帝都ロンドン 

June 12 [Tue], 2007, 11:07


イギリス憲政構造のイギリス人自身の解釈は、十八世紀にフランス人モンテスキュウがその 『法の精神』 第十一篇第六章で指摘した権力分立観でした。 イギリス憲政論は十九世紀半ばに表わされ、この分立観を否定し、Crown in Parliament に主権を認めるイギリス憲政の現実運営は、議会と行政機構とをハイフンのように結合する内閣主導による次第を剔示しました。国王の憲政行動が、名目上はともかく、じっさいには政治家との関係で、国王に立派な分別があるならばもっぱら「相談ヲウケ・激励シ・警告スル」三点にかぎられてきている、との定式化も現実を先取りしつつもバジョット・テーゼとして、今日にいたるまでイギリス政治分析の手引きとされています。さらに、このように内閣を媒介に結合する立法権力と行政権力とが、王冠の権威と複合し、権力自身もまた権威化しつつ<尊厳的部分>と<実践的部分>との分業と協業との幾重もの重層構造をなす「支配の秘密」を白日の下にあばきだした点でも著名です。このイギリス憲政論が想定した大衆がたしかに王冠に眩惑される善男善女であったとはいえ、マスメディアが発達し・教育が普及した今日の大衆も、やはり権威への自発的同調と需要とを示します。著者には別にイングランド銀行を中心とする英國金融秩序を考察した 『ロンバード街』 があり、その結論は、理論的にみれば拙劣な制度でも、すでにさまざまな事情の輻輳の結果として一定機能をそれなりに有効にはたしている以上、根本的改革よりは、適宜、弥縫しつつ改良するのがよし、とするものでした。おそらく、政治制度についても、「狂気のソクラテス達」(E .バーク 『フランス革命の省察』Reflections on the Revolution in France)の企図する設計図にもとづく改造よりは、歴史的現実の累積にもとづいて現在このようになった作動体系の中に、改良しつつ運用するのに足りるものを発見するのが、著者の姿勢といえましょう。
イギリスの君主制の特徴は、一方で英雄時代の君主が統治していたときの感情を留めながら、他方で歴史時代の憲法による統治が行われた時の感情を併せ持っているということである。古代の奴隷は、別個の身分であって、一般人と同じ法律や考え方に支配されていなかったので、憲法制定に当たって彼らを考慮したり、教化する必要もなかった。
 しかし、イギリスでは、その必要があった。奴隷は存在しないが、憲法という観念を理解せず、法という観念になじめないような階級を抱え込んでいた。大多数の人間は、君主以外のどの制度より、君主に留意しようとする。統治形態として、共和制は理解されにくい観念に過ぎないが、立憲君主制は理解されやすい観念である。また、宗教的な力によって、政府を補強しているということである。全王党派の主張によれば、君主に対しては「無抵抗服従」すべきであり、また君主以外の誰にも宗教的服従をすべきではなかった。君主は「神から任命された者」であった。議会、法律、言論機関などは人間が作った制度であるが、君主制は神聖な制度であった。かくして、憲法の一部に不当な優越性が与えられ、憲法全体の進歩が止まった。



charlestonレンガの家 

May 23 [Wed], 2007, 11:00

課題 

May 16 [Wed], 2007, 14:12
18世紀といえば日本近海に外国船が出没し、中には難破する船も現れた時代である。(イタリア人シドッチと新井白石の『西洋紀聞』 (1709〜1715)。当時太平洋にはスペイン領のメキシコとフィリピンの間には通商路が開設されていました。メキシコ銀貨は南海(中国〜東南アジア)における国際通貨でした。18世紀の50〜80年代と言えば平賀源内や解剖学の杉田玄白、農学の青木昆陽、海防論の書『『海国兵談』(1790年代に寛政異学の禁に接触)の登場する時期です。   当時北米大陸の領有をめぐり英仏が覇権争いを展開しており、ブーゲンヴィルとクックの活躍は→七年戦争後の太平洋海域における西欧列強の派遣争いを予告する一つの事件であった。当時の地誌はそれに参加した科学的探険家たちによって担われていました。 当時わが国は江戸は金本位制でしたが、大阪や博多・長崎はかつての南海貿易との関係で、銀本位制(銀行・銀座)下にあったのです。16〜17世紀における日本列島は鉱山開発ブームでしたが、これはこの南海(南蛮)貿易との関係で、理解すべき内容を含んでいます。江戸初期における日本の貨幣制度は貴金属類の流出で何度か崩壊の危機に直面しています。 わが国の伝統的地誌(図解類を含む)の編纂は17〜19世紀を通じて盛んに行われていました。その問題は別途検討してみることのしましょう 講義の中では西欧列強による初期資本主義のグローバルな拡大と海外情報のヨーロッパにおける関心の高揚、かかるブームを受けて地誌(旅行記や航海記を含む)形式のユートピア文学の流行、ユートピア願望が新大陸への彼らの移住を促進したことにふれた。 アダム・スミスの『道徳情操論』と新大陸における労働力調達を考えておこう。 ユートピア文学との関係で18世紀の歌劇『フィガロの結婚』(モーツァルト)の荒筋を検索しておこう。支配者と被支配者の立場の逆転をおもしろおかしく描写しています。これは市民革命に繋がる思想の流行を取り入れた結果なのです。ロココ風―これがモーツァルトの時代の西欧社会(裕福な自営業者=ブルジョワジーが担う)の新しいムードだったと文化史の教科書は書いていますが、それを可能にしたのはアジア・アフリカ・ラテンアメリカの経済支配の進展でした。 観察対象を詳細に捉え、それをデータ化する凄まじい情熱。その片鱗は博物学者たちが残した動物や植物の挿絵(細密画)からも十分に感じ取れます。絵画の形式も聖書を題材とした歴史画に代わり、風景画や地図など写実的なもの(科学的なもの)が登場するのです。本来地図は地誌の挿入資料として作成されてきたものでした。 Trivialism (細叙法、一種のレトリック=説得のための表現戦略)。ダニエル・デュフォー『ガリバー旅行記』はその典型をなす経済小説。ロビンソン・クルーソーの冒険というユートピア小説の同様 当時の西欧の都市には植物園・動物園・民族展示館などが盛んにつくられていますが、それは植民地経営と連動したことだったのです。民族展示館は異国の珍しいものを、植物園はプランテーション経営の栽培作物学的サポート機関だったのです。ブーゲンヴィルの一行はあのタヒチ島でサトウキビの新品種を発見したと指摘しましたが、彼らの活躍は植民地経営における技術革新(旧大陸の労働力と旧大陸の生物資源とをユニークな形で結びつける=シュンペーター流に言えば「経済発展とは新結合を遂行すること」を、文字どうり)を実践することと直結していたのです。 参考文献 伊藤光晴ほか『シュンペーター 孤高の経済学者』岩波新書 川勝平太『文明の海洋史観』中公新書 1997. 139-217項 R A スケルトン 『図説 探検地図の歴史』原書房 1992 アダム・スミス『国富論』中公バックス 世界の名著37

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May 02 [Wed], 2007, 15:10
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