原因の自然的関係による定義)の中に、規範的、当為的なものを読み
 取るのは不適切である

Hume's Two Definitions of 'Cause'

February 27 [Mon], 2012, 5:27
Hume's Two Definitions of 'Cause'
T. J. Richard (David Hume Critical Assessments vol. 3, pp. 372-380)

本稿の意図
:@Robinsonの「ヒュームによる二つの定義のうち、自然的関係の方は定義をなしておらず、哲学的関係
  における定義の経験的、心理学的な言明に過ぎない」という主張の否定
 ARobinsonの主張が、ヒューム自身の議論からは導出されないことの提示
 B二つの定義に関する、ヒュームの意図に沿った、より確からしい説明の提示

「隠れた原因」に関するRobinsonの解釈と反論
:ヒュームにおける「隠れた原因」をRobinsonは認めているが、一方でこれを認めるとRobinsonの解釈は
 首尾一貫しない
 :隠れた原因は我々の観念連合の体系には現れない(?)ため、この種の原因は、哲学的関係における原
  因にはなり得るが、自然的関係における原因にはなり得ないことになり、それについての経験的、心理
  学的言明はそもそも不可能である

ヒュームの議論からのRobinsonへの反論
:ヒュームによる原因の定義の部分では、「同一の対象の異なる視点を提示する」とあり、自然的関係にお
 ける定義が、単なる心理学的言明に過ぎないと考えるのは、論理的に正しくない
 「哲学的関係における定義によれば、絶対的、形而上学的必然性はないと容易に理解でき、また自然的関
 係における定義によれば、さらに簡単にこれを理解できる」とあり、これも(対置的関係から)自然的関
 係による定義を心理学的言明と考えるのは正しくない

自然的関係の種類からのRobinsonへの反論
:観念連合をなす自然的関係には、類似、時空的近接、因果関係があり、それぞれを区別するためには、
 我々は自然的関係の文脈において、因果性(そして原因)を定義しなければならない

因果関係は全て自然的ではないという反論
:Robinsonは、哲学的関係において定義される原因は、経験的、心理学的説明が与えられることで、自然
 的関係でもあると考えるが、一方でヒュームは、全ての因果関係が自然的関係であるとは考えていない
 :因果関係、そして類似と時空的近接は、「一般に自然的関係」なのであって、これが不可謬、唯一の関
  係ではない(、哲学的関係における定義としての原因の「説明」であるなら、全ての原因が自然的関係
  を満たすことになる)

因果性についての問いの差異
:「AがBの原因である」(A)という断言において、「何が断言されているか」と「その断言を信じるに足る
 条件は何か」という二つの問いは、同一ではない
→ヒュームにおいては、「(A)において何が断言されているか」への答えが哲学的関係による定義であり、
 「(A)を信じるに足る条件は何か」への答えが自然的関係による定義になる
 :(観念連合の原理としての)類似は、哲学的関係であると同時に、「ある性質を共有しているおかげ
  で、二つの観念が連合される」という条件を持つ際、二つの観念が類似という自然的関係を有すると考
  えている
  加えて時空的近接は、二つの観念が連合するという仕方で互いに近接している場合、自然的関係として
  の近接である

因果関係の再解釈
:哲学的関係における因果性は、先行、時空的近接と恒常的連関の関係を観念が有していることで定義さ
 れ、また自然的関係における因果性は、先行、時空的近接と、原因と結果とされる観念が実際に観測者の
 心の中で連合する、すなわち(A)を信じることで定義される
 :「先行と近接、そして「結果と合一されており、その仕方によって心が規定される」」という表現は、
  観念連合の自然性を示している
  (その「仕方」は経験的、心理学的問題であって、ヒュームが探求するものではないが、他の自然的関
   係との区別をなしている点で、定義に変わりはない)

必然的結合の分析と「期待」
:必然的結合の観念は、先行、時空的近接が伴った恒常的連関と、ある対象が別の対象の観念を思い出させ
 る、その存在を期待させることが生じるのを条件としており、前者三つが哲学的関係による定義、前者二
 つと最後を含むものが自然的関係による定義となる

