歴史は…!

May 31 [Tue], 2011, 6:09
赤穂の浅野家断絶により赤穂城が幕府に明け渡し元禄14年1701年4月19日、赤穂の浅野家断絶により赤穂城が幕府に明け渡されました。赤穂の浅野家は、広島の浅野家の分家です。浅野家は豊臣秀吉の正妻の寧々ねねの実家であり、江戸時代は外様大名の名門でした。同年3月14日、江戸城松之大廊下で赤穂浅野家の当主長矩ながのりが吉良上野介義央に対して斬りけました。江戸城中での事件に五代将軍綱吉は激怒し、浅野長矩は即日切腹、赤穂浅野家は断絶となりました。現在でいえば、会社倒産です。相手の吉良義央には何の咎めもありませんでした。国家老大石良雄内蔵助を含む赤穂藩士の多くは、喧嘩両成敗の武家の定法に反するこの幕府の裁定を一方的なものであると強い不満を持ちました。赤穂城での評定では幕府に恭順して開城するか、抗議して篭城か殉死かで紛糾しました。大石良雄は殉死を希望する藩士たちから誓紙を取り、吉良義央の処断と赤穂浅野家再興を幕府に求める義盟を結びました。これにより平穏に赤穂城は開城され、旧藩士たちは住み慣れた赤穂を去り、浪人となって江戸や大坂の各地へ散っていきました。赤穂浅野家は、正保2年1645年、長矩の祖父長直が常笠間現在の茨城県笠間市から移封されて成立しました。慶安元年1648年、長直は幕府に築城願いを提出し、即日に許可されました。寛文元年1661年、赤穂城が完成しました。完成した赤穂城は5万石の浅野氏には過度に広壮で、これがために財政難に陥ったといわれています。その財政難の打開のため、製塩に力を入れて裕福になったともいわれています。また五層天守の造営も計画されましたが、幕府への遠慮、または財政難の為か造営されず、天守台のみが今日に残っています。市内を流れる千種川より城内へ上水道を敷設しました。その水道は城内だけでなく、城下の各戸にも給水されていました。日本三大上水道の一に数えられています明治時代の初期に城内の建物は破却され、石垣と堀のみが残りました。
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