宮古島の文化

April 22 [Mon], 2013, 22:49
現在宮古島に住んでいる人々のルーツは、日本各地、中国大陸東海岸、太平洋・東南アジア、一部欧州方面からやってきた人々がいると考えられている。その名残か沖縄本島や八重山とも異なる文化が多い。強烈な台風襲来や過去には干ばつ被害が多い自然的背景(※)からか反骨精神や進取の気性があり、久松五勇士にみられるように公の意識が強いとも言われる。

○神話
宮古島が島の形もなしていない太古、天帝(あめのてだ)が天の岩柱の端を折り、弥久美神(やぐみのかみ)に授け、「下界の風よからんところに島を造りなせ」と命じ、天の夜虹橋(あめのゆのづはず)から下界の大海原に岩柱を投げさせ、固まったのが今の宮古島となった。天帝は次いで赤土を下し、古意角(こいつの)神に「下界に降りて人の世を建てて守護神となれ」と命じたが、古意角が「我に足らざる片つからだを賜え」、天帝「汝六根五躰を備う、また何の不足かあらん」、古意角「すべて陽あれば陰あり、陰あれば必ず陽あり」との問答を経て、天帝はようやく古意角の願いを入れ、女神の姑依玉(こいたま)の共を認めた。

古意角・姑依玉の両神は、豪勇の盛加神(もりかのかみ)を始めとした八十神百神(やそかむももかむ)を連れて天の夜虹橋を渡り、七色の綾雲に乗って地上に降った。彼らは漲水天久崎(ぴゃるみずあめくざき)の地(漲水御嶽の東側にあった岬、現在は埋め立てられている)に宮居を定め、宗達(むにだる)・嘉玉(かだま)の男女児が生まれた。また、島は赤土ばかりであったので、天帝が再度黒土を下し、宮古島は五穀が実るようになった。

十幾年かが過ぎ、宗達・嘉玉が大きくなった頃、天帝は葉を身にまとった木装神(きそうのかみ)という男神、青草を身にまとった草装神(ふさそうのかみ)なる女神を下した。それぞれ宗達・嘉玉の夫婦となり、東地・西地に住んだ。彼らが住んだこの地は、現在の東仲宗根・西仲宗根という。宗達夫婦は世直真主(たよなおしのまぬす)なる男児を、嘉玉夫婦は素意麻娘(そいまらつかさ)なる女児を産んだ。のち、この二神が夫婦となり、子孫が栄え、宮古島民の祖となったと云う。

この伝説が初めて記述されたのは、18世紀の初めに書かれた『御嶽由来記』と言う宮古島の伝説をまとめた本である。

○アヤグ(綾語)とクイチャー(声合)
アヤグ若しくはアーグとは、宮古方言を用いた詩歌のことである。

クイチャーとは、クイチャーアーグの省略のことである。標準語に直訳すると、「アヤグの声に(クイ)合わせ(チャー)」という意味である。アーグ(歌)に合わせた踊りのことで、踊られる地域若しくは、歌の内容によって様々な振り付けがある。

○御嶽への信仰
御嶽は、「うたき」又は「おたけ」と発音する。宮古島では、各村々によって「う」の発音が違うため、両方の発音が存在する。

宮古群島には、約900近い御嶽が存在している。古くから信仰の対象として人々が祭祀を行う聖地は存在していた様であり、それらの聖地は様々な名称で呼ばれていたようである。しかし、15世紀から16世紀に琉球王国の支配が強固になり、琉球王国領内の土着の聖地を御嶽と名付け、体系化し、王家(尚氏)と関連づけ、神女制度を整えた。御嶽とは、琉球の聖地で、本土の神社に相当する。しかし、神社とは全く異なった祭祀儀礼を行う。祭祀集団は地縁や血縁で組織され、御嶽の中へは、祭祀を行う時以外入ってはいけないとされている。一般の人々も、神社でそうするようには参拝を行わない。ただし、明治時代から昭和の初期に地域の文化を否定し、日本全国を均一化しようとした運動があり、その中で神社化された御嶽は例外となっている。

御嶽への信仰は、「生命が自然界と人間社会を循環している」との思想に基づくものである。そのため、御嶽の領域内に生えている植物を切ってはならないと言うタブーが存在し、そのため、広い領域を持った御嶽の周辺には、御嶽林(うたきりん)と呼ばれる植生が生育していることがある。各々の御嶽にはさまざまな神々が祀られている。島の創造神・精霊・村の守護神・歴史上の偉人・氏神などである。なお、「島尻のパーントゥ」で有名な「パーントゥ・プナハ」も、神々がパーントゥに姿を変えて、元(ムトゥ・氏神を祭る家)の祭礼に現れるというものである(下記#外部リンクのサイトも参照)。

