あるBOSSのうた
2007.03.25 [Sun] 11:31

二十年前、大阪
ジムでの練習を終えた私は、当時中学を出たばかりの
その少年と二人でメシを食っていた。

少年の話を聞いているうち
ふと私の意識の中に少年の二十年後(つまり現在)の姿
が あらわれた。
時々起ることだが、とくに超能力めいたことではないと
自分では思っている。
何気なく口にする 人の未来の姿が現実のものになったりするので
「預言者」などとあだ名されるのだが、
こういうのは、人間の中に普通に備わっている“感じる力”
なのだろうと考えている。

何事もバランスであるから
頭脳(知識)に偏り過ぎると感性を鈍らせてしまうことが
あるのかもしれない。
‘Don’t think. FEEL!’という李小龍の言葉も
頭で考え過ぎて、感じる心を鈍らせてはいけない という
メッセージなのだろう。

     話を元に戻そう

その少年の未来の姿は私の中に強烈に迫ってきた。


練習を終えジムからの帰り道で、ショーウインドーや窓ガラスに
映る自分の姿を見つけると自然に体が動きシャドーボクシング、
アパートに帰ればボクシングビデオでシュガーレイ・レナードや
マービン・ハグラーのボクシングについて楽しく解説してくれる少年。
  (ボクシングマニアでない私はその時少年の部屋で初めて
     ハグラーのボクシングを観たのだが、ボクシングを始めて
       一か月そこらの少年の左ジャブがハグラーのそれと同じ
            だと知り少々驚いた)

早い時間からジムの終了時間まで練習し続け、練習後もずっと
ボクシングの話と動きをしているその少年はもう
「ボクシングが好き」などという言葉を超え、少年そのものが
“ボクシングの塊”なのだと私は感じた。

ありふれた言い方しか思いつかないが、少年はボクシングが死ぬほど好きなのだ。
死んでもいい(命を懸けてもいい)ほど何かを好きになるということは
この世に生れて何度も体験できるものではないだろう。


世にボクシングファンはごまんといる。
しかし命を懸けてボクシングが好きな人というのはどれくらいいるだろうか?

二十年後 少年の現役続行に対して批判的な声も聞こえてくる。
その声の根源にあるものは何なのだろう?
少年の身を案じる気持ち?
それとも「自分の中にある“ヒーロー像”を壊されたくない」という我慾?


「内容ある試合を観たい」というファンのわがままと
「試合を続けたい」という選手のわがまま
どちらが勝るものなのか私には判らない。

ただ
何かを“死ぬほど好き”な者に対して
それほど(死ぬほどには)好きでない者が
忠告したり批判したりすることには違和感を覚えるのだ。


のちに「浪速のジョー」と呼ばれることになるその少年には現在
逞しい息子たちがいる。
長男は、私が初めて会った時の少年と同い年となり
父と同じボクサーという生き方を選んだ。


私よりも6歳若いジョーの生き方に心から敬意を表す。



  <追記>
         最近私は網膜裂孔による両目の手術を行った。
         彼も世界をとった後、網膜裂孔をやっている。
         同じ手術ということで大阪から電話をくれた。
         彼の、乱暴そうに聞こえる言葉の奥の優しさは
         出会ったころと何も変わらない。
 

あるBOSSのへや
2007.03.25 [Sun] 11:00















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あるBOSSのうた
2007.03.25 [Sun] 10:55

                 


                   時々、絵を描くBOSS


              




                  時々、ギターを弾くBOSS









 

あるBOSSのうた
2007.03.25 [Sun] 10:50



“考える”こと

自身の体の動き 心の動きについて



考えて練習すること


考えて考えて体を動かし

考えて考えて考えて動く


そして考えて考えて考えて考えたら、
その考えを“捨てる”こと



 

あるBOSSのうた
2007.03.25 [Sun] 10:06