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泣いてたコアラ / 2010年08月17日(火)
保坂祜  19860107


 めぐみは、三角巾で吊った右腕をかばいながら窓をそっと開きました。雨が庭の草をぬらしています。
 昨日退院した時になくしたコアラのぬいぐるみをおもいやります。この雨にビチョビチョになって忘れられているのかしら…。めぐみは悲しくなります。
「めぐみちゃーん!」
 台所からママの呼ぶ声がします。めぐみは黙ってじっと窓の外を見ていました。おばさんからお見舞いにといただいたコアラを捜しに戻ってくれなかったママを憎く思っていたのです。
「ここにいたの。返事もしないで」
 部屋に入ってきたママがめぐみを後ろから優しく抱きました。ママの頬がめぐみの頬に触ります。
 胸の中にあるものが、トク、トク、トクと込み上げて、鼻の辺りでムズムズすると、涙がスーっとこぼれ、急な泣き声に変わりました。
「どうしたの、めぐみちゃんたら」
 ママはめぐみをぎゅっと抱き締めました。

 一週間ほどしたある日、めぐみの家の前で、ドッドッドッドウと爆音がとどろいて止まりました。
 チャイムが聞こえ、ママが玄関に出ます。
「めぐみちゃん、ちょっといらっしゃい」
 ママの弾んだ声がします。
「はーい」
 めぐみは何だろうと考えながら急ぎました。
 玄関には不思議な姿のお兄さんが立っていました。
「これ、めぐみちゃんのかな?」
 お兄さんが持っていた物を差し出しました。
「あっ、めぐみのコアラちゃんだ!」
 めぐみは左手で受け取ると胸にしっかり抱えて飛び回りました。
「この間、道路に落ちているのを拾ったんだ。半分ペチャンコになってんのさ」
 お兄さんはめぐみの三角巾で吊った右腕に目をやります。
「手も足も折れちゃってたんだな」
「コアラちゃん、痛いよぉ、痛いよぉって泣いてた?」
 めぐみは拾った時の様子を尋ねました。
「そうだよ、めぐみちゃんと同じにね、泣いてたよ。手と足と直してもらのうにも、痛いよぉって泣いたけど、頑張って耐えたんだよ。これからももっと大事に可愛がってあげて」
 お兄さんはにこにこしてめぐみを見つめました。
「ありがとう、お兄さん」
 ヘルメットをかぶり、初めて見る大きなバイクに跨るお兄さんが逞しくみえます・
 めぐみはコアラを抱え、落とさないように小さく手を振ってさようならをしました。戻ってきたコアラも嬉しげに見送ります。
 めぐみには、コアラがどう巡り巡って届けられたのか分かりません。めぐみのコアラが導いたに違いありません。

 
   
Posted at 14:17 / 文芸 / この記事のURL
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東京から来る子 / 2010年08月02日(月)
東京から来る子
保坂祜 20000905


「東京からお客さんが来るで。子どもがおるで、育子、遊んでやれや」
 おじいさんから育子は言われました。
 東京から来る子ってどんな子だろと、育子はおじいさんから言われて思い描きました。
 何して遊ぼうと、小さな胸で考えました。お絵書きかな、おもちゃ遊びかな。
 山あいの朝は霧がかかって少しひんやりしています。
 お母さんは忙しなく動いています。
 そのお母さんのエプロンを引っ張って聞きます。
「東京から来る子ってどんな子」
「育子と同じくらいな子よ」
「何して遊べばいい」
「好きにしなさい」
お母さんは取り合ってくれません。
「お母さんはお客さんを迎えるのに忙しいの。まとわりつかないのよ」
 外で車の音が聞こえたような気がして外へ出てみましたが、せみがジージーと鳴いているだけです。
 育子は、もう来るかな、いつ来るかなと、家を出たり入ったりします。
「育子、少し落ち着きなさい」
 とうとうお母さんに叱られてしまいました。
 また、一人外へ出てみました。
 育子だって仲良く遊ぼうと一生懸命になっているのに、分かってもらえないでべそをかきました。
 子ぶたが5匹、列を作ってトットットッと育子の脇を抜け、家の角をすばやく曲ります。
「何を泣いているの。一緒にあそぼ」
 育子よりちょっと大きいお姉さんでした。
「ダンス、しようか。ランランラン」
 と育子の両手を取って、体を揺すり、大きく腕を振りました。
「一緒にくぐるのよ。ランランラーン」
 両手で作った橋に体をひねらせてくぐりました。
「今度は逆。ランランラーン」
 育子もならって、一緒にリズムをつくりました。育子が笑っています。
 木陰の二人に風が流れて行きます。
 