御嶽への信仰が成り立っていた条件は、琉球王府時代に、その人物が所属する村(字)内での結婚しか認められなかったこと、及び、住居の移動が禁止されていたことによって、より強固な祭祀集団が結成できたことと、「御嶽の中には入ってはいけない」という強力なタブーが存在してきたことにある。近年は、社会的な状況が変わり、これらの条件が無くなってしまい、御嶽への信仰もかつてのようには盛んではない。

○稲作の伝来
柳田國男は民俗学研究の仕上げとなる「海上の道」において、「中国で貨幣とされた宝貝を中国南部から宮古に求めにきた人々が伝え、稲作栽培が島伝いに日本列島を北上し伝えられた」という稲作伝来の黒潮ルートを唱えた。しかし、弥生時代の稲作遺跡が沖縄・奄美などの北部琉球に無く考古学的な確証が得られていなかった。 しかし後に、水田に限定しない稲作が考慮されたことで柳田説が見直される。また、古代九州の島嶼におけるジャポニカ米の存在や古代温帯ジャポニカ米DNA解析における熱帯ジャポニカDNAの類似なども確認されたことで、弥生以前の縄文黒潮ルートによる稲作伝来は有力説のひとつとなっている。

○芋の伝来
1594年に長眞氏旨屋(ちょうしんうじしや・琉球王国の官吏であり、後の役職は砂川親雲上)もしくは、ウプザ・ガーラ(標準語に直訳すれば・大座のカシラ)(字松原出身の船頭)という人物が、沖縄本島より宮古島への航海中、嵐に遭い、明の福州(福建省)まで漂流し、1597年にそこから金藷という品種の甘藷(サツマイモ)を持ち帰ったという伝承がある。真実であれば、宮古島が現在の日本国の領域内(歴史上、宮古島が日本領となるのは、1609年・薩摩藩の侵略以後)で最も早く甘藷が伝来した場所になる。

これは、沖縄本島読谷村に野国総監が甘藷を伝えたよりも、7年も早い。109年後の1706年に、宮古島・蔵元より琉球王府に報告された『御嶽由来記』という書物に記されている。しかし、『御嶽由来記』は、宮古島の神話や伝説を記述した本であり、明国・福州にルソンより甘藷が伝来したのは、旨屋が福建省に漂着したのと同じ1594年のことであるから、その真実性を疑問視されている。またこの甘藷が、宮古島を経由して他の地域へ伝わったということは、伝わっていない。

ちなみに、長眞氏旨屋(字松原・字久貝では、ウプザ・ガーラ)に対して、宮古島の人々は、ンムヌシュウ(宮古方言)(芋の主・甘藷神)として、芋報礼(ンムプーリ)という感謝祭を昭和の中頃まで捧げていた。しかし、宮古島でのサツマイモの栽培が廃れると、次第にこのンムプーリも盛大には行われなくなった。

○宮古上布
万暦11(1583)年に下地稲石が創製、一反織るのに数ケ月かかる上布の最高級品。「東の越後、西の宮古」と呼ばれ越後上布と並び日本を代表する織物。国の重要無形文化財。明治初期以前は人頭税として琉球王府に貢租。琉球から薩摩に貢納された後、薩摩上布として全国に販売・流通されていた。

参照元:ウィキペディア「宮古島

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宮古島の歴史 - 平成

April 22 [Mon], 2013, 22:46
・1992年1月 - 宮古島 - 池間島間に池間大橋が開通。
・1992年2月 - 宮古島で初のプロ野球オープン戦開催(中日-大洋戦)。
・1993年2月 - プロ野球オリックスが宮古島で初のキャンプを実施。
・1993年12月16日 - 琉球放送と沖縄テレビが宮古島など先島諸島でテレビ放送開始。
・1995年2月 - 宮古島 - 来間島間に来間大橋開通(農道橋として建設され、日本一長い農道橋となる)
・2001年7月 - 宮古地区全6市町村で宮古地区市町村合併研究会発足
・2002年4月 - 宮古地区合併協議会発足
・2002年7月20日 - 宮古島初のコミュニティFMとなるエフエムみやこ開局
・2003年9月 - 台風14号が宮古島を通過。
・2004年1月24日- 平成16年天皇、皇后両陛下ご来島。市民が歓迎する。
・2005年10月1日 - 平良市・城辺町・下地町・上野村・伊良部町の合併により発足。
・2007年7月21日 - ドイツのゲアハルト・シュレーダー(Gerhard Fritz Kurt Schroder)首相が親善訪問する。
・2008年2月14日 - 小泉純一郎元首相を団長とする「宮古島エコアイランド自民党視察団」来島する。
・2008年12月16日 - 大相撲宮古島場所が宮古島市総合体育館で催される。
・2012年4月 - 世界初の数万人規模のマイクログリッド(離島マイクログリッド)が成果を出し始める。