Hume's Two Lights on Cause

February 26 [Sun], 2012, 4:17
Hume's Two Lights on Cause
D. Gotterbarn (David Hume Critical Assessments vol. 3, pp. 386-390)

ヒュームの原因の二つの定義についてのRobinsonの解釈に対する反論(観測者に関して)
:哲学的関係における定義は観測者を必要とせず、一方で自然的関係における定義は観測者を必要とすると
 考えられているが、実際には前者も観測者を必要としている
 :哲学的関係においては、関連する観念に依存し、確実に知られるものと、観念に依存せず、また確実に
  は知られないものがあり、因果性は、関連する観念(原因、結果の観念)(の内容)に依存せず、また
  確実に知られない
 :加えて、哲学的関係は観念の比較によってもたらされるが、この「比較」は、観念を観測する者が必要
  となる

ヒュームの原因の二つの定義についてのRobinsonの解釈に対する反論(同値性に関して)
:仮に哲学的関係による定義の外延が、自然的関係による定義の外延とは異なる(、哲学的関係による原因
 が、自然的関係における心の規定なしに可能)である場合、Robinsonの解釈は正しい
→哲学的関係におけ原因は、(結果に対して)先行、時空的近接、恒常的連関を含み、自然的関係における
 原因は、(結果に対して)先行、時空的近接と(観念連合に対する)心の規定を含むが、後者の第三の要
 素は恒常的連関を含んでおり、両者はその外延において同値である(?)
:我々は理性の区別(distinction of reason)によって、ある同一の対象における二つの異なる面を区別し得
 るが、これが恒常的連関と心の規定を区別し得る

想定される反論とそれへの返答@
:全ての類似(恒常的連関)が、(心の規定による)観念連合を引き起こすとは限らない以上、全ての類似
 (恒常的連関)の「事例」が、連合を引き起こすとは限らない
→ヒュームが言おうとしているのは、特定の類似タイプにおける「全ての事例」が観念連合を引き起こすと
 は限らないということではなく、特定の「類似タイプ」が、観念連合を引き起こすとは限らないというこ
 とである
 :ヒュームにおける類似は、@異なる性質間における類似A同一の性質間における類似B事例の類似、の
  三つがあり、このうちBのみが観念連合を「常に」引き起こす

想定される反論とそれへの返答A
:全ての事例の類似(恒常的連関)と、先行、時空的近接が伴っている全ての場合でも、観念連合が引き起
 こされるとは限らない
→ヒュームは、先行、時空的近接、類似(恒常的連関)を以て、「原因の完全な分析」と称しており、仮に
 これが結果として観念連合を引き起こさないのであれば、ヒュームの分析は不完全なものとなるが、あく
 までヒュームがこれを完全と考えている以上、観念連合を引き起こさないということはない(?)
 :ヒュームは原因と機会(occasion)を区別しておらず、従って不十分な原因、結果を引き起こすに他の要
  因を必要とするような原因などを考えていない(ため、このための分類は必要ない)

想定される反論とそれへの返答B
:哲学的関係における原因は、自然的関係における心の規定を含意していないのではないか
→哲学的関係における原因は、斉一性理論を含んでいるが、一方でヒュームにとっては、斉一性理論は心の
 規定を必要とする(?)ため、哲学的関係と自然的関係における原因は、外延において同値である(、た
 だ前者では心の規定が暗黙に示されており、後者では明示されているだけである)

The Causal Maxim Neithert Self-evident nor Demonstrative: Its Sanctions Solely Those of Natural Belief

February 15 [Wed], 2012, 23:33
The Causal Maxim Neithert Self-evident nor Demonstrative: Its Sanctions Solely Those of Natural Belief
N. K. Smith(The Philosophy of david Hume, pp. 404-413)


因果的規則と絶対的知識
:「絶対的、形而上学的」必然性を持ち得るような関係は、類似、量数の割合、性質の程度、反対のみで、
 因果性の関係は、他の事実問題と同様に、必ずその反対命題、信念の可能性の余地がある
→因果関係による推論ないしそのための格率は、直観的ないし論証的確実性を持たない
→この規則が論証的確実性を持つという議論は、証明すべき命題を前提とする論点先取を犯しており、誤謬
 であることを示そうとしている
 :ホッブズによる時空的点の規定からの論証、クラークによる自己産出原理からの矛盾からの論証、ロッ
  クによる無からの産出の矛盾からの論証は、いずれも「全てのものは原因を持たなければならない」と
  いうことを既に前提としてしまっている