   
Posted at 09:45 / 文芸 / この記事のURL
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別離 / 2010年05月31日(月)
保坂?(711130)




別れに小さな愛をみつけたら
離れ離れの二人で育ててみようよ
大きくならなくてもいい
二人にいつまでも残ったら
その愛はきっと幸せ過ぎる



雨の日曜が好き
静かな雨が降ってさ
物音が遠くから聞えるんだ
窓から見るとさ みんな濡れてるんだ
隣の家の屋根も 軒下の洗濯物もさ
誰もいないのかな やっぱり濡れてるんだ



午後になったら
急に降られたふりしてさ 歩いてみようよ
濡れねずみになって ボソボソ歩こうよ
そして 帰ったら
裸になって服を乾かそう
摩那の服なんて ちょっと絞ってさ
アイロンかけたら すぐ乾いちゃうな



あたたのこと 好きと言っていい
怒られるってわかっていても確かめたいの
あなたに離れられたら
摩那 ひとりぼっちだもん



愛は小さい
愛は気付かれない
光っているでしょ
涙じゃない
見向かれなくても
生き続ける小さな貝殻



あなたを呼ぶ声が虚しく返ってきても
苦しみの秘めた愛の言葉に聞える
成就しえない愛であっても
受け入れる尊さを信じたい
失うことが人を信じえなくなる恐れよりも
求めることが人を信じる喜びに
それが真の愛を教えてくれる気がして



サヨナラ きりん
ぴぐはひとりだ
ウウン
きりんを好きな時もひとりだった
今 灯が消えるだけ
ひとりぼっちがいたずらにともしただけ



寂しさが流れる笹舟を数えた
ひとつ ふたつ……
通り過ぎては消えてゆく
あなたと流した笹舟も



母を求め糧を求めてくわえられる乳房
男に育てる為に大きく弾む乳房が
若い好寄な視線に晒されて
獣の猥雑な目が恐い



取りすまし口笛吹いた
あなたのほほにくちづけすると
にらんだ瞳の奥に 五月の朝が写ってた
手を握り二人が歩く
あなたの肩にほほを寄せると
じゃれてる小山羊の私 五月の川に写ってた



あなたとの別れを知った時
結ばれていた糸が切られ
解き放された身軽さを感じる
あなたを想う束縛から離れ
生き生きとする心
でも 私ほ帰りたい今一度
慕い信じ頼った心に
離隔された心を戻してみたい
私を変えたあなたを知る為に



腕の中 温かい鼓動
荒い息が聞える
抱きしめられて
身動きできないおまえが
自分の力で羽ばたいてゆく



戸口に飾るバラに託して
あなたが打解け
扉を開いてくれるのを待ちます
窓から暖かくなった風が心の隙間に入り
かたくななあなたを
解きほぐしてくれるのを待ちます
扉を窓を心を開いて下さい
青空を見せてあげたいのです
今日はその為に尋ねてきました
本当は私が見たいのかも知れません



一足ずつの努力が一崩しにされて
何をしてきた 何を欲してきたのだろう
愛されている時には気付きもしない
別れが煩雑なのは



海はなぎいて
焼けた肌は恋の名残り
歩き始めた愛への道も
偽りの恋にとざされてゆく
あなたは育ててはくれないけれど
海は私を育ててくれる
二度とは会えない太陽が沈む



二人がかち合うと起こるざわめき
鳴動が起こる前触れの小さな騒ぎ
二人の心が結び合される時に
爆発を予測させる
研澄まされる感覚が拒み切り離す
きりん ぴぐほもう帰らない
きりんの心には帰らない
きりんがぴぐの目を見て
ぴぐがきりんの目を見返したら
二人の持つ弱い愛が
大きく膨れあがる愛に
打壊されてゆく
恐い ぴぐには恐い