参照元:ウィキペディア「宮古島

宮古島の歴史 - 昭和

April 22 [Mon], 2013, 22:45
・1929年(昭和4年)「8ミリの悪魔」ウリミバエが宮古列島に侵入する。
・1944年(昭和19年)後半より基地建設がはじまる。宮古島には3万人の兵力が派遣された。
・1945年(昭和20年)2月10日に大規模な艦砲射撃が行われる。
・1945年(昭和20年)2月28日に軍事物資を乗せた輸送船が米軍の攻撃により3隻沈められる。それ以後、制海権を米英軍が握っていたため軍事物資を運ぶ船の行き来が出来無いようになる。いわゆる兵糧攻めの形になる。終戦までにおおよそ3千人の餓死者が発生した。
・1945年(昭和20年)納見中将(※)が野原越司令部宿舎で自決する(※嘉手納米第10軍の司令官スティルウェル大将立会において降伏文書に署名した先島集団長)。
・1946年(昭和21年)南部琉球軍政府が発足。着任したマクラム中佐による道路整備により「マクラム通り」が名づけられる。
・1947年2月1日 - 城辺村が町制施行、城辺町となる
・1947年3月7日 - 平良町が市制施行、平良市となる
・1948年8月1日 - 下地村東部が上野村として分立
・1949年1月1日 - 下地村と上野村の一部が町制施行、下地町となる
・1956年 - 宮古空港が開港。
・1959年9月 - 台風14号が宮古島を通過、同島での最低気圧が908.1ミリバール(ヘクトパスカル)と観測(宮古島台風)。
・1960年(昭和35年)- ブース高等弁務官が来島する。
・1961年 - 農業を目的として大神島から集団離島。大神島の人口が半減する。
・1964年 - 琉球放送が平良市久貝にラジオの中継放送局を開局(1150kc、2005年にFM中継局に転換したため廃止)
・1966年9月 - 台風18号が宮古島を通過、同島の最大瞬間風速が85.3m/sと観測。この記録は日本での観測史上最大の記録である(第2宮古島台風)。
・1967年12月22日 - 沖縄放送協会(OHK・現在のNHK沖縄放送局)が宮古島をはじめ先島諸島で沖縄本島に先駆けてテレビ放送を開始(KSDY・US9ch、復帰後1976年まではNHK沖縄宮古総合テレビジョンとなる。なお沖縄本島では1年遅れて放送が開始された)。
・1968年9月 - 台風16号が宮古島を通過、死傷者を出す大きな被害だった(第3宮古島台風)。
・1972年6月 - NHKがラジオ第1と第2の放送を沖縄本島と同時に開始。
・1975年4月 - 宮古島の県道平良与那覇線(西里 - 上地)、城辺下地線(現在の同路線名の県道とは別ルート)、平良保良線(福里 - 保良)が国道に昇格され国道390号となる。同島では初の国道となる。
・1976年12月22日 - NHKテレビの沖縄本島・日本本土との同時放送が開始(同時に教育テレビ・FM放送も開始される)。また電話も沖縄本島や日本本土と即時通話可能になった。
・1978年5月 - 宮古島初のケーブルテレビ局である宮古島有線テレビ(現在の宮古テレビ)が開局。日本テレビ系列・テレビ朝日系列・テレビ東京系列の番組の放送を開始(CMは首都圏内容をそのまま配信)
・1978年12月 - 宮古空港 - 那覇空港間にジェット機(ボーイング737)が就航。
・1979年 - 世界初の本格的地下ダム(皆福地下ダム)が完成する。
・1982年4月1日 - 伊良部村が町制施行、伊良部町となる
・1984年8月 - 新しい放飼法(冷却放飼)によるウリミバエ不妊虫放飼を開始する。
・1985年4月 - 第1回宮古島トライアスロン大会開催。
・1987年11月 - ウリミバエを根絶する。
・1989年7月 - 宮古空港と初の本土直行便となる東京(羽田空港)便が就航。

参照元:ウィキペディア「宮古島
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