「全てのものには原因がある」という主張とヒュームの立場
:この命題について、ヒュームは疑っているわけではないが、これが上記の立場の人の主張のように直観
 的、論証的に正当化されるのではなく、あくまで事実問題として、経験によって確証される(自然的証
 拠)という立場をとる
 :直観的、論証的確証の否定を反復するだけであるが、この真性は疑われておらず、またこれについての
  記述は『人性論』を通じてその箇所に留まる
 →一方でヒュームへの批判者は、ヒュームがこの命題を疑っていると考えるが、その十分な論拠はない
  :ヒュームが示す偶然の存在の否定、及び背後にある隠れた原因の想定は、確かにこの命題を受け容れ
   た上での主張である

通俗的人間における偶然
:通俗的人間は、(自身の例の類比から)全ての作用主(agency)を人格化し、以って原因が作用しない場合
 (原因の確実性の想定)もあるということを偶然とする(、そして哲学者によって、隠れた原因、作用、
 それによる対立の想定から否定される)

ジョン・スチュアートへの返答
:「原因無しに何者かは存在し始めることができる」ことをヒュームが奉じているとスチュアートは非難す
 る(Essays and Observations, Physical an Literary, read before a Society in Edinburgh and
 Published by them, ‘Some Remarks on the Laws of Motion , and the Inertia of Matter’)が、それ
 に対しヒュームは返答を送っている
 :確実性が複数ある中で、「カエサルは存在した」「シチリア島は存在する」といった命題の確実性は、
  論証的ないし直観的なものではない(、むしろそれは経験的確実性を有する)
 (加えてこの返答の内には、『人性論』のあまりにも早い出版という過ちに対する反省が含まれている)

ヒュームにおける原因と物体の存在の想定の立場
:ヒュームは、何物かが存在するために原因を有するという命題に対し、経験的確実性を有することからそ
 れを真と認めるように、「物体があるか否か」という命題に対しても、経験的確実性からそれを真と認め
 る
→「物体が存在する」というのは自然的信念であって、これは論証的、理性的な確実性を持つものではない
 :確かに懐疑論者は、理性、推論を通じて物体の存在を否定することができるが、実際に懐疑論者が常に
  それを否定することは到底できず、本性、自然に従って、すぐにそれを(たとえ理性、論証による仕方
  で確証されなくとも)信じるようになる
 →このような種類の信念は、たとえ論証的確実性を持たなくとも、論証的理論よりも確かであると考えら
  れる

物体の独立存在と因果的相互関係の信念
:前者の信念は独占的に第一巻第四部で、後者の信念は第三部で取り扱われ、連続して記述されていないの
 で、後者の対象の因果的相互関係が、あたかも我々の「感じ」という内的性質に完全に依存しているかの
 ように誤読され得るが、実際は一連の論理的繋がりがあり、因果的相互関係にも外的な性質が含まれ得る

Belief in Causality: the Origin of the Idea of Necessity

February 15 [Wed], 2012, 23:25
Belief in Causality: the Origin of the Idea of Necessity
N. K. Smith(The Philosophy of david Hume, pp. 390-403)

必然的印象の探究におけるヒュームの方法と意図
:必然的印象が観察される対象の内に存しないからといって、それが存在しないと言うのではなく、むしろ
 因果推論の形に存するとヒュームが考えられたのは、因果推論と価値判断の(性質の)類比による
→この類比が正しい場合、因果推論は決して(通常の意味での理性的な?)推論とは言えず、また我々の推
 論を規定するような原因は自然的原因で、心の内に引き起こされるようなものであるがゆえに、(対象の
 内に)発見されない

ヒュームの因果論における意図
:因果性を規則性、単一性を有するという観点から説明するのではなく、むしろ因果的作用性、能力、効
 力、規定といったものが前提されるようになる仕方を示すことによる
→その仕方で形成される因果性に基づくような信念は、論理的には正当化されず、結果自然的、心理学的に
 正当化される

