鏡花逍遙 「草迷宮」 逗子便り2 

2009年08月24日(月) 17時08分

       大崩壊(おおくずれ) 

 物語は三浦半島<魔所>「大崩壊(大崩)」の背反する光景から始まる。
 「大崩壊の絶頂は薬研を俯向けに伏せたようで。跨ぐと鐙の無いばかり。馬の背に立つ巌、狭く鋭く、踵から、爪先から、ずかり中窪に削った断崖の、見下ろす麓の白波に。揺落とさるる思がある。」と、描写される険しい「大崩壊」も、一方では、
「大崩壊の巌の膚は、春は紫に、夏は緑、秋紅に、冬は黄に、藤を編み、蔦を絡い、鼓子花(ひるがお)も咲き、竜胆も咲き、尾花が靡けば月も射す……」と、
 反面、優しい穏やかな表情を見せる。そしてこの「大崩壊」の序章の光景がこの物語の主題を暗示するのである。
 修行中の小次郎法師が、大崩壊の見える海岸の茶店で休んでいると、一人の狂人が顔を出す。茶店の老婆は、その男<嘉吉>が明神様の美しい侍女に悪戯をしかけ気が狂った経緯を小次郎に語る。その事件後、秋谷村では「ここはどこの細道じゃ…秋谷邸の細道じゃ」の童歌が子どもたちの間で唄われ始める。その村の奥まった辺り、死んでいった女たちの霊が宿る黒門邸に、一人の若い男が滞在している。その男・葉越明は、母の思い出の手鞠唄の歌詞を知ろうと諸国を旅している途次、この屋敷から明神様の前を流れる霞川で、美しい手鞠を拾い、この不思議な屋敷に行き着いた。この手鞠を落としたのは、実は死んだ母の友達で神隠しに遭い、この屋敷に住む、明とも手鞠をして遊んだ美女・菖(あやめ)で、怪異を起こして明をこの魔界から立ち去らせようとしていた。いくら脅かしても立ち去らない明に根負けして現し世に姿を現した菖は、明が子守歌の歌詞を聞けるのは、数年後に再度ここを訪れた時であり、その時、この屋敷に住む女の恋心が、「五色かがりの手鞠となって、また霞川に流れるでしょう…」と手鞠が導く繰り返しの運命を予言するのだ。そしてしばしの別れにとて、入り乱れる女たちとともに手鞠を突き、唄う。
 手鞠唄の歌詞を求める旅とは、明にとって母を求める旅である。では、歌詞を知ることは母に行き着くことになるのであろうか。明は手鞠唄について語る。
 「夢とも、現とも、幻とも……目に見えるようで、口には謂えぬ―そして、優しい、懐かしい、あわれな、情のある、愛の籠もった、ふっくりした、しかも、清く、涼しく、 慄然とする、胸を掻きむしるような、あの、恍惚となるような、まあ、例えて言えば、 芳しい清らかな乳を含みながら、生まれない前に腹の中で、美しい母の胸を見るような 心持ちの―唄」
 「生まれない前」に聞こえる母の唄、それは現実を超えた、根源的な母性への遡及である。それは歌詞を知るだけで到達できる世界では到底ない。
 菖は「母性」への憧憬から菖を求め慕う明を愛しいと思いながらも、
 「私は夫のござんす身体。他の妻でありながらも、母さんをお慕い遊ばす、そのお心の 優しさが身に染む時は、恋となり、不義となり、罪となる。」と突き放す。
 菖の予言では、明が子守歌に出会うのは…
「――― 明さんが望の唄は、その自然の感応で、胸へ響いて、聞こえましょう。」とある。
 明は「自然の感応」「胸への響き」によって、「未生の母」に巡り会うという。
 しかし、それは現実の中で可能なことではない。
 だとすれば、それは、あの唄の手鞠突きのように、永遠に繰り返され続ける、不可能性を求め続ける永久運動でしかない。甘い美しい手鞠唄の歌声は、「母性」から引き裂かれる苦痛の叫び声でもある。鏡花の作品世界は、常にこの美しい、しかし、その美しさゆえに、叶うことのない引き裂かれた魂の、声にならない叫びという背反する二面性を、永遠に湛えている。


                子産石(こうみいし)の海岸

 七月のある日、ちょうど霧のような雨が、薄い雲の向こうから透けてくる淡い陽の光にきらきらして美しい、至福のような日。秋谷の辺りの海岸を歩いた。子産石の海岸が見つかった。少し登ると、小さな社があり、横に村の古い屋敷の大門が残っていた。「黒門屋敷」のモデルであろうか。
 でも、「霞川」と言う名前の川は流れていなかった。村の爺に聞いてみても知らないと言う。黒門屋敷から流れた手鞠は、明神様の横を通って子産石の海岸へと向かうが、霞川という川は、「次第に子産石の浜に消えて、どこへ濯ぐということもない。」字の通り、茫漠とした川として描かれている。
 手鞠は、現実ではなく、観念の世界を流れ続けからであろう。美しい五色の手鞠は、夢となって母性の海へとたゆたってゆく。
 手鞠→○(まる)→まわるまわる 永遠に。