水は流れる 黙って流れる
後へ振り返ることを忘れて流れる
前にはいばらの道もなくただ流されてゆく
だれ一人横切らない道が続いて
呪われた長い旅が
いつ日か別れの悔恨と焦躁とに変り
幸せをふみにじる
水はそれでも流されてゆく



返して
忘れられた友を
弱くなった私の心を
優しい思慕を
愛の打ち明けを
信頼をなくして
今は呪う私
歌も夢も羽毛も羽ばたけない私



忘れられた海辺
遠く去っていった過去
望みをかけた未来も忘れ
ただ一人立ち止まる
いつ日かのあなたとのように
連れだった二人が砂浜を歩く
虚しさの中にそれでも海は輝く



遠く見る目が寂しい
おまえの目が濁った
いつの間にかの心の変りを知らず
それに気付く時
おまえの手を握る力がなく
抱くことさえもできなく
俺の左腕はしぴれていた
何も言わず
肩を落して歩くおまえが哀れ



君が育った田舎へ帰ってみよう
俺もそこで育ったら
君と同じようになるかな
畜生 俺はならない
おまえみたいにはならないぞ



ひょっとして 幼い君と出会ったら
俺を見て なんて言うかな
俺がみつめるもんだから
気味悪がって 睨んで逃げてゆく
そんなことをしたら引掴まえて
懲らしめて許さないぞ



君が落ちたたんぼはどこにあるのだろうか
蛙の卵をみつけて 凄く喜んだといって
身体中ドロンコになることないぞ
キラキラ輝かせる目を曇らせ
大きな涙を零すんだろうな
今出せといっても零せはしない



木に登って 気触れて転げ廻った
暑いから裸で登ったんだろう 阿呆
おまえはいつも賢いくせに
間抜けになるんだ
その木が残っていたら登るんだろ
やってみろ みんな大声で笑うぞ



だけど もう登れない
馬鹿 馬鹿野郎
死にはしないよね 帰ってくるな
はやく俺のところに帰ってこい
おまえの涙を触らせてくれ
俺の涙じゃ 足りない
おまえの涙を触らせてくれ



「わが力 十人に勝れり
わが心 清けれは」
若い智子が十六才のぼくに呉れた言葉
誤った個所を
ナイフで丁寧に削られて書かれた手紙
 
   
Posted at 06:50 / 文芸 / この記事のURL
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拒 絶 / 2010年05月17日(月)
保坂? 091010


彼女のことを思い出さない
会わない 会えないことが
これほど 人を遠くさせるのだろうか
いい人だったのだろうか
優しい人だったのだろうか
ちょっぴり感傷的
寂しいのかなあ
それとも 聞こえる汐騒のせいかなあ




人が安らかな眠りだけを欲する
煩わしい意識から抜け出し
安らかな無意識の中に
幸せな恋人の夢
愛することは煩わしいことだろうか




可愛い女の子がいる
ちょっときどって
ブック型のバッグを持って
中には ハンカチとETC.
レザーのサンダル ミニのワンピース
ハンカチを取り出すと顔を拭く
その表情が好き
あらゆるものを意識して
それに愛情をそそいで




歌を歌う
今まで忘れていた歌を
急に思い出して 笑って歌う
 裸の二人が海辺を歩いて
 裸足に伝わる砂が心地好い
 砂を蹴るのをみて ケラケラと笑う
遠く旅立つうねリ
二人の行方に立ちふさがる波
ほほえみに 辛さはない




好きだとロに出してごらん
海岸は二人だけのもの
手をつないで 歩こう
だれも二人の愛に気付かない
愛の絆を しっかりとね
一緒に行こう




今にも泣さ出しそうな瞳
可愛らしく 可愛らしく
そんなにつれなくするのなら
いいえ と言ってごらん
愛する人には 愛するように
愛される人には 愛されるように
そんな愛情があってもいいのに




言っていることがわからない
君の言葉はなんでも理解出来るはずなのに
泣いていてもわからない
君の表情が豊富であることの
その一つひとつも理解出来ない
ぼくの心を本当に理解して
拒絶されるはずがないのに