ヒュームの議論の段階
:@経験から独立的には、我々は推論のためのいかなる根拠も持ち得ない
 :いかなる対象も、別のいかなる対象の原因(結果)になり得る、また逆に、対象それ自体(性質)にお
  いては、別の対象の原因、結果となるいかなる要素も含まれない
→A因果となる対象(の継起)の経験を経たあとでも、観察で見いされるのは、時空的接近の関係のみであ
  り、またこの関係それ自体では、因果関係の何の根拠ともならない
→B因果となる対象の経験において、恒常的な連関が見出されたとしても、これは因果関係の連関ではない
  ため、因果関係の根拠とはなり得ない
  :恒常的連関において新たに見出されるものは、因果関係ではなく対象(ないし継起の仕方)の類似の
   みであり、またその類似が因果関係を論理的に保証するものではない
  (ここで求められるのは、単なる一回ないし繰り返される経験において見出される以上のものである)
(→C仮に未来と過去の類似が可能であるとしても、必然性、能力といった観念は不明瞭にならざるを得
 ず、結果として因果推論は正当化されない)
→D経験の繰り返しは、外的対象、物体に何の付加物を与えない
  :因果性の印象が、因果推論の対象に、繰り返しによって与えられるわけではない
→Eただし、経験の繰り返し(類似)は、心の内にある印象を与える
  :この繰り返しは観察者に影響を与え、「規定されている」「必然化されている」といった印象を観察
   者に与えるようになる
  (繰り返しの事例が、能力や必然性の思念を我々にもたらすのは、この仕方によってのみである)
→F必然性の印象は、単なる感覚ではなく、反省の内的印象によってのみ我々に与えられ、また習慣に端を
  発する期待は、関係する印象によって鮮明化され、それが我々の信念を形成する(心理学的)
→G因果性の根拠となるこの感じは、一方で、他の(感覚のような)感じとは異なり、それ自体で単独的に
  経験されず、常に(因果的)信念が形成される際に機能するように自然的に構成されている
  (心の「傾性」)

ヒュームの因果論と価値判断、美的判断との関係
:価値判断、美的判断においては、常にある種の感情が伴い、またその場合対象と観念の間にはいかなる関
 係も含まれていない
→因果推論、信念においても、「知ること」、「理解すること」といった認識には余地のない、ある種の知
 的態度が含まれている
(→因果性、必然性(もしくは原因の能力、効力)は、「我々にとって」一種の感じ「に過ぎず」、心の状
 態にその可能性を依存している。こうした考えはヒュームの因果性、必然性に対する消極的態度でもあ
 る)
 :2+2=4や三角形の内角の和は二直角であるということは、諸観念を比較考量する知性の働きに存するの
  と同様、原因結果を結ぶ必然性や能力(の観念)は、我々の心の規定(の働き)に存する

ヒュームの因果性に対する消極的態度
:ヒュームが因果性についての消極的主張をなす場合、常に「心の外においては、因果性、必然性は存在し
 ない」ことを主張するのではなくて、むしろ「必然性、能力、活力といった観念、用語は、単なる感じに
 由来するもの、心の内に存在しているものに関わる場合に限り、その意味を持ち得るということであり、
 因果推論の過程を通じて知り得る外的出来事に、その因果性を置くことは期待できないことを意味する
→この意味での因果推論においては、感じが(絶対的)知識の手段となることはできない

反論に対するヒュームの返答における意図
:「原因が思考をなすのであって、思考が原因をなすのではない。これは本末転倒である」という反論に対
 するヒュームの反論は、「意図されているのは、(絶対的)知識と絶対性に欠ける知識、すなわち信念に
 過ぎないものとの区別である」というものである
 :能力や効力といった性質を、ある未知なる対象に帰属させるとしても、それは何の役にも立たない。一
  方でこれらの単語を、明白な観念を持つ性質の意味を持たせつつ、それを外的対象に帰属させること
  は、誤謬をもたらす(、一方適切に心の性質とすれば、少なくとも蓋然的知識の対象になり得る?)
→少なくとも、我々の知性を超えたところで実在的な結合、必然性があり得ることは、否定されることはな
 い

