犬たち

November 27 [Wed], 2013, 22:13
信輔の家庭は貧しかった。尤(もっと)も彼等の貧困は棟割長屋(むねわりながや)に雑居する下流階級の貧困ではなかった。が、体裁を繕う為により苦痛を受けなければならぬ中流下層階級の貧困だった。退職官吏だった、彼の父は多少の貯金の利子を除けば、一年に五百円の恩給に女中とも家族五人の口を餬(のり)して行かなければならなかった。その為には勿論節倹の上にも節倹を加えなければならなかった。彼等は玄関とも五間の家に――しかも小さい庭のある門構えの家に住んでいた。けれども新らしい着物などは誰一人滅多に造らなかった。父は常に客にも出されぬ悪酒の晩酌に甘んじていた。母もやはり羽織の下にはぎだらけの帯を隠していた。信輔も――信輔は未だにニスの臭い彼の机を覚えている。机は古いのを買ったものの、上へ張った緑色の羅紗(ラシャ)も、銀色に光った抽斗(ひきだし)の金具も一見小綺麗(こぎれい)に出来上っていた。が、実は羅紗も薄いし、抽斗も素直にあいたことはなかった。これは彼の机よりも彼の家の象徴だった。体裁だけはいつも繕わなければならぬ彼の家の生活の象徴だった。………
 信輔はこの貧困を憎んだ。いや、今もなお当時の憎悪は彼の心の奥底に消し難い反響を残している。彼は本を買われなかった。夏期学校へも行かれなかった。新らしい外套(がいとう)も着られなかった。が、彼の友だちはいずれもそれ等を受用していた。彼は彼等を羨(うらや)んだ。時には彼等を妬(ねた)みさえした。しかしその嫉妬や羨望を自認することは肯(がえん)じなかった。それは彼等の才能を軽蔑している為だった。けれども貧困に対する憎悪は少しもその為に変らなかった。彼は古畳を、薄暗いランプを、蔦(つた)の画の剥(は)げかかった唐紙(からかみ)を、――あらゆる家庭の見すぼらしさを憎んだ。が、それはまだ好かった。彼は只見すぼらしさの為に彼を生んだ両親を憎んだ。殊に彼よりも背の低い、頭の禿(は)げた父を憎んだ。父は度たび学校の保証人会議に出席した。信輔は彼の友だちの前にこう言う父を見ることを恥じた。同時にまた肉身の父を恥じる彼自身の心の卑しさを恥じた。国木田独歩を模倣した彼の「自ら欺かざるの記」はその黄ばんだ罫紙(けいし)の一枚にこう言う一節を残している。――
「予は父母を愛する能(あた)はず。否、愛する能はざるに非(あら)ず。父母その人は愛すれども、父母の外見を愛する能はず。貌(かたち)を以(もつ)て人を取るは君子の恥づる所也。況(いはん)や父母の貌を云々(うんぬん)するをや。然(しか)れども予は如何にするも父母の外見を愛する能はず。……」 
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