大声で泣け
前世に逆もどりするまで 泣きじゃくれ
自らの愛の不確かさと
永劫の愛の反故を
ひざまづき
大罪の許しを乞って 泣き叫ぺ





寂しい躯
握った手から 砂が零れる
虚しい抵抗の痕跡




帰っておいで
遠く離れて 便りもない
今日の糧はなに どうしているの
荒んだ世界の中から守るたったひとつのところ
小さい足 か細い腕 脚
静かに肩で息づき ひ弱い胸
もう一度 抱きしめたい




夢をみました とても静かな夢です
柔らかな胸に抱かれて
そのまま めり込んでしまう安らかさの中で
乳の匂いをかぎ 温かい体温を感じ
人に知られぬ肌を覚え
深い愛情に包まれて 静かに眠るのです
 
   
Posted at 06:37 / 文芸 / この記事のURL
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初夏の海辺に立つあなたとわたし / 2010年05月10日(月)
保坂?690526



小さな波と 大きな波
その合間から 君の声が誘う
海は ぼくのあこがれ
そして 海は ぼくののぞみ



波がくずれおちて しぶきをあげる
大海の ちっちゃな片隙
ここで 君は生まれ
ぼくも 生まれ育つ



静かな海にも
寄せる波と 引く波があって
心の動揺を
ひとつ ひとつ解くように



砂浜に LOVEって書く
打ち寄せる波も 消すことができない
心の確かさを
波は いつまでも消すことができない



汐の匂いの中に
ポッカリ浮ぶ 髪の匂い
だれにも かぎ分けられないけれど
ほくにだけはできる



汐風に揺れる髪
抄うと 手にしっとりと濡れる
近づいて 頬にかかる吐気が
甘く 温かい



波の音に 声が聞こえない
ウウン 君の目をみれは
なんでもわかる
愛の言葉も ささやきも



砂浜に寝ころんで 匂いをかぐとき
君の手が ぼくの両手をまさぐる
ふんわりとする 温もりが伝って
心の奥をときめかせる



胸の柔らかい温もりと鼓動を
そのまま ぼくの胸に移して
閉じる目が
頬にある 安らかな寝顔



眠る いま君は眠っている
心の軽やかさ
気持ちよい大きな息
奥底まで行き渡って



砂浜を 掘ってそして掘って
わきあがる水に
心を写して
わきあがるこの愛を捧げる



砂に腕を埋める
負けない 逞しさを持って
いさかい しっかりと保つ
波にも 浚うことができない



ぼくをみつめる
目は バンビの目
砂浜をかける
君の足は バンビの足



砂浜をかけあがる
あえぐ胸も 助けを求める目も
愛らしさきり 写らない
抱きしめても 抱きしめきれない愛



結びあう手は 君とぼく
抱きあう肩も っけあう頬も
ささやきあうロも みつめあう目も
ここは 二人だけの世界



昨日までの寂しさも
何も持っていない 君とぼくが
たったひとつの絆を
二人だけで造る愛



だれも歩くことのない 渚を
二人だけの足跡が続く
行き着くところの知らない
愛を確めて
 
   
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いしづえ 第二部(17) / 2010年04月12日(月)
 渡辺の姿が、見えない日々が続くと寂しかった。
 知が昼食を終わってフラっとバルコニーに出ると、新館からの廊下に渡辺が来た。そして、知を見つけると、肩先に手を挙げて、敬礼の動作をした。しかし、何も言葉もかけずにそのまま勤務室に向かった。知はその後ろ姿をみながら、その帰りを待とうとした。が、渡辺はその道を戻っては来なかった。
 兄が来て、義姉が子宮外妊娠で入院したことを言った。知には義姉が妊娠したことは知らなかった。そして、もちろんそれが子宮外妊娠で入院したことも初耳であった。また、知は子宮外妊娠がどういうものであるのか知らなかった。
 知は準夜勤の竹下に問った。竹下は
「読んで字のごとし」
と、言って止めた。
「それでは分からない」
「まだ、分からなくてもいいの」
 埒のあかない問答であった。
 翌日、渡辺に手紙を書いた。渡辺との関連を持ちたいという機会をうかがって知には絶好のきっかけであった。知は義姉のことをそのまま書き、子宮外妊娠とはどんなものであるのか教えを乞うた。
 そして、知はこの手紙を如何にして渡辺に手渡すか困った。砂原とは最近言葉も交わしていなかった。渡辺に手紙を渡したことを知っている唯一の人物であるだけの、知はいささか敬遠していたのである。
しかし、その役を頼めるのは砂原以外にはいなかった。
 消灯時刻。砂原が部屋にやってきて、山口に投薬していた。それでも知はまだ考えていた。それを断るはずはなかった。ただ知が砂原に言い出す勇気を持っているかであった。砂原が出て行こうとした時に知は言った。
「渡辺さんに頼める?」
 砂原はうなずいて黙って受け取った。そして、ポケットに差して部屋を出た。知は安堵したが、それは知が優柔していたにしては、あまりにも素っ気ないものであった。知は砂原への好意と疲れを覚えた。
「ワァッ!」
     いいづえ 第二部(未完)
 