単なる外側の観察者の立場
:印象と観念の連合のみを知覚し、その間を結ぶ感じを知覚しない(絶対的知識にとって適切な)観測者
 (≠経験者)にとっては、印象が原因、観念が結果となり、結果として再び印象―観念間の因果関係が謎
 に満ちたものとなる
→感じに依拠し、それによって結果観念が鮮明化されて現れる仕方が「人間本性」に即したものであるとい
 う解釈によって、自然的信念が生じるようになる
 観察者の依拠する絶対的知識においては、経験の内容のみが問題となるが、(自然的)信念においては、
 経験のされ方、感じ、様式が問題となり、これによって(内容が同じであっても、)対象が異なった仕方
 で作用するようになる

絶対的知識と自然的信念の関係
:自然的信念は、決して絶対的知識と同様の外延を有するものではないが、絶対的知識の欠けるところでは
 自然的信念が、それが満たし得る範囲で(人間本性の経済、秩序に適した形で)補遺する

因果性の定義と異なる語彙、哲学的関係と自然的関係
:哲学的関係において(観念の比較)因果性を定義するとなると、単なる単一性、斉一性に基づいて因果性
 を定義づけるしかできないが、一方自然的関係において(観念の連合)定義する場合、(単一性、斉一性
 とは異なる)心の規定として定義するしかない
→哲:ある対象に先行し、またそれに類似する対象が見出される場合は常に、後続する対象に似る対象が後
   続する(似た先行性、類似する対象の接近)ような対象
 自:ある対象に先行し、それと非常に合一しているため、一方の観念がもう一方の観念を形成するように
   規定し、また一方の印象が他方の観念を鮮明化して形成するような対象
→とはいえ、自然的関係における定義に見られる「規定」とは、因果性と同義的であって、厳密には「異な
 る語彙」による定義ではない
→実際にヒュームが自然的関係における定義によって目指したのは、単なる定義ではなく、むしろ因果推論
 が生じる際の因果的説明であって、見せかけ(ostensive)なものに過ぎない
 :合一、結合の様式として、因果性が実際に生じるということは前提とされている

規定とそれ以外の同義の単語の同義性
:規定と能力、効力、必然性といった単語は、確かに同義的なものとして扱われ、その内のどれかで別のも
 のを定義するのが不合理であることは意識されている
 :規定とその他の単語が区別されている場合もあるが、この場合は、「規定」という言葉で因果性を定義
  しようとするのではなく、自然的関係に基づいた、因果推論、信念の形成についての因果的説明(観念
  の連合と観念の鮮明化)を意図としているのであり、矛盾していることにはならない

ヒュームによる因果性の議論が複雑である理由
:信念が、感官的知覚の中に既に含まれていること、及び単に観念を鮮明化する(、その意味で第二巻以降
 の共感の原理と類比する)ようなもの以上の機能が、信念には備わっていることが、第一巻第四部まで延
 期されることによる
 :実際にある観念が信念となるために、鮮明化以上のある仕方で想われることが、第三部では導入されて
  おらず、これが第四部で記述される

Hume's Two Definitions of “Cause”

January 27 [Fri], 2012, 6:08
Hume's Two Definitions of “Cause”
J. A. Robinson(David Hume Critical Assessments vol. 3, pp. 361-371)

ヒューム哲学の難解さの原因
:(特に原因概念に関して)二つの全く異なることをしようとしていることによる
 :一方でヒュームは、(現代においては疑わしいが)人間の心的、感情的、行動的現象を説明し得る経験
  的な心理学の法則を見つけ出そうとする
  また一方で、原因概念を哲学的に分析している
→両者の立場は互いに入り組んで、時にヒュームはこの関係を保持しておらず、以ってヒューム哲学の解釈
 の難点が生じる
 (Kemp Smithの解釈もまた、この難点を被っている)

