ニキタ一人

May 07 [Tue], 2013, 17:45
イワン、デミトリチの左(ひだり)の方(はう)の隣(となり)は、猶太人(ジウ)のモイセイカであるが、右(みぎ)の方(はう)にゐる者(もの)は、全然(まるきり)意味(いみ)の無(な)い顏(かほ)をしてゐる、油切(あぶらぎ)つて、眞圓(まんまる)い農夫(のうふ)、疾(と)うから、思慮(しりよ)も、感覺(かんかく)も皆無(かいむ)になつて、動(うご)きもせぬ大食(おほぐ)ひな、不汚(ふけつ)極(きはま)る動物(どうぶつ)で、始終(しゞゆう)鼻(はな)を突(つ)くやうな、胸(むね)の惡(わる)くなる臭氣(しうき)を放(はな)つてゐる。
 彼(かれ)の身(み)の周(まは)りを掃除(さうぢ)するニキタは、其度(そのたび)に例(れい)の鐵拳(てつけん)を振(ふる)つては、力(ちから)の限(かぎ)り彼(かれ)を打(う)つのであるが、此(こ)の鈍(にぶ)き動物(どうぶつ)は、音(ね)をも立(た)てず、動(うご)きをもせず、眼(め)の色(いろ)にも何(なん)の感(かん)じをも現(あら)はさぬ。唯(たゞ)重(おも)い樽(たる)のやうに、少(すこ)し蹌踉(よろけ)るのは見(み)るのも氣味(きみ)が惡(わる)い位(くらゐ)。
 六號室(がうしつ)の第(だい)五番目(ばんめ)は、元來(もと)郵便局(いうびんきよく)とやらに勤(つと)めた男(をとこ)で、氣(き)の善(い)いやうな、少(すこ)し狡猾(ずる)いやうな、脊(せ)の低(ひく)い、瘠(や)せたブロンヂンの、利發(りかう)らしい瞭然(はつきり)とした愉快(ゆくわい)な眼付(めつき)、些(ちよつ)と見(み)ると恰(まる)で正氣(しやうき)のやうである。彼(かれ)は何(なに)か大切(たいせつ)な祕密(ひみつ)な物(もの)を有(も)つてゐると云(い)ふやうな風(ふう)をしてゐる。枕(まくら)の下(した)や、寐臺(ねだい)の何處(どこ)かに、何(なに)かをそツと隱(かく)して置(お)く、其(そ)れは盜(ぬす)まれるとか、奪(うば)はれるとか、云(い)ふ氣遣(きづかひ)の爲(た)めではなく人(ひと)に見(み)られるのが恥(はづ)かしいのでさうして隱(かく)して置(お)く物(もの)がある。時々(とき/″\)同室(どうしつ)の者等(ものら)に脊(せ)を向(む)けて、獨(ひとり)窓(まど)の所(ところ)に立(た)つて、何(なに)かを胸(むね)に着(つ)けて、頭(かしら)を屈(かゞ)めて熟視(みい)つてゐる樣子(やうす)。誰(たれ)か若(も)し近着(ちかづき)でもすれば、極(きまり)惡(わる)さうに急(いそ)いで胸(むね)から何(なに)かを取(と)つて隱(かく)して了(しま)ふ。然(しか)し其祕密(そのひみつ)は直(すぐ)に解(わか)るのである。
『私(わたくし)をお祝(いは)ひなすつて下(くだ)さい。』
と、彼(かれ)は時々(とき/″\)イワン、デミトリチに云(い)ふことがある。
『私(わたくし)は第(だい)二等(とう)のスタニスラウの勳章(くんしやう)を貰(もら)ひました。此(こ)の第(だい)二等(とう)の勳章(くんしやう)は、全體(ぜんたい)なら外國人(ぐわいこくじん)でなければ貰(もら)へないのですが、私(わたくし)には其(そ)の、特別(とくべつ)を以(もつ)てね、例外(れいぐわい)と見(み)えます。』
と、彼(かれ)は訝(いぶ)かるやうに些(ちよつ)と眉(まゆ)を寄(よ)せて微笑(びせう)する。
『實(じつ)を申(まを)しますと、是(これ)はちと意外(いぐわい)でしたので。』