   
Posted at 07:10 / 文芸 / この記事のURL
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いしづえ 第二部(16) / 2010年04月09日(金)
 渡辺から手紙の返事をもらったのは、手紙を出してから五日目のことであった。知がまだ洗顔をする前に、検温に来た砂原から渡された。知はすぐにでも開いて読みたい欲求を抑えて、無表情に受け取った。そして、洗面所へと向かった。一つの抑えが効くと、それに固執せずに顔が洗えた。しかし、長い廊下を歩いて部屋に戻ると、部屋に近づいて行くほど、読みたい欲求が募った。知は躍る胸を押さえて部屋に入った。隣のベットには老人がまだ横になったままだった。
 その封筒には封がされてなかった。グリーンの補助封筒の中には三枚の便箋が入ってあった。
 読み終わると、知は末尾の限定された言葉に虚しさを覚えた。渡辺と知との間に終止符が打たれてもおかしくない、否、打たれて当然といえる文章であった。一つの儀礼的な言葉ではあろうが、発展のない言葉は知には寂しかった。嬉しくて飛び上がりたい気持ちも消えて、書いたことに軽い後悔をしながら、しばらくは立ちつくしていた。しかし、まただんだんと心から湧いてくる嬉しさに、その笑みを隠すことは出来なかった。
 

 その夜、知は勤務室へ行った。朝の楽しい気分がそのまま続いて、看護婦の勤務配置が変わってから初めてのことをした。その準夜勤は新しい看護婦の竹下であった。知はとりとめのない話をして笑った。そして、最初に竹下に感じた、取り澄ました、とっつきにくいという概念を捨てて、本当に良いお姉さんであると改めたのである。竹下自身に変わったところが出来たわけではなかった。


「何か良いことが書いてあった?」
「別に」
 砂原の問いに、知は首を少し傾けて言った。そして、すぐさま、どうして素直に喜びを現さないのかと悔やんだ。砂原は知に橋渡しをした人間である。再び渡辺に手紙を出すことを考える時に、知には重要な人物であるはずであった。また、素直な感動を表現して少しもおかしくない人であった。まだ、この事実を知るのは彼女だけであった。それだけにあからさまに言っても頼れる人であった。
「あっ」
 砂原が隣のベッドに寝ている山口の草履を踏みつけて、再びそれを足に当て、さらにあわてて、伸び出ていた紐にからんだ。すっかり落ち着きを失って、どっしりとした身体に似合わずにジタバタした。そして、
「私がおっちょこちょいだということを覚えておいて」
と、言うと、笑いながら出て行った。知はおもしろい人だと思って見送った。それで知は一抹の侘びしさを自分自身に感じた。


 エミが五目並べをやろうと言って、部屋に入ってきた。碁盤は二十六号室にあった。男の部屋なので知がそれを借りる役目であった。
 いつもエミのベッドに上がり込んでやった。適当なテーブルがないので、トランプでも花札でもそうであった。五目並べは圧倒的にエミより知の方が強かった。それで、知は故意に負けることを好まずに、エミが投げ出すまでやった。知は負けたくなかった。
 知があまりにも勝ち過ぎて投げ出すと決まってトランプを始めた。エミもまた負けず嫌いであった。始めは二人でやるが、同室の井形、美穂がすぐに加わった。それはいつも消灯まで続いた。
 美穂と二人でテレビを見に出かけた。いわば知の日課の一つでもあった。途中の食堂の横に渡辺が友人の熊沢と立ち話をしていた。渡辺の知らない美穂と歩いて渡辺の顔を見るのは照れくさかった。ただ頭を下げて通り過ぎればよいのであったが、知はばつの悪さを隠して
「今日は」
と、声をかけた。渡辺は振り向いて無表情で知の顔を見た。そして、自分には関係ないかのように再び元へ戻すとそれきりであった。
 