ヒュームによる原因の二つの定義の関係
:@哲学的関係による定義
 :ある対象に先行、近接し、その類似する全ての対象が、後続する対象に類似する全ての対象に対する同
  様の先行性、近接性の関係のもとに置かれる
 A自然的関係による定義
 :ある対象に先行、近接し、それらは合一しているために、一方の観念によって、心はもう一方の観念を
  形成するよう規定され、また一方の印象は、もう一方のより鮮明な観念を形成するよう規定される
→この二つの定義は、意味が異なるばかりでなく、その外延が異なってくるため、同値とは言えない
 :@哲学的関係による定義における原因
  (i)C(x, y)(事象x、yは、@の意味における因果関係にある)は、x、yが観察されなくても成立し、ま
   た仮に観察されるとしても、x、yがC(x, y)を満たすことが意識されなくても、C(x, y)は成立する
  (ii)むしろC(x, y)は、我々の観測ではなくx、yが取り巻く状況以上のものに依存する
  A自然的関係による定義における原因
  (iii)D(x, y)(事象x、yは、Aの意味における因果関係にある)は、我々がx、yの少なくとも一方を観
   察し、かつ同等の事象を観察していることを前提条件とし、この条件によって、我々は(事象、観念
   間の)心の規定を有する
  (iv)D(x, y)は、x、yを取り巻く環境に直接的に依存し得る
→(i)と(iii)、(ii)と(iv)のそれぞれから、C(x, y)とD(x, y)は同値ではない
 (偶然ある事象x、yがC、Dを両方満たすとしても、これは論理的同値を意味しない)
 :例えばDを満たすx、yがCを満たさないこともあり得る
  (例;1の目が19個、2の目が1つあるサイコロの出目の期待)

『探求』における自然的関係による原因の定義
:「ある対象に後続され、そしてその出現によって、常に思考はその他方に向けられる」
→簡易化され、更に難点が明らかになってしまう

Robinsonによる解決の方針と二つの関係
:原因についての二つの定義における「哲学的関係」と「自然的関係」の区別を明瞭にしておくことに存する
 (この区別がしばしば混同されるのは、ヒュームが観念論者、現象主義者と見なされ、またそれゆえに
  ヒュームは物理的対象、物理的事象を語る用語を持たないと見なされるためである)
 :ヒュームの主張は、観念連合の理論であって、二つの関係の区別は、この理論に基づいている
  :観念連合の理論においては、どうしても内的な観念以上に、物理的対象、事象を取り扱わざるを得ない

原因の定義に関するヒュームの目的
:心理学的現象における連合の絆、結合の理由を説明し得るような理論を発見し、以って観念の出現の予測
 を可能とすること
(これにはニュートン力学の引力を受ける対象(=ニュートン力学における質量を持った物質、ヒュームに
 おける観念)、その相関関係の法則(ニュートン力学における距離、ヒュームにおける因果推論に必要な
 三条件という類比をもつ)

ヒュームにおけるニュートン力学のモデルの意味
:できるだけ少数の一般的な仮説と、具体的な条件を適用させることで、現象が説明ないし予測されるとい
 う以上のものではない

ヒュームにおける自然性
:ある事象、物A、Bが、観察を通じて、A、Bの観念を連合させるに十分な場合、A、Bの有する関係は自然
 性という特性を持つ
 (これは実際にそうなるか否かという事実関係に基づくのであり、偶然的である)
→そのような(観念の連合をもたらす)自然性を持つ関係として、ヒュームは類似、時空的近接、因果関係
 を挙げる

三つの関係の分析と言明
:類似、近接、因果関係の三関係を単に分析したり定義したりすることと、それらが(観念連合に関して、
 経験に基づいて)自然性を有すると言明、主張することは別である
 :後者の言明は、前者の分析、定義を前提とするのであり、「それらの関係が自然的である」ということ
  は、(特に因果関係においては)定義、哲学的分析ではなくむしろ(経験によって撤回され得る)想定
  となる
→因果関係が関係として(観念連合に関して)自然性を持つとは、論理的な定義、分析である原因の哲学的
 関係による定義(@)ではなく、経験的心理学の理論である自然的関係による定義(A)にあたる
(ただ、@がAに先行している必要がある)
(→およそ関係は、哲学的関係、自然的関係のどちらかであるという選言を受けるわけではなく、全ての関
 係は哲学的であるが、哲学的な関係は全て自然的でないということではない。哲学的でありかつ自然的な
 関係もあり得る)