『私(わたくし)は奈何(どう)もさう云(い)ふものに就(つ)いては、全然(まるで)解(わか)らんのです。』
と、イワン、デミトリチは愁(うれ)はしさうに答(こた)へる。
『然(しか)し私(わたくし)が早晩(さうばん)手(て)に入(い)れやうと思(おも)ひますのは、何(なん)だか知(し)つておゐでになりますか。』
 先(もと)の郵便局員(いうびんきよくゐん)は、さも狡猾(ずる)さうに眼(め)を細(ほそ)めて云(い)ふ。
『私(わたくし)は屹度(きつと)此度(こんど)は瑞典(スウエーデン)の北極星(ほくきよくせい)の勳章(くんしやう)を貰(もら)はうと思(おも)つて居(を)るです、其勳章(そのくんしやう)こそは骨(ほね)を折(を)る甲斐(かひ)のあるものです。白(しろ)い十字架(じか)に、黒(くろ)リボンの附(つ)いた、其(そ)れは立派(りつぱ)です。』
 此(こ)の六號室程(がうしつほど)單調(たんてう)な生活(せいくわつ)は、何處(どこ)を尋(たづ)ねても無(な)いであらう。朝(あさ)には患者等(くわんじやら)は、中風患者(ちゆうぶくわんじや)と、油切(あぶらぎ)つた農夫(のうふ)との外(ほか)は皆(みんな)玄關(げんくわん)に行(い)つて、一つ大盥(おほだらひ)で顏(かほ)を洗(あら)ひ、病院服(びやうゐんふく)の裾(すそ)で拭(ふ)き、ニキタが本院(ほんゐん)から運(はこ)んで來(く)る、一杯(ぱい)に定(さだ)められたる茶(ちや)を錫(すゞ)の器(うつは)で啜(すゝ)るのである。正午(ひる)には酢(す)く漬(つ)けた玉菜(たまな)の牛肉汁(にくじる)と、飯(めし)とで食事(しよくじ)をする。晩(ばん)には晝食(ひるめし)の餘(あま)りの飯(めし)を食(た)べるので。其間(そのあひだ)は横(よこ)になるとも、睡(ねむ)るとも、空(そら)を眺(なが)めるとも、室(へや)の隅(すみ)から隅(すみ)へ歩(ある)くとも、恁(か)うして毎日(まいにち)を送(おく)つてゐる。
 新(あたら)しい人(ひと)の顏(かほ)は六號室(がうしつ)では絶(た)えて見(み)ぬ。院長(ゐんちやう)アンドレイ、エヒミチは新(あらた)な瘋癲患者(ふうてんくわんじや)はもう疾(と)くより入院(にふゐん)せしめぬから。又(また)誰(ゝれ)とて這麼瘋癲者(こんなふうてんしや)の室(へや)に參觀(さんくわん)に來(く)る者(もの)も無(な)いから。唯(たゞ)二ヶ月(げつ)に一度(ど)丈(だ)け、理髮師(とこや)のセミヨン、ラザリチ計(ばか)り此(こゝ)へ來(く)る、其男(そのをとこ)は毎(いつ)も醉(よ)つてニコ/\しながら遣(や)つて來(き)て、ニキタに手傳(てつだ)はせて髮(かみ)を刈(か)る、彼(かれ)が見(み)えると患者等(くわんじやら)は囂々(がや/\)と云(い)つて騷(さわ)ぎ出(だ)す。
 恁(か)く患者等(くわんじやら)は理髮師(とこや)の外(ほか)には、唯(たゞ)ニキタ一人(ひとり)、其(そ)れより外(ほか)には誰(たれ)に遇(あ)ふことも、誰(たれ)を見(み)ることも叶(かな)はぬ運命(うんめい)に定(さだ)められてゐた。
 しかるに近頃(ちかごろ)に至(いた)つて不思議(ふしぎ)な評判(ひやうばん)が院内(ゐんない)に傳(つた)はつた。
 院長(ゐんちやう)が六號室(がうしつ)に足繁(あしゝげ)く訪問(はうもん)し出(だ)したとの風評(ひやうばん)。





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