13その次に四至説に

July 03 [Wed], 2013, 17:08

その次に四至説に就きて試みに考へて見ると、禹貢には「東漸于海、西被于流沙、朔南曁、聲教訖于四海」とあるが、この四至説も隨分種類が多い。單に禹に關した事でも、呂氏春秋求人篇には別に一説を出して「禹東至搏木之地……南至交趾孫僕續滿之國……西至三危之國……北至人正之國」とあり、http://nikesneaker.shop-pro.jp/
淮南子の主術訓には「南至交趾、北至幽都、東至暘谷、西至三危」とありてこれを神農の時代にかけて居る。ナイキ フリー史記の五帝本紀には黄帝の時代として「東至于海……西至于空桐……南至于江……北合符釜山」と云うて居り、史記及び大戴禮にはの時代として「北至于幽陵、南至于交趾、西至于流沙、東至于蟠木」といふ。管子、小匡篇には齊桓公のことを記して「北至於孤竹山戎穢貉拘秦夏、西至流沙西虞、南至呉越巴※[#「牛へん+羊」、ナイキ コルテッツ167-18]※[#「牛へん+可」、167-18]※[#「瓜へん+長」、167-18]不雕題黒齒荊夷之國」とある。東を缺いで居るのは齊が東海に濱した國であるからである。國語の齊語にも略之に類したことを載せてゐる。爾雅には何れの時代とも云はないが四極の説を載せて「東至於泰遠、ナイキ ダンク西至於※[#「分+おおざと」、168-2]國、南至於濮鉛、北至於祝栗」としてあり又「齊州以南戴日爲丹穴、北戴斗極爲空桐、東至日所出爲太平、西至日所入爲太蒙」と記してある。これ等は四至に關する種々の異説で、大體に於いて東は海に至り西は流沙に至ることを知つて居る點は一致して居るものが多い。勿論この中には多少その説の出來た時代の早晩はあらうけれども、ナイキ エアマックス要するに大いなる差のない時代に於て行はれたる各種の四至説たることは疑ふの餘地がない。只それを或ものは禹とし、或ものは又は黄帝、神農などゝ一つ一つに決めて行つたに過ぎない。これ等は何れも當時の支那人が考へた世界の限りを云ひ表はしたる地理學家の言たるに過ぎない。NIKE スニーカー此れを何れの時代の版圖が何處まで行つたといふことに執着して説明するのは學術上無意味なことである。ナイキ スニーカー





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