   
Posted at 07:13 / 文芸 / この記事のURL
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いしづえ 第二部15 / 2010年04月05日(月)
 渡辺の姿に接しえないのは知にとって寂しいことであった。知は本を読もうとして手にとった。その本は、明治の動乱を描き、幕府のを守るか佐幕に下るか悩む仙台藩の実情を語ったものであった。そして、知はそこに描かれる本宮の街を知った。本宮は渡辺の生まれ故郷であった。仙台への街道筋にあたり古くは宿場として栄えたとあった。
 知はこのことをそのままに伝えようとした。絵はがきの礼と並べて、内容のない手紙を書いた。すぐ横を向けば渡辺が現れる環境の中で書くことは不自然に思えたが、それをポストに投函しないことに理屈を付けた。知はそれを砂原に頼んだ。彼女と渡辺が同じ部屋に寝起きしていることは知は知っていた。そして、砂原は物に執着しないであろう性格を信じてのことであった。準夜勤の砂原は消灯の投薬に来てそれを受け取った。
「封をしなくていいの」
「うん、いい」
 砂原は笑ってポケットに差した。大きい身体にはちっぽけな物であったが、制服にさされると白い封筒はそのまま光るようであった。
 手紙は運ばれていった。知にはその返事がもらえるものなのか、それともそうでないのか判断出来なかった。


 翌日は気持ちの良い日曜日であった。早々に母が訪ねてきて、帰っていった。
 昼食の配膳を待てなくて部屋から廊下に出ると、
「保坂君」
と、呼ばれた。咄嗟な声に戸惑ったが、外を見ると新館の二階から渡辺が覗き込んでいた。手すりに手を置いて笑っていた。
「どうもありがとう」
 表情も嬉しそうに語った。知も目と口を使って
「お恥ずかしい」
と、言った。しかし、言葉は発せずに表情だけの最大限の喜びを顔に表しただけであった。
「聞こえない」
「何も言っていないもの」
と、知ははっきり答えた。渡辺は睨んだ目をして知を叱った。そして、室内を気にするように眺めて入っていった。
 たった一瞬に通り過ぎるだけのものであったが、知には思いもかけずに嬉しかった。
 しかし、それから再び渡辺の姿も見られずに知は悲しかった。何もないということは、知の手紙の返事が二階と二階との短い会話だけだということであった。


 隣の二十号室に新しい患者が入った。井形が近く退院する頃になっていたので、フトと感じさせる寂しい雰囲気に明るくさせてくれるものがあった。
 知は屋上でエミによって紹介された。五時の屋上は気持ちが良かった。国道を走る自動車の光の流れが時折、顔をまぶしく照らした。薄闇に
「どうぞよろしく」
と、言った。知は黙って頭を下げた。その少女の顔を凝視しながらも、嬉しい表情を見せることが出来なかった。渡辺がこの病棟の勤務を離れてから、知は努めて寂しい表情を表していた。それが渡辺への忠誠であるかのように、思慕の強さを示すかのように。また、みんなへの名の知れない抵抗であった。
 美穂という十七歳の少女は、中学を卒業して会社勤めをしていた。美人という形容は出来なかったが、目が二重で大きく、厚い唇、血色のいい、結核の少女には似つかわしくなかった。
 
   
Posted at 12:09 / 文芸 / この記事のURL
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いしづえ 第二部(14) / 2010年04月02日(金)
保坂 祜

