ダマスカスの歴史的地区

November 27 [Wed], 2013, 2:40
ダマスカスは、都市の歴史のさまざまな時代に遡る歴史的地区の宝庫である。この都市は過去の占領者ごとに増築されたため、現在の都市の8フィート地下に埋まっているダマスカスのすべての遺構を発掘するのはほとんど不可能である。ダマスカスの城砦は旧市街の北西隅に位置する。
使徒行伝第9章第11節にある聖パウロの改宗に登場する、直線と呼ばれる街路またの名をVia Rectaは、ローマ時代のダマスカスのメインストリートの一つであり、1500メートル以上の長さがあった。
この道は今日ではバーブ・シャルキー通りと覆いのある市場、スーク・ミドハト・パシャとなっている。バーブ・シャルキー通りは小さな商店に満ち、キリスト教徒の区画Bab Touma(聖トマスの門)に通じている。スーク・ミドハト・パシャもまた、ダマスカスの主要な市場であり、スークを刷新したオスマン時代のシリア州知事ミドハト・パシャにちなんで名づけられた。バーブ・シャルキー通りの端には、アナニアスの家の地下貯蔵庫であった地下教会がある。また、ダマスカスにはスーク・ミドハト・パシャと平行にもう一つ屋根つきのスークがあり、こちらは建設当時のオスマン帝国のスルタン・アブデュルハミト2世の名にちなみスーク・ハミディーエと呼ばれている。
ウマイヤード・モスク、またの名をダマスカスの大モスクは、世界で最も大きいモスクの一つであり、イスラム教が始まって以来最も長く祈りが捧げられ続けている場所の一つでもある。モスク内の寺院には洗礼者ヨハネの頭が納められていると言われている。

○ダマスカスの城壁と城門
ダマスカスの旧市街は、北と東、および南の一部を塁壁に囲まれている。現存している門は七つある。最も古いものはローマ時代にまで遡る。城砦の北から時計回りに:

・Bab al-Faraj (救いの門)
・Bab al-Faradis (果樹園の門)
・Bab al-Salam (平和の門)以上三つは旧市街の北側にある。
・Bab Touma (トマスの門)北東の隅にあり、同じ名前のキリスト教徒の区画へ通じている。
・Bab Sharqi (東門)東の壁にあり、ローマ時代の設計が残っている唯一のもの。
・Bab Kisan、南東にあり、聖パウロがここから籠に入って塁壁から吊り下げられてダマスカスから脱出したという伝説が残っている。現在は閉鎖されており、この故事を記念する教会がその場所に建てられた。
・al-Bab al-Saghir (小さい門)南側にある。

加えて、Bab a-Faraj、Bab al-Faraidis、スーク・ミドハト・パシャへの入り口にあるBab al-Jabiya、およびスーク・al-Hamidiyyaの入り口近くにあるBab al-Baridは、かつてはスークへの入り口の区域を指していた、ダマシーンという名で呼ばれている。城壁の外にある二つの区域もまた、「門 (bab)」の名を持っている。Bab MousallaとBab Sreijaであるが、どちらも城壁の外の南西にある。

参照:Wikipedia「ダマスカス

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ダマスカスの歴史 - 近代

November 27 [Wed], 2013, 2:39
1918年10月1日、フサインの部下で後のイラク王国宰相ヌーリー・アッ=サイード率いるアラブ反乱軍がダマスカスに入城する。同じ日、イギリス軍に属するオーストラリア人部隊の兵士も入城し、オスマン帝国の知事の降伏を受け入れた。トーマス・エドワード・ロレンスを含む別のイギリス軍部隊もダマスカスに入っている。
しかし1917年11月、十月革命で成立したロシアのボリシェビキ政府が、フランスとイギリスが交わしたアラブ分割に関する密約サイクス・ピコ協定を暴露したため、アラブの政治的緊張が高まっていた。イギリスとフランスは連名で「トルコに長い間抑圧されてきた人々の完全な解放」を約束する宣言を発表した。シリアでは民主的憲法を定める会議が行われ、1920年にはフサインの息子であるファイサル・イブン・フサインを国王とするシリア王国の建設が宣言された。しかしヴェルサイユ条約ではフランスがシリアを委任統治下に置くことが認められていたため、英仏はファイサルの宣言を認めなかった。1920年7月23日、アンチレバノン山脈を越えたフランス軍がマイサルン峠でシリア人部隊を破り、ファイサルはダマスカスを追われた。サイクス・ピコ協定に基づき、シリア地方が英仏に分割されると、ダマスカスはフランス委任統治領シリアの首都となった。
1925年、シリア南西部ハウラーン地方で起きたドゥルーズ派の反乱がダマスカスに及んだため、フランス軍はダマスカス市街に対し砲撃と空襲を加えて鎮圧した。アル=ハミディヤ市場(スーク)とミドハト・パシャ市場の間の古い町並みは炎上し、多くの市民が死亡した。この後、旧市街はグータ・オアシスからの反乱分子が入らないよう有刺鉄線で囲まれ、装甲車などが通れるように新しい道路が北部郊外に造られた。1941年6月21日、イラクから侵入した連合軍部隊がヴィシー政権側の守るダマスカスを占領した。
1945年にフランス軍は再度ダマスカスを空襲したが、イギリス軍の介入でフランス軍は撤退に応じ、1946年のシリア独立につながった。以来、ダマスカスはシリアの首都となっている。

参照:Wikipedia「ダマスカス

ダマスカスの歴史 - アラブ・ナショナリズムの勃興

November 27 [Wed], 2013, 2:39
都市に大きな影響を与えていた名望家層が鉄道建設などを通じてイスタンブルの宮廷と直接結びついていたこともあって、ダマスカスはベイルートと比べると民族主義の勃興が遅れたが、20世紀初頭にはダマスカスでも民族主義的感情が興るようになった。始めは文化的ナショナリズムだったが、次第に政治的色彩を帯び始めるようになる。また、ダマスカスで起こったアラブ・ナショナリズムの諸運動は、ベイルートで起こったアラブ・ナショナリズムの諸運動が早くから帝国からの独立を要求したのと対照的に、比較的遅い時期まで帝国の枠組みの中での自治を要求する傾向があった。
1908年の青年トルコ人革命後、統一と進歩委員会が中央政府を掌握すると、ダマスカスでもアラビア語の公用語化や連邦制の導入といった、アラブ人の権利や帝国の分権化を要求する運動が起こるようになる。これらの動きに対し、中央集権化を進めたい統一と進歩委員会は時には懐柔しつつも、もっぱら強硬策をもって臨んだ。このような統一と進歩委員会の方針は中央集権化という名の「トルコ化」政策であると受け取られ、ダマスカスのアラブ・ナショナリストの中にも自治から独立へとその主張をより強める動きが現れるようになった。
第一次世界大戦が始まると、統一と進歩委員会の中心人物であるジェマル・パシャが方面軍の司令官としてダマスカスに赴任してくる。1915年から1916年にベイルートとダマスカスで、ジェマルにより愛国的な知識人が数多く絞首刑にされたことは、さらにナショナリストの感情を逆撫ですることになった。また、この処刑はダマスカスの住民にマッカの太守フサイン・イブン・アリーによる「アラブの反乱」への支持を広げる結果にもなり、1918年にアラブ軍とイギリス軍が迫るに連れて、住民は撤退してゆくトルコ軍に対して発砲した。

参照:Wikipedia「ダマスカス