定義@における哲学的関係
:「近接」「連続(先行―後続?)」「類似」「因果関係」を哲学的に解されたものを含意している
 (哲学的であるゆえ、これらは経験、観察の基礎、すなわち知性とは独立している)

定義Aにおける因果関係の立場
:実際にはこれは(論理的、哲学的)定義として機能するのではなく、(因果関係に関しては)因果関係が
 自然的関係であると再言明したものに過ぎない
 (これを定義と解釈するのは、因果性についてヒュームが主張しようとすることを誤読することにつなが
  る)
→とはいえ、Aの定義が単なる言明、経験的主張であるという指摘は、ヒュームにおける原因概念を変革す
 るものではない

ヒュームにおける哲学的関係による原因と必然性、不可避性
:ヒュームの指摘によれば、因果関係は観念連合に関して自然的関係であって、観念連合を容易にするが、
 これが観念から対象x、yに投影されることで、因果関係の内に必然性、不可避性が含まれるという信念
 が生じる(が、これは誤りである)
 (→哲学的関係における因果関係には、多くの人が見たのとは異なり、必然性、不可避性が含まれる?そ
  れが有効かどうかは別として)

Kemp Smithによる誤読
:Kemp Smithは、ヒュームが(自然の?)斉一性を否定していること、因果性は単なる連続的系列以上の
 もので、因果性の内には、必然性の観念(規定)が含まれていなければならないと主張すると読む
 (Kemp Smithによれば)ヒュームは初めから単なる規則性(観察されてきた限りでの不変な連続的系
 列)だけでなく、対象を(規則性以外の仕方で)結合させる形式が必要であると考えていた
(続けてKemp Smithは、因果性が時空的近接という関係がなくとも成り立ち得るというヒュームの言葉
 を引用する)
→ここでのヒュームの引用では、時空的近接は哲学的関係ではなく自然的関係を意味しており、定義ではな
 くて経験的事実を述べたものである
 :時空的近接は必然的結合において必要ではあるが、それ単独では十分ではなく、更に優先されるべき条
  件として、因果関係が挙げられる
→因果関係を成す恒常的連関、斉一性、規則性は、哲学的関係としての必然的結合を構成するに十分であっ
 て、この点からヒュームが斉一性、そして必然的結合を認めていないという主張は反駁される
 (他の解釈者にもヒュームの哲学に関する誤謬が見受けられるが、それは同様に、我々が因果関係につい
  て陥る誤謬を提示するヒュームの経験的心理学からの説明が、それ自体としてヒュームの哲学的主張で
  もあると取り違えることによる)

Hume’s Argument that Causes Must Precede Their Effects

January 27 [Fri], 2012, 6:05
Hume’s Argument that Causes Must Precede Their Effects
S. Munsat (David Hume Critical Assessments vol. 3、pp. 341-343)

原因が結果に先行することへ、ヒュームの与える論証
@自然、精神哲学において、一定時間完全に存在しつつも、結果を生じさせない原因は、その単独の原因で
 はなくて、別の原理の補助を必要とする
 (その原理は、原因が有する活力を行使させる)
Aもし原因と結果が共時的であれば、結果を生みだす活力を行使する時間が全くないことになり、これは適
 切な原因とは言えない
BAの帰結は、世界において見出される原因の連鎖のみならず、時間の完き破壊である
C結果として、全ての対象が共時的に、同時に存在することになる(が、これは不合理である)(無限遡行
 の議論)

無限遡行の根拠
:上記の論証では、「ある原因が結果と共時的である場合、全ての場合でそうである」ということの論拠が
 欠けている
→Aにおける“according to this maxim”とは何を指しているかが不明

“according to this maxim”の解釈
:「ある原因がその結果と共時的であるなら、全ての原因がそうである」ではなく、「ある原因は、その結
 果と共時的であり得る(could be)」と解釈することで、無限遡行は回避され得る
→この解釈をとれば、ヒュームの言うような、原因の結果に対する先行性は帰結されない
 (とはいえそれ以降のヒュームの論証、全ての原因が結果と共時的である場合、連鎖、
  時間が破壊されるということは、保持され得る)
 ただ、遅延、タイムラグを必要とする原因は、結果についての真の原因とは言えない
P R
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