 昨日のことはもう終わっていた。新しい物を与えられて、その前にしていたことを忘れてしまう赤ん坊のように知も忘れた。枕元に置かれた絵はがきはそのまま残っていた。知はそれを開いてみようとはしなかった。開けばその中から気が発して窓の外に出、そのまま昨日までの持ち主の所へ戻ってしまい、中には本当の残骸しかなくなってしまうような気がした。その中には漂う、優しい心があるはずであった。
 いつものように顔を洗い、いつものように食事をとると、朝の安静時間を待って知は病室に戻った。しばらくすると、主任の看護婦が投薬を手伝わせながら、新しくこの病棟に勤務する三人の看護婦を連れてきた。三人ともに若かった。
 昼になって知は『あとで渡辺さんたちが来るよ』とエミに言われた。知はそういった事実をはまったく知らなかった。事前にエミと打ち合わせがしてあったらしかった。そのために知はエミの後を付かねばならなかった。


 午後の安静時間が終わるとさっそく二十一号室に入った。いつになったら来るのか知には分からなかった。必ずといって知が加わらねばならないこうしたことに、今日のことに限って知に語られなかったので、むくれながらも表情を出さずに喜んだ。渡辺に会えることは昨日とは違った新しい気持ちで嬉しかった。
 渡辺が来たのは五時頃であった。渡辺と鈴木のはしゃぐような声を聞いて廊下に出るといつの間に出たのかエミと準夜勤看護婦の山形の四人で話をしていた。知もそれに加わろうとして、輪に入ったが、ただ彼女らの話を聞くだけで話し出すことは出来なかった。渡辺は新館の産婦人科に行き、鈴木と那須は外科になったと言う。
 少しの間を見つけて知は
「赤ちゃん、可愛いかったでしょ」
と、渡辺に言ったが、それに
「泣かれるから嫌ね」
と、隣から言葉があった。鈴木の子どもっぽい語らいがみんなを笑わせた。山形が勤務で勤務室にちょくちょく入りその場を抜けたが、それが気にならないほどに余った間はなかった。
 

 その話も終わる頃、しばらく抜けた山形が、勤務室から出てきて知に言った。
「保坂君は金魚の糞ね」
「金魚の糞?」
「いつもエミさんの後を付けているでしょ」
「ひどいな」
「ひどいと思ったら気を付けることね」
 この会話に他の三人は気づかないようであった。坂の廊下を下りながら渡辺がバイバイと声を出して手を振った。そして、エミは病室に戻りながら、それに応えている。知は渡辺の姿を追うよりもエミの後を追った。
「別にいけないということじゃないのよ」
と、山形は二人に手を挙げながら付け加えた。


 夜の屋上は南風が吹いていた。生暖かい風が寝巻きの裾を吹き飛ばして、足にまとわり付いている。看護婦の寮を見ると、一階の開かれた窓から、一人の看護婦が眠っている顔を見ることが出来た。平穏な安らかな顔は知にとって不思議な気がした。知はこの日の渡辺の動静と山形の言葉を考えていた。
 知は確かに昨日まで見ていたのとは違った目で渡辺を見た。今まで終始会える立場から、ある一つの機会を持たない限りは話が出来ない、一瞬の目に触れることをも、渡辺の動静を知るのにおろそかに出来ない立場に移り、知には一瞬時もその目から視線を外すことは出来ない。知の交際範囲から他のグループに移っていった。渡辺にしても新しいグループを持っていった。この中から、渡辺と話の出来る機会をつかむことは容易ではないはずであった。
 まだ丸一日も経たないその出会いに、新しい感情を持って接しながら、何の話も出来なかったことは、知にとって渡辺という存在が非常に遠くなったように思えた。こうした遠い存在に甘えようとして日々を過ごすのはあまりにも馬鹿げていた。引き離れて自主的に行動を支配していこうする心を植えようとするのが、山形の言葉の示唆するところであると知は考えた。それの対象物は違ったとしても、エミよりも渡辺のこととして知は考えたかった。
 消灯の時間が迫ってきて屋上を降りた。一階の窓はまだ開いたままである。寝顔も見えた。知は寂しかった。、無心な表情で眠っている看護婦の顔が見えると、知にはその安らかさが信じられなく、その表情に虚偽を持つのではないかと思われた。
 
   
Posted at 07:30 / 文芸 / この記事のURL
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いしづえ 13 / 2010年03月15日(月)
 日勤の終わる四時になってインターフォンで、今日で勤務交代する三人の挨拶があった。全病室に笹原が前口上を述べた。そして、渡辺が『お大事になさ〜い』と言い、そのあと那須が短く言い、最後に鈴木が少し長く語った。
 そのあとに各病室にインターフォンを入れた。遠く二十六号室で対話しているのが聞こえたかと思うと、もう知の病室に入った。渡辺が『おっかない人がいなくなっていいでしょ』と言った。知は黙っていた。何もおっかなくはなかった。あんなに優しい渡辺が最後にそんなことを言うのをなじりたかった。
 その後を主任の笠原が『明日には新しい人が来るから寂しがらずに』と言ったことを話していた。インターフォンが十八号室に移ると知は病室を出た。そして、足の向くままに屋上に上った。空は薄日を持っていた。自然と渡辺とのこれまでのことが思い出された。今日で勤務交代すると分かっていながら、そして、もう会えないわけではなく、まだ同じ病院の下にいるというのに別れが辛くて涙がこぼれてきた。
 知は泣くのを止めようとした。空は大きかった。上を向いていると、涙のこぼれ落ちる所がなかった。知は止めた。もう夕食の時間であった。
 夕食を終えると知は二十六号室へ行った。昨日渡辺に言われて、そのまま白川の所へ行っていられなかった。二十六号室では西本が囲碁を打っていた。知はそれをじっと見ていた。知は囲碁は出来なかったが見ていれば、次に打つ場所を考えることが出来た。
 投薬に来た渡辺が碁盤を覗いた。
「碁石って何で出来ているか知っていますか」
と、誰に言うとはなしに言った。知は話もしたくなかったので返さなかった。誰もそれを答えなかった。何故か虚ろに余韻が響いた。碁石は貝ではなかった。
 帰り際に渡辺が言った。
「エミさんが、保坂君何処へ行ったろうって探していたわよ。一緒に帰ろう」
「私のペット、何処へ行ったかしら」
 本を読んでいた町田が言って笑った。みんなが笑った。知は渡辺に付いて行きたくなかった。町田にからかわれたからでもあったが、それ以上に知にとって、渡辺に渡辺以上に白川を大事な者と評価されるのが嫌であったからであった。暗黙のうちにでも渡辺にその思慕の強さを表現したかった。知は付いて行かなかった。


 消灯時は寂しかった。これで眠ってしまうと起きてからはこの病棟に来ないかと思うと眠れなかった。一度消した灯を再び点けて本を読み始めた。十時頃であったか坂の廊下を歩く人の足音で知は灯を消した。その足音が消えてまもなく、コツコツと小気味よい足音がして病室ののドアが開いた。薄明かりに渡辺だと分かった。渡辺は枕元まで来て、掛け布団を少し上げて、顔を覗かせた。
「あげるわね。明日になったら見るのよ」
 チラと包みを見せて枕元に置いた。知はもう甘えられないのかと考えると寂しかった。
「どうもありがとう」
「早く元気になるのよ」
「はい」
 知自身でさえびっくりするような力強い声であった。しかし、答えたものの、知には心の奥から熱いものが上がってきた。名前を呼びたくても声とはならなかった。渡辺が出て行くのをベットの中から見送ったが、出てしまうと、後から後から涙がこぼれてきた。鼻を詰まらせながら十一時半の巡視には起きていてさっと名を呼ぼうと思った。しかし、出てくる涙は起きていよう、起きていようとする頭を無視して知を眠らせてしまった。
 ガタとドアの開く音がして知は目を覚ました。はっとした知の心に映ったのは薄ぼんやりとした巨体であった。懐中電灯の光がサッと回ってドアが閉じられた。知は悔しかった。知の心にとって取り返しのつかない大失策であった。渡辺は最早この病棟にはいなかった。それっきり知は眠ることが出来なかった。白々とした光が窓を通して感じられてきた。朝までの何時間を冴えた頭で過ごしながら、一時間半を待てなかった自分を嘲笑いたかった。
 枕元の物を見ると、それは絵はがきであった。表紙には雄大な富士が浮かび、山中の湖がまだ暗かった。知は大事にしようと、それを手にした。ずっしりとした重さが知を現実に戻した。

          第一部 完
 
   
Posted at 06:59 / 文芸 / この記